List.05 -ルージュの伝言- ポヨポヨ
――それからの僕は、聴くだけではなく、ギターを鳴らし歌を歌う、という新しい遊びに取り憑かれた。
当然ギターの仕組みも何も知らない僕は、兄がギターと共にくれた数冊のギター教本を元に、コードやギターの仕組みを学んでいった。
英語など分かるわけもない僕は、CDに付いている歌詞カードを、兄の貸してくれた辞書を片手に眺めた。
それでも分からない部分に関しては、自分の耳に聞こえるまま、それっぽく誤魔化して歌っていた。
それでもどうやら僕は非常に耳が良かったらしい。
『耳コピ』と言う単語も後に知ることになったが、自分自身がうまいか下手かも興味なく、ただ自分のやりたい事をやりたいようにやっていただけの僕は、CDから聞こえるままにコードを起こし、CDから聞こえるままに声を乗せていた。
そんな僕を見ると、兄は決まって「うまい、多分お前は才能あるよ」と褒めてくれたのを良く覚えている。
時には(なんとなくこんな歌なんじゃないかな)という予想で、勝手に日本語の歌詞に変えたりして、自分の歌いやすいように歌ったりしている事もあった。
そんな時でも兄は、決して馬鹿にしたり鼻で笑ったりする事もなく、「これはこうこうこういう事を歌っている歌だから、多分こんな感じの表現で歌ってるんじゃないかな」とアドバイスをくれたりもした。
そんな僕の左手の指先は、中学に上がる頃には、弦ダコですっかりと固くなっていたのである。
――そして中学に上がり、そろそろ学校にも慣れてきたかな、という5月の半ば。
もし兄との事も出会いと呼ぶならば、僕にとって2度目の運命の出会いを迎えることになる。
「失礼しました」
そう言い残し職員室での用事を済ませた僕は、(そう言えば今日はローズの新しいアルバムの発売日だ。多分兄さんが買ってるだろうから、帰ったら聴かせてもらおう)なんて事を考えながら、若干足早に歩き出す。
特に部活にも参加していなかった僕には、この後用事があるわけでもなく、後は一度教室に戻りカバンを取ったら、そのまま家に帰るだけだった。
その時、ふと耳慣れた音が聞こえた気がして足を止める。
目を閉じ音の正体を探る。
グラウンドから聞こえてくるバットの甲高い音。
道場から聞こえてくる生徒達の揃った掛け声。
体育館から聞こえてくるシューズが床を擦る鳴き声。
それらの音の中に混ざって、いつもの耳慣れた音よりはもう少しだけ柔らかい、ピックではなく指で弾く独特の、ポロンポロンという感じの音が聞こえてくる。
「クラシックだ」
(そう言えば、旧音楽室には何本かクラシックギターが置いてあったな)
入学して暫くしてから、新しいクラスメイト何人かで、『校内探索』という名の元に学校内を練り歩いた時、たまたま見つけた旧音楽室にあった古いクラシックギターを思い出す。
(吹奏楽部とかの部活動は、新校舎の新しい音楽室で活動しているはずだから、この時間に旧校舎側の音楽室に用のある人間なんて、まずいないと思うんだけど……)
そんな事を考えながらも、自然と僕の足は、滅多に足を踏み入れる事もない旧校舎へと向かっていた。
別にギターの音が珍しかったわけではもちろんない。
それならば毎日自分の弾くギターの音を、これでもかというぐらい聞いている。
クラシックギターという、ジャンルの違うギターの音に興味を持ったわけでもない。
いや、正確にはギターに限らず全ての楽器に興味はあるが、この時旧音楽室に足を向けた理由はそれではなかった。
では一体何が僕の足を旧音楽室へと向けたのか。
「やっぱりそうだ。オーバー・ザ・ムーンだ」
音源に近付くにつれ鮮明になるギターの音と、時折その音に乗って聞こえてくる、鼻歌のような小さな歌声を聞いて僕は確信する。
コアなファンが多い事で有名な、イギリス出身の4人組ハードロックバンド『プレシャス』。
今では代表作ではあるが、元々アルバムに収録されていた曲ですらない。
全米ツアー中のライブで初披露された曲で、その後ファンの熱烈な要望によりシングルリリースされる事になる名曲『オーバー・ザ・ムーン』。
僕の足を止め、この旧音楽室へと引き寄せた音の正体は、この『オーバー・ザ・ムーン』のメロディーだった。
扉の小さなガラス窓から中を覗くと、
そこには目を閉じフィンガーでギターを爪弾きながら、歌を口ずさむ女性の姿が見えた。
(確か、音楽教諭の
特別美人というわけでもないが、巨乳メガネにやや天然という属性に加え、人当たりの良い柔らかい性格で、男女共にかなり人気のある先生だったはずだ。
先輩や女子達からは【チエちゃん先生】と呼ばれていた気がする。
もちろん正確な年齢までは知らないが、まだ先生になって間もないという話なので、恐らくは20代半ば、見た感じ後半という事はないと思う。
邪魔する気はなかったので大人しく演奏を楽しんでいると、たまたまふと顔を上げた先生と目が合った。
先生は一瞬固まった後、バツが悪そうに苦笑いを浮かべると、ギターを下ろしてからチョイチョイと僕を手招きした。
ここで立ち去るのもおかしな話なので、僕は素直にお招きにあずかることにして、教室の扉を開けた。
「えっと……、聴いてた……?」
教室に入り近くまで行くと、先生はちょっと悩んだ後そう口にした。
「はい。邪魔するつもりはなかったんですけど、すいません」
「それは別にいいんだけど……。 えーっと……、今のはその……」
