銀杏編・前編

 十月のこの日、天気晴朗、北寄りの風ひうひうと吹いて、イチョウの葉舞うこと矢のごとし。

 多分おおわけ高校前のイチョウの街路樹も輝くような黄葉を見せ、幾つものギンナンが実り始めていた。それが落ち始めると、拾っていく人の姿がチラホラと現れ始めるのもまた、毎年の恒例のことであった。


「ギンナンくせぇ」


 久朗津くろうづくんは、そろそろ防寒着としての役目を担い出した布マスクの上から鼻を抑えながら呟いた。

 この時期は、落葉の前から落下したギンナンが歩道で無造作に踏み潰され、独特の匂いが朝から芬々ふんぷん立ち込めていた。


「これだから田舎は……」


 街路樹として手間がかからないのが好まれるイチョウだが、近年ではこのギンナン対策として、街路樹には全て雄木が選ばれているという。だが生憎、ここら一体の街路樹は古いものばかりなのか、毎年律義にギンナンがり続けていた。


「もうすぐ落ち葉拾いさせられる時期だな」


 久朗津くんは今年入学したばかりだが、家は近所で、中学校でも毎年似たようなことをやらされていた。

 そして案の定、その日の六限目はホームルーム活動と称して、虚しいばかりの労働が課せられた。今時小学生でも遊ばない黄色い葉っぱを、箒で掃いては塵取りで集め、ゴミ袋に捨て。黙々と一時間、この繰り返しである。


(ま、授業よりはマシかー)


 秋の授業は特に気だるい。最後の授業に苦手科目を喰らうよりは、詰まらなくとも肉体労働の方がまだしも楽といえた。クラスメイトたちも口では面倒臭いと言いながら、雑談は自由に許されている分教室よりも楽しそうだ。


(ネムは……寝てんのかな)


 ちらりと視線を滑らせれば、幾つかのグループから少し離れた場所で、箒を抱えたまま少しも動かない眠目くんの姿があった。何が気になるのか、まだ木についているギンナンの一つを凝視し続けている。十分前に見た時とも、二十分前に見た時とも、何なら開始一分で見た時とも、寸分変わらぬ姿勢である。

 いつものことであった。

 それよりも納得いかないのは、教師が生徒たちを監視する気も一切見せず、潰れていない綺麗なギンナンを拾い続けているということであった。


「……何で拾ってんの?」


 久朗津くんは、親指の爪くらいの大きさの木の実をいそいそと拾い続ける担任にして実の兄に、何気なく聞いてみた。


「酒のつまみに丁度いいんだぞー」


「…………」


 健全な高校生相手に躊躇のない回答がきた。久朗津くんは今すぐやめたいと思った。


「ギンナンって……落ちてるのなんか、食えるのか?」


「ギンナンに貴賤の別なしだ」


「そういう意味で聞いてねぇ」


「電子レンジでチンして食うと手軽でいいぞ」


「分かった。また兄貴得意の大ぼらだな」


 食用品種とそれ以外があるのではないのか、という意味だったのだが、兄に聞いたのが間違いだった。

 兄は昔から、愛すべき弟に無意味な大嘘をつくのを趣味にしている節があった。中学の時には、父が出張続きで不在がちだったのをいいことに「父上は実は公安の人間で、サラリーマンというのは組織が用意した隠れ蓑だ」と吹き込まれ、一年間ほど信じていたことがある。

 恥ずべき過去である。


「失礼な。俺はいつだって誠実だ」


 大真面目な顔で答えた兄を、久朗津くんはナチュラルに無視した。

 ギンナンといえば、久朗津くんにとっては茶碗蒸しの底に沈んでいる美味くもない物体という認識しかない。道端に落ちているものが丁度いい酒のつまみになるなど、騙されるものか、と久朗津くんは思った。


「おっ、なんかでっかいの発見ー」


 しかし兄は、弟の態度などどこ吹く風と構わず続ける。

 英語教諭として教鞭を振るっている時だけは尊敬できると思っていた兄だが、そろそろそれも無理が出てきたなと思う今日この頃であった。




       ◆




 異変は、明くる日に起きた。

 その日の五限目、眠目くんは久しぶりに授業中にやる気を出した。

 しかも今回は、久朗津くんの数少ない得意科目、社会の授業中にである。


「こ、こらっ、眠目くんっ? まだ授業終わってないよーっ?」


 弱腰な教師の制止など耳に入らぬように、眠目くんが綺麗なフォームで教室を飛び出す。その後ろ姿を見送りながら、久朗津くんは追いかけたくない、と教科書を覗き込む。それをぐわしゃっと握り潰された。


「うわっ」


「くくっ久朗津くぅぅんっ。た、頼むよぉっ、僕の授業時間に、その、何かあったとなるとかはちょっと……僕まだ結婚したばっかりで、マイホームの返済もあるし、再来月には待望の子供も生まれるしぃぃっ」


「分かりましたよ! 行きゃあいいんでしょうがっ」


 半泣きで縋りついてきた社会教師の懇願に、久朗津くんはこんちきしょうと思いながら走り出した。


「眠目逃走! 眠目逃走! 担当教職員、及び久朗津は第一警戒配備! クラスメイトは対象から避難、他一般生徒は教室に待機、廊下には出ないこと! 繰り返す!」


 安っぽいブザー音と共に、耳障りな身内の声が校内放送を通して鳴り響く。どうやらあのブザーは、あのクラスの教壇に据え置きされているらしい。


「あーっ、まったく腹の立つ放送だなあ!」


 ここにいない声の主に大声で文句を言いながら、すっかり姿の消えた眠目くんを追いかける。だが出遅れたせいで、もう廊下の先にもどこにも見えない。


(また変な所から出たな?)


 いつもの階段を降りて、四階と三階との踊り場にある窓に取りつく。案の定、窓は開け放たれ、覗き込んだ先――三階から出ている渡り廊下の屋根の上から、眠目くんが軽やかに飛び降りるところだった。


「ネム、待て! 今日こそ止めるぞ!」


 格好良く叫びながら、久朗津くんは窓枠に足をかけて屋根へと飛び降りた。内心では薄いトタン屋根に穴が開かないかヒヤヒヤしていたが、毎度臆して遅れを取るわけにはいかない。


クラスメイトあいつらはいちいち窓から見てるし)


 だがさすがに三階の高さから飛び降りる勇気はまだなく、屋根の傍の木をもぞもぞと降りる。その間にも眠目くんは校舎前の小さな中庭を駆け抜け、木造の旧校舎と図書館の間を抜け、駐輪場の前も過ぎ、早くも校門に辿り着いていた。

 本日の第一警戒配備は、なんと一人しかいない。


(この学校の教師は人手不足なのか?)


 どうでもいい心配が湧いた。

 そしてその不足した配備のすぐ横を、眠目くんは一切の躊躇なく足かけ一つで飛び越えた。


「あぁー!?」


「そりゃそうだろっ」


 叫ぶ教師に、久朗津くんは心から突っ込んだ。あの校門を一人で守るには、サッカー強豪校の名ゴールキーパーよりも俊敏に動けなくばなるまい。


(今日は、右か、左か)


 豪も期待していなかった