銀杏編・中編
眠目くん現象で世界の法則が変わったあと、
久朗津くんには付き合う義理も理由も皆無だったが、イチョウの美少女がスキップしながら校門へ向かい、どさくさに紛れて眠目くんが反対へ走り出したため、問題は一か所にまとめた方がいいと判断した。
「お前、探し物が見つかったら絶対すぐ元に戻れよ」
「はーい」
「何で僕まで付き合うの……」
るんるん歩くイチョウの美少女――長いので仮にイチョ美と呼称する――に釘を刺す横で、眠目くんがぶつぶつと不貞腐れる。学校の外がどうなっているかは少々気になったが、巨大化した野良猫や桃饅頭の成る木が見えるだけで、今のところ爆発音は聞こえないので良しとしておく。
「探し物ってのはギンナンなのか? まさか落ち葉じゃないだろうな」
校門から校舎までてくてくと歩きながら、前を行くイチョ美に問いかける。
昨日拾われたイチョウに関連あるものといえば、落ち葉かギンナンくらいであろう。だが落ち葉であれば、その日のうちに燃やしてしまっている。
イチョ美は、イチョウの葉のスカートを揺らして振り向いた。
「実でも葉でもありませんよ。見た目はギンナンのようですが、実はあれは我々が再び天敵に襲われた時のために用意していた生物兵器――今風に言うとウイルスなんです」
「は!?」
愛らしい魔法少女の顔から突然物騒な話題が飛び出した。
驚く久朗津くんは置いてけぼりに、イチョ美が真面目な顔で更に続ける。
「我々はイチョウのように見えますが、実は別の、もっと古くから存在する貴重種なんです。高貴なる女王の下、代々この土地を守護し、繁栄をもたらしてきました。ですがそのために外敵に狙われ続け、一度は絶滅寸前まで追い込まれたことがあったのです。その時に、我々の祖先は学びました。また次にこのような事態が迫った時、敵を駆逐できる力が必要だと。そのために、ワタシのご先祖が長い歳月をかけてとうとうこのウイルスを作り出したのです。敵の体内に打ち込んで爆発的に増やし、種そのものを滅亡に追い込むために!」
イチョ美はギンナンのステッキを力強く握り締めて、自分の熱弁に感銘を受けたように目を輝かせていた。
一方、久朗津くんは遠い目をしていた。どう見てもイチョウだろとか、木の女王って何だよとか、木がどうやってウイルスを作るんだとかいう疑問は、心の内にそっと仕舞う。
しかし眠目くんは、どこかでスイッチが入ってしまったらしい。面白そうな顔をして追究した。
「どんなウイルスなの?」
「そのウイルスは恐ろしいことに、なんと目が合っただけでも感染すると伝えられています」
「どんな原理だよ!?」
「ですからその危険性ゆえ、有事に備えて厳重に保管するようにと、代々ワタシの一族がその役目を仰せつかってきたのです。それが、ちょっとくしゃみをした勢いで飛んでいって、偶然拾われてしまって……」
「厳重の意味!」
久朗津くんは思わず拳を握り込んだ。イチョ美が街路樹のままだったら、容赦なく殴り飛ばしていたところである。
「で、どうやって探すんだよ」
「ご安心ください! 誰が拾ったかは分からずとも、匂いで追えますので」
言いながら、こっちですとイチョ美が誘導する。ここまできたらとっとと終わらせてしまうに限ると、眠目くんと久朗津くんは素直にそれに従った。
そして辿り着いたのは、久朗津くんたちがいる教室棟と渡り廊下で繋がっている本棟だった。
本棟には職員室や講義室の他に、コンピュータ室や調理実習室などが入っている。
(校内は割とフツー……でもないか)
校舎に辿り着くまではそこまで大した異変を感じなかったが、中に入ってみるとあちこちに散見される妙な異物が目についた。教室の室名札は桃饅頭に成り代わっているし、締め切れていない水道の蛇口からは何故か茶色い物体――恐らくチョコレートだろう――がぽたり、ぽたりと落ちている。
「この近く……だと思うんですけど、ちょっと他の匂いが多すぎて」
廊下を数歩進んで早くも、イチョ美が進む足を鈍らせた。どうやら、人や物が多すぎると紛れてしまうらしい。
「まったくの役立たずだな」
