第五章 -Listening in the...- たった一つの

 ――そこから先の出来事は、一体どう表現すればいいのか分からない。


 私の、いやきっと人が持ち得る矮小な言葉では、とても表せるような現象じゃなかった。

 

 彼が小さな爪で弦を弾くと、一つ一つの音が、まるでこの世に新しく産み落とされる命のように喜びを運んでくる。


 彼が金具の先に取り付けられた笛に口を当てると、すぐに柔らかい音色が溢れ出し、弦から紡ぎ出された命を優しく包み込んでくる。


 この世にこんな演奏があっていいのかと、いやこれを演奏と呼ぶなら、これまで私が聴いてきたのは一体何だったんだと、思わずそんな理不尽な憤りさえ覚えてしまう程に、完成された技術と成熟された美しさがそこにはあった。


(知らない……。私はこんな曲を、演奏を、音楽を……、知らない)


 私の体はさっきから震えが止まらず、全身が鳥肌に包まれているにも関わらず、胸の中は陽の光の様な暖かさに満ち満ちているという、理解不能な矛盾に支配されていた。

 けれど今でさえそんな状態の私が、実はまだ本当の演奏は始まってなかったと、更なる絶望と歓喜に同時に弄ばれる事になったのは、彼が歌い始めてからだった。


 私の知る歌とは、どちらかと言えば語りに近い。

 リュートの音色に合わせ、遥か昔の神話や、遠い異国の英雄譚を人々に伝える。


 でも今彼の口から溢れ出したのは、決して語りなんていう生易しい物じゃなかった。

 もう自体が神の創り賜うた一つの奇跡と言ってもいい。

 彼の歌声は容赦なく私の全身を震わせ、背中から後頭部にかけて恍惚とした甘い痺れを与えてくれる。


 彼の奏でる楽器や笛の技術も、全く私の理解が及ばない、遠くかけ離れた次元にある磨き上げられた至高の芸術だ。

 それなのに、彼の歌もまた、それらの演奏技術と等しい次元にまで昇華された、一つの御業みわざだった。


 それはもう魔法と言ってもいい。

 それら全てが、まるで初めから一つの楽器であったかの様に、絡み合い、混ざり合い、渾然一体となって私を揺さぶり続ける。


(これが……、歌……。これが……、音楽……)


 自分でも気付かない内に、私の両目からは後から後からとめどなく涙が流れていた。


 どうしようもない程の狂喜にも似た感動に、彼と巡り合わせてくれた奇跡に、今は亡き音楽神様でもいい、導いてくれたミナストス様でもいい、お隠れになってしまったというメア神様でもいい、とにかく誰でもいいから感謝の祈りを捧げたかった。


(彼は……、一体、何者なの……?)


 音楽神イチハ様が復活された、と言われてもきっと私は信じたと思う。


 そしてその時になって、ようやく分かった事があった。


 彼は低位のスライムにも手が出ない程だった。

 魔術も何一つ使えない。

 そしてその適性も持ってない。

 丘の上り下りでさえも、一人では苦労したと思う。

 スキルの使い方が分からない、とも言っていた。

 もちろん私はそんな事は一切気にせず、一緒に旅をしようと彼を誘った。


 けれど私は、一番根本の部分で大きな誤解をしていた。

 いや、全く理解していなかった。



 彼は何も出来なかったんじゃない。

 

 しか出来なかったんだ。


 当然の事だった。

 たった一つの事を、ここまで研鑚に研鑚を重ねて、磨き上げてきたんだ。

 他の事をやっている余裕なんてあるわけがない。

 ずっと魔術を続けてきた私なら少しは分かる。

 とは言っても、多少は理解出来るというだけで、彼がその為に費やした時間や、傾けてきた情熱は、想像する事すら出来ない。


 これでようやく彼の左手の事も納得がいった。

 あれは彼が今奏でている楽器の弦を、押さえ続ける事で出来た物だ。

 それだけあの楽器と時間を共にしているって事だろう。



 ああ……、この人は、なんて楽しそうに楽器を奏でるんだろう……。

 

 なんて嬉しそうに歌うんだろう……。


 このまま、ずっと、ずっと彼の歌を聴いていられたらいいのに……。



 それは『キーッ』という、とても小さな耳鳴りが聞こえた直後だった。

 

 ――


 それまでの演奏が、私達の周囲に揺蕩たゆたうせせらぎだとするなら、それは周囲を丸ごと呑み込む音の激流。

 膨大な音の波が、私を、木々を、草原を、夜空を、容赦なく呑み込んでいく。


 そしてその音の奔流に合わせて、一瞬にして辺り一面が鮮やかな虹色に染まる。


 彼を中心にして、次から次へと光の柱が立ち上る。


(まさか……、精霊……!?)


 水精霊の青、土精霊の黄、風精霊の緑、火精霊の赤、光精霊の金や闇精霊の濃紺まで、ありとあらゆる精霊が光の柱となって闇夜を照らし出す。


 ある色は同じ色で集まり、ある色は別の色と混ざり合い、新たな色へと姿を変える。

 

 それら見渡す限りの全ての光の波が、彼の演奏に合わせて上へ下へ、右へ左へと飛び交い、彼の歌に合わせて嬉しそうに舞い踊る。


(精霊達が……、喜んでる……?)


 今や数千、いや数万数十万にも膨れ上がった精霊の光は、嬉しそうに、楽しそうに、大きな大きな光のうねりとなって辺り一面を覆い尽くす。


 彼の楽器に合わせて飛び跳ね、彼の笛の音に合わせてユラユラと揺らめき、彼の歌に合わせて踊る。



 私はただただ、その現実離れした夢の様な光景に圧倒され、イッチーさんの紡ぎ出す音楽に魅了され、魂が抜けたように呆然と佇んでいる事しか出来なかった。



 ――私の両目からは、いつ止むとも知れない涙が、後から後から溢れ続けていた……。

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