朱風の企画もの置き場

灰ノ木朱風@「あやかし甘露絵巻」発売中!

第5回匿名短編コンテスト・過去編

とある船乗りの帰郷

 船首は黒い海面を割り、逆巻く怒涛の合間をく。

 空は鉛色、縫い目のない分厚い雲が低く垂れ込めていた。間もなく嵐になるだろう。



 ――帆を畳め!



 びゅうびゅうと頬を殴る風にそう言いかけて、男はおっと、と口をつぐんだ。男が乗るのは小さな小さなはこ。今更焦ったところで状況はさほど変わるまい。

“大海の覇者”の二つ名を持つ男は余裕綽々、天を仰いだ。戯れに船歌を口ずさめば、閉ざされた重たい雲の緞帳どんちょうの向こう、彼方の地へと心は飛んでいく。



 ――この航海が終われば、しばし休息するとしよう。血沸き肉躍る冒険も、苦難の果ての栄光も、全ておさらばだ。いくら“大海の覇者”つったって、海のど真ん中で凪に捕まって干からびかけるのも、海魔セイレーンの跋扈する海域を耳栓無しで抜けるのも、もう御免だぜ。少しくらい、ゆっくりさせろよな。

 ああ、それでさ。懐かしいあの地を踏めば、久しぶりにあいつに会える。先々の港で交わした情熱的な一夜は数あれど、後にも先にも俺が愛した唯一の女。

 その髪は真昼の光を映して揺蕩たゆたう黄金の波。その瞳は遠海とおみよりも深い夜明けの静寂しじま。人魚も裸足で逃げ出すとびきりの女さ。

 ――たとえが海ばかりだって?

 しょうがねえだろ。

 そういやいつだったか、あいつがやけに凝った銀の刺繍入りドレスを誂えてめかし込んだことがあってよ。いわしみてえだな、つったら殴られたな。

 女心ってのは、星見よりも難解だ。鰯の魚群を見たことねえのか? 海面一帯を銀の輝きが埋め尽くしてさ。――綺麗、なんだよ。



 どぉん!



 横腹を抉る震動に、男の意識は引き戻される。

 ああ、海の女神が嫉妬してやがるな、と被り慣れたフエルトの三角帽子の奥で彼は笑った。

 張り詰めた鈍色の空が自重に耐えきれず、ぽたり、と落ちて男の頬を濡らした。波はいよいよ高くなって船首を乱暴に押し上げる。

 男はぐわんぐわんと激しく揺れる身体を気にも留めず、フロックコートの隠しを探ろうとして……盛大に舌打ちした。



 ――クソ、煙草が入ってねえ。あいつら、俺の船出に煙草を忘れやがった!

 ったく、最期まで肝心なところが抜けてる奴らだ。……可愛い部下共。



 男は一服を諦め、再び曇天と顔を突き合わせる。ぱた、ぱた、と水のつぶてが不規則に落ちて頬を打つのに任せていると、あっという間に空の底は決壊し、滝のごとき大雨となった。辺りを暗闇が支配し、海面を激しく叩いた飛沫だけが白く煙って視界を遮った。

 そして、次の瞬間。波の頂に乗り上げた小船は、稲光と共に谷底に叩き付けられた。黒波の塊に木っ端と圧し潰され、船は真っ二つに砕け散る。そしてそのまま、積み荷と共に海中に没した。



 船。それは、男の棺。

 積み荷。それは、かつて“大海の覇者”と呼ばれた男の老いさらばえた遺体と彼の副葬品。



 懐中時計、航海日誌、異国の文様が刻まれた金の腕輪――。

 崩壊したひつぎの合間から、男の人生の軌跡がばらばらと零れ落ち海底へ沈んでゆく。荒れ狂う海上の嵐が嘘のように、水中には音もなく、色も無かった。

 重たく揺れるモノクロの闇の中、沈みゆく男の皺立った手に、そっと、何かが触れた。



 ――アリシア。



 男がその名を呼んだ時。海中を覆う静寂に、ぴしりと一本の亀裂が入った。水のうねりがひび割れを抉じ開けると、その隙間から目映い光が差し込んで、闇は硝子ガラスのように一斉に砕けて割れた。

 途端に一帯は、あかるさに満ちた。海底から立ち上る泡は七色のきらめきを孕み、弾けて、色を失くしたはずの深海に溢れた。

 青藍サファイア淡黄トパーズ緑翠エメラルド蛍白オパール真紅ルビー深紫アメジスト。そして黄金インゴット

 かつて男が求め、国へ持ち帰ったあらゆる財宝。その全てが眩しくさんざめき、男の道行きを照らした。



 ――ああ、俺の、たったひとりの宝石ひと



 男が光に手を伸ばす。黄金の波はゆらりと優しく揺らめくと、その両腕を広げ、航海を終えた男をふところに抱いた。

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