「すみません……。ですがこの美少女の姿をフル活用すれば、情報を聞き出すのなんて造作もありません!」
「よし、職員室に行くぞ」
ここぞとばかりにイチョウのコスチュームを見せびらかすイチョ美を無視して、久朗津くんはさくさく進んだ。見た目がギンナンなら、生徒の確率は低い。
(先に教師連中を当たって、それでダメなら次は調理室辺りか)
捨てられていないのなら、拾ったギンナンを食べる者がいるという兄の言葉を考慮に入れるほかない。
そんなことを考えながら、久朗津くんは職員室の引き戸をがらりと開けた。
「失礼しまーす」
「ん? 久朗津?」
次の授業の準備をしていたらしい教師の一人が、久朗津くんに気が付いた。
途端、眠目くん現象が爆発した。
「あっ、眠目までいるぞ!」
「逃亡中じゃなかったのか!?」
「あぁっ、
「猿川先生! 犬になったからって犬養先生に砂かけしないでください!」
「ええいっ突然ややこしい!」
隣に立つ眠目くんに気付いた瞬間、職員室にいた数名の教師陣が慌てたように席を立った。その一番右端では現国の犬養先生(女)がうきゃーっと猿に変身し、左端でパソコンを開いていた古文の猿川先生(男)がわんわんっとプリントの山を後ろ足で犬養先生にぶっかける。
それを見て、諸悪の根源が言わんでもいいことを呟いた。
「席が離れてたのは、犬猿の仲だからかな?」
「そういうことは思ってもそっとしておくんだよ!」
眠目くんの口を慌てて塞ぐが、その横からは更に空気を読まない阿呆がここぞとばかりに大きく手を振って混乱に輪をかけた。
「どなたかギンナンみたいなものを見た方、いらっしゃいませんかー? 美少女のワタシにお・し・え・てぇ?」
「…………」
数秒、室内の空気が凍り付いた。
そして再び爆発した。
「なっ、何だあの痴女は! うちの生徒か!?」
「まあ、宇佐美先生! そのもふもふな毛皮もふっていいですかっ?」
「ね、猫田先生がそうおっしゃるなら、い、いくらでも……!」
「ねーえー。このコーヒー、なんかすっごく甘くなってるんだけど……」
カオスだった。
体育の宇佐美先生(男)が二足歩行する筋肉質な兎に変わると、その横にいた英語の猫田先生(女)が目を輝かせてその胸に飛びつくし、隣の校長室からは暢気な校長がマイカップを片手に顔を覗かせてきた。
「……やっぱりチョコレート買いに行こ」
「お前はちょっと欲望を抑えろ!」
久朗津くんは迷わず撤退を選んだ。眠目くんの首根っこを引っ掴んで迅速に職員室を後にする。
と、丁度職員室を尋ねてくるところだった養護教諭の先生と行き会った。
「あら、ギンナン? やっぱり美味しそうねぇ」
用がないはずの健康な男子生徒がしょっちゅう保健室を訪れる主な要因である美人養護教諭のその視線は、痴女呼ばわれされたイチョ美が持つステッキに注がれていた。
「時期ねぇ。ついさっきも、久朗津先生が封筒を探していらしたし」
「封筒?」
「ギンナンって電子レンジだと破裂するから、封筒の中に入れたりするのよ」
そういえば、久朗津先生もそんなことを言っていた気がする。しかし久朗津くんの驚きは、数少ない信頼できる大人がホラ吹きの兄と同じ趣旨の発言をしたことだった。
「え、じゃあマジで食べるんすか?」
「他の先生方も、生徒が落ち葉拾いしている間にこっそり拾ってる方、わりといるわよ。でも、内緒ね」
怪訝な顔をする久朗津くんに、養護教諭が苦笑とともに同僚を弁護する。唇の前に人差し指を立てる仕草は、少しずるいと思う。
「……ありがとうっした」
久朗津くんは養護教諭に礼を述べると、そそくさと階段に向かった。電子レンジがあるのは、職員室以外なら三階の調理実習室くらいだろう。
「でんしれんじ、って何ですか?」
「電子レンジっていうのは、マイクロ波で……あー、簡単に加熱できる便利な道具」
イチョ美の子供のような質問に、眠目くんが適当に答える。美少女のウンチクを語り出した時には人間臭すぎると思ったが、元は街路樹なだけあって、あの場所から見える情報しか知らないらしい。
どこまで元の世界に忠実なんだか、と久朗津くんが肩を落とした時、イチョ美が頓狂な声を上げた。
