List.05 -ルージュの伝言- チエちゃん先生

 ようやく落ち着いた先生のポヨポヨから開放されると、僕はさっきから考えていた事を口にする。


「先生、別にその代わりとかってわけじゃないんですけど、もし良かったら僕にギターを教えてくれませんか?」

「え? ギターってジャズをって事?」

「いや、正直それは僕的には何でもいいんです。ロックとかジャズとか、その辺りのジャンル的な事を、そもそも僕はあまり分かってないですし。何をって言うなら、多分……音楽を、って事になるのかな?」


 少しだけ何かを考えた後、先生は何か思いついたのか


「左手を見せてもらってもいい?」


 僕にそう聞いてきた。


「はい、別に構いませんけど」


 そう言って左手を差し出すと、手相を見るような仕草で暫く左手を眺めてから


「もしかして市原君もギター弾けるの?」


 次に顔を上げた時、何かに納得したような笑顔で、先生は僕にそう尋ねてきた。


「クラシックは触った事ないですけど、アコギなら一応。って言っても100%我流なんで、それを弾けるって言っていいのかは分からないですけど」

「弾いてみる?」

「いいんですか?」

「そりゃもちろん。別に私のギターってわけでもないし、むしろどっちかと言えば生徒の為のギターでしょう?」


(言われてみれば確かにその通りだ)


「クラシックは少しネックが幅広で薄いの。でもアコギに比べて弦は柔らかいし、多分慣れたらアコギよりも弾きやすいと思うわよ」


 そう言って、横に置かれていたクラシックギターを僕に手渡してくれた。


 産まれて初めて持ったクラシックギターの第一印象は、(軽いな)だった。

 先生が出してくれた椅子に腰掛け、ネックに左手を回すと確かにネックの幅が広い。

オベーションのネックが厚め、と言うか三角に近い形状をしてるせいなのか、幅よりもそのネックの薄さの方が気になった。

 ボディも小さいので、ポジションを決めるのにも少し手間取る。

 でも確かに先生が言うように、アコギの弦と違い柔らかいナイロン弦は、押さえる分にはむしろアコギよりも楽に感じた。


 いくつかコードを鳴らして感触を確かめてから、そっと目を閉じる。


 さっきまで聴いていた先生のアレンジを、頭の中で再生し音を拾う。

 そして拾った音をギターに乗せていく。

 いつもやっている事なので、この時は全く意識していなかったが、よくよく考えてみれば、兄以外の前で演奏をするのはこの時が初めてだった。


 イメージさえ出来てしまえば、後は逆の作業をするだけだ。

 さっきの先生のアレンジを意識しながら、あまり得意ではないがフィンガーで弦を鳴らし、歌詞が良く分からない所は適当にハミングで誤魔化しながら、歌を被せていく。


(うん、やっぱりこれカッコイイ)


 今まで全く自分が知らなかった弾き方や、音の出し方に少しの違和感と、それ以上の感動を覚えながら、意識的にゆっくりと曲を進めていく。

 先生の演奏は、さっき自分が途中で止めてしまったので、そこから先は残ったイメージと、自分自身の中にあるバリエーションを掻き集めて演奏を続ける。


 曲が終わる頃には、最初にあったクラシックギターへの抵抗も、完全に無くなっていた。



 ――最後のコードを鳴らし、その残響も消える頃


「えっと、こんな感じでしたっけ……?」


 ようやくそこで、聴いている人がいた事を思い出し、恐る恐る聞いてみる。


「先生?」


 先生は僕がもう一度声を掛けるまで、ゆうに30秒はポカンとした後、更にもう30秒程放心してから


「……凄い……」


と、小さく呟いた。


「……はい?」


 声が小さすぎて良く聞き取れなかった僕は、もう一度問いかけると、今度は


「凄い! 凄いよ、市原君! えっ、ちょっと待って!? さっきの私の演奏一回聴いただけで今のやったの?? でも一回聴いただけで……完コピ……? クラシックギターは初めてって言ってたよね? ギターは何年ぐらいやってるの? ヴォイストレーニングとかは受けてるの?」


 と、マシンガンのような勢いで、矢継ぎ早に質問をぶつけてきた。


「いや……先生……、ちょっと落ち着いてください。そんな一度に色々聞かれても、わけ分からないです」


 軽く引きながら僕がそう返すと


「あっ……。ごめんなさい」


 ようやく我に返ったらしく、一つだけフーっと大きく息を吐くと、今度は落ち着いた声で


「耳コピ出来るの?」


 と聞いてきた。


「耳コピ? って何ですか?」

「えーっと、聴いた曲なんかの音を拾って、歌や楽器に乗せて再現する事って言えばいいのかな」

「ああ、それならいつもやってます。と言うかそれしかやった事ないですけど」

「なるほどね。市原君は凄く耳が良いんだろうね。絶対音感かな」

「絶対音感……?」

「あ、ううん。今のはこっちの話だから気にしないで」

「はぁ……」


 今なら分かるけど、恐らくこの時先生は、僕が変に意識しないように誘導してくれたんだと思う。

 絶対音感なんて、よくカッコ良い物のように誤解されがちだが、実はあまり良い事ばかりでもない。

 一度意識してしまうと、ありとあらゆる音が音階で聞こえるようになってしまい、うまく意識から切り離せないと、最悪音で酔ったりもする。

 多分先生は知識としてその事を知っていて、うまく回避してくれたんだろう。


「それでギターはいつから?」

「えーっと……、小学5年の時からだから、大体2年ぐらいですね」

「独学って言ってたっけ?」

「兄がギターと一緒にくれた教本があるんで、一応最初はそれを見ながらですけど」

「に、2年で……? しかも独学で……いや、でも2年あれば……。やっぱり子供の方が指が柔らかいって言うし……、ずっと弾き続けてたら……」


 暫く何か一人でブツブツ言ってたが、次に顔を上げた時には、先生は何かを吹っ切ったような表情で、真っ直ぐに僕の目を見ると


「ねぇ、市原君」

「はい」

「先生と一緒にギターをやりましょう」


 そう言ってニッコリと、花のような笑顔を見せてくれたのだった。


 

 ――これがある意味僕の、そして僕らの師と言っても過言じゃない、その後の僕らの人生を決定付けたとさえ言ってもいい、【チエちゃん先生】との出会いだった。



 これは余談だが、2児の母となった今でも、チエちゃん先生は僕らの母校で音楽教諭を続けている。

 ただその相手と言うのが、僕の兄であり、つまりは後の僕のお義姉さんになる人だったりする。


 世の中と言うのは、本当に分からないものである……。

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