「オーバー・ザ・ムーンですよね? プレシャスの」
僕は先生が何かを言い淀んでる間に、言葉を遮ってそう聞いた。
先生は心底意外そうな顔をした後、いたずらを見つかった子供のように、何をどう言い訳しようか悩んでいる風だったが、僕は構わず続ける。
「でも、あれって先生のオリジナルアレンジですか? 原曲はどっちかって言うとハード寄りのロックなのに、あんなバラード風にアレンジするとか凄いですね。原曲も良いけど、あれはあれで違った良さがあるって言うか、正直滅茶苦茶カッコよかったです。あれってングっ!?」
今度は僕の方が言葉を遮られた。と言うか柔らかいポヨポヨに埋まっていた。
「分かってくれる人がいるとは思わなかった! 皆ジャズアレンジなんてプレシャスの曲には合わないとか、邪道だとか、原曲の良さが分かってないとか、もう文句ばっかりで誰も分かってくれなくて」
興奮しているのか、僕の頭を自分の胸元に抱きしめたまま一気にそうまくし立てた。
「と、とりあえず落ち着いてください……。当たってます、当たってます」
僕としては一向に構わないのだが、どうにか理性を保ってそう伝えると
「え?」
と一言漏らしてから、しばしの硬直の後、ガバッと自分が座っていた椅子まで飛び退った。
――コホン、と小さく一つ咳払いをしてから
「ご、ごめんなさい。私のアレンジ褒めてもらえたの初めてだったから……、その……、つい、嬉しくて……」
赤くなりながら必死にそう言い訳する先生だが、そんな様子を見て怒る気になる人間がいたら、逆に見てみたいものである。
(なるほど。こういう所が人気のわけなんだろうな)
「いえ、その。こちらこそ……ありがとうございました」
「えっ?」
「えっ?」
思わずお礼を言ってしまった。
「いやっ、そのあれですよ……演奏。そう、演奏。素敵な演奏を聴かせてくれてありがとうございました、って意味ですよ」
「そんな、いつものノリで弾き流してただけだから。別にお礼を言われるほどのものじゃないし」
パタパタと手を振りながらそう言いつつも、演奏を褒められたのが嬉しかったのか、満更でもなさそうだ。
「そう言えばジャズアレンジって言ってましたけど、あれってジャズアレンジなんですか? 僕ロック以外はよく知らないんで」
「うん。うちはお父さんもお母さんもジャズをやっててね。その影響もあって、私も小さい頃から2人に教えてもらってたの」
「ならプレシャスは一体どうやって?」
ジャズアレンジについては分かったけど、それなら尚更プレシャスとイメージが繋がらない。
「あ~、えーとそれは、実は私、高校大学はずっと軽音をやっててね。その頃から友達の影響もあって、海外のロックバンドにも興味を持つようになって。大学時代はバンドもやっててね。こう見えてもリードギターだったのよ」
なにがこう見えてなのかは分からないが、先生はそこでエッヘンといった感じで胸を反らせた。
(うん、確かに大きい。でもギター弾く時、邪魔になったりしないのかな?)
なんてアホな事を考えていると
「それで、えーっと……、君は、確か……」
口元に人差し指を当てるようにして小首を傾げると、何かを思い出そうとしている様に見えた。
「あ、太一です。市原太一。イッチーでも構わないですけど」
多分そういう事だろうと思い、先回りして自己紹介する。
(なにせ僕らが入学してからまだ3ヶ月も経ってない。名前を覚えてなくても当然だろう)
「ありがとう。イッチー君、はさすがにマズイから市原君ね。それで市原君はどうしてプレシャスの、しかもオーバー・ザ・ムーンなんて知ってるの? 割とマイナーな曲だと思うけど」
「僕は兄の影響で。兄が海外アーティストのCDを山のように持ってて、それで色々教えてもらった感じですね」
「へ~、お兄さんの。色々ってお兄さんはどんなのが好きなの?」
最近の兄のお気に入りを思い浮かべてみる。
「……最近はパンク、メタルにも手を出してるらしくて。プレシャスもそうですけど、後は『キラー・ビー』とか『キャタピラーズ』なんかも良く聴いてますね」
「えっ! じゃ、じゃあもしかして、プレシャスのライヴビデオとか、キラー・ビーのライヴアルバムなんかも持ってたりする!?」
パッっと一気に距離を詰めると、僕の手を握り締め、目をキラキラさせながらにじり寄ってくる。
(近い、近い……)
「えーっと、ビデオは聞いてみないと分からないけど、キラー・ビーのライヴアルバムは確か持ってたはずです。日本じゃ売ってないからかなり入手に苦労した、みたいな事言ってましたから」
年上の女性に、顔が付きそうなぐらいの距離で見つめられ、内心ドギマギしていたが、なるべく平静を装ってそう答えると
「ほ、ほんとに!? お、お兄さんとお友達になりたいなぁ~なんて……。あっ、それは無理でも、CDを貸してもらえたら嬉しいなぁ、なんて思ってみたりみなかったり?」
(なぜ疑問形……)
「はい、多分どっちも大丈夫だと思いますけど。兄も周りに同じ趣味の人間がいなくてつまらないみたいですから」
「きゃ~。日本のアルバムだと、あのライヴの曲1曲しか入ってなくてね! どうしても聴きたかったの!」
そして僕はまたポヨポヨに埋没していた。
(もういいか……、気持ちいいし……)
僕は抵抗するのを諦めたのだった……。
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