「加熱!? いけません! 加熱したら、あのウイルスは気化して爆発的に広がります!」
「なっ」
久朗津くんはギョッと目を剥いた。
「そういうことは先に言えー!」
いい加減四方八方に込み上げる怒りを吐き出しながら、眠目くんを掴んだまま二段飛ばしで階段を駆け上がる。そして、養護教諭の「ついさっき」を信じて乱暴に戸を開け放った。
「くぉらクソ兄貴!」
「んー?」
暢気な返事が上がったのと、チーンと間の抜けた電子音がしたのは、同時だった。
「げっ」
ぼばふんっ、と電子レンジの扉を勢いよく押し開けて、真っ白な煙がモンスーンのように飛び出してきた。白煙は荒ぶる白熊のように瞬く間に膨らみ、逃げる間もなく調理実習室からも溢れ出す。
「おっ? なんだこれ」
「ぎゃーっ! 一族の秘密兵器がー!」
「……けほっ」
「バカ! 全員口を閉じろ!」
久朗津くんたちは、雪崩に巻き込まれたかのように白煙に呑み込また。反射的に叫んだせいで白煙が肺に侵入し、容赦なく呼吸を奪う。
(苦しい……)
火事の煙と同じかどうかも分からないが、久朗津くんは近くにいた眠目くんとイチョ美を引きずり倒して床に伏せた。だがまだ視界は真っ白で、離れていた久朗津先生に至っては、どうなったか視認すらできない。
煙を吸い込んでは危険だと、伝えなければならないのに。
(ダメだ……意識が、朦朧として……)
自分の口と鼻を塞ぐので精一杯だった。だがそれさえも、視線が合うだけで感染するなどとふざけた設定を持つウイルスを前に、一体どれだけ有効なのか。
(まさか……こんなバカみたいな話で、死……)
久朗津くんの瞼が、ゆっくりと降りる。
その時、白煙が吸い込まれるように室内から流れていった。
「あー、びっくりしたー。やっぱでかいと爆発の威力も桁違いなんだな」
爆心地にいたはずの久朗津先生が、至って能天気な感想を言いながらすぐ近くの窓を全開にしていた。そこから風が入って、白煙がどんどん薄まっていく。それと同時に、久朗津くんの喉や目の痛みも和らいだ。
「……な、何ともない?」
久朗津くんは戸惑いながらも立ち上がった。
種そのものを滅亡に追い込むなどと空恐ろしい謳い文句だったから苦しみ悶えながら死ぬのかと思ったが、予想に反して痛みはない。目は少し沁みて霞むし、声も少し枯れて甲高い気もするが、それだけだ。
「あぁっ、やっちまいましたー。女王様に怒られるぅぅっ」
「喉乾いた。チョコレート食べたい……」
「二人とも平気か?」
両側から聞こえた二つの女の声に、久朗津くんが振り返る。
そこではたと気付いた。
「ん? 二つ? いや三つ?」
女の声が二つも聞こえるのはおかしい。ここにいる女はイチョ美だけだ。しかし今、更に別の女の声も聞こえた。しかも、とてつもなく近くから。
「ま、まさか……」
久朗津くんは、嫌な予感がして自分の喉を抑えた。記憶よりもどこか控えめな喉仏を触れば、女の声がするたびに震えている、気がする。
「種を滅亡って、まさか……」
とてつもなく嫌な予感がする。いま眠目くんを注視したら、直視したくない現実に直面する。きっとする。
だというのに、第四の女の声が容赦なく上がった。
「しっかし、このギンナン食えるかな?」
能天気な、あまりに能天気なその発言は、見間違えようもなく窓際に立ったジャージ姿の久朗津先生のものであった。背丈はあまり変わらないが、骨ばっていたはずの鼻筋や頬骨は丸く柔らかくなり、服の上から見える体の線も明らかに女性的だ。
「女? に、なってる……?」
信じたくない。信じられない現実ではあったが、眠目くん現象はまだ終わっていない。何でも起こり得るのが眠目くん現象である。
そして現実を見てしまった久朗津くんの視線は、女性の肉体になった兄の、ある一点に集中した。
「……胸がでかい」
久朗津くんは、怒りなのか戸惑いなのか分からない思いで呟いた。
次に視線が自分の胸部に移ったのは、現実逃避なのか本能なのか。
「俺よりでかい……」
怒りが勝った。
《後編につづく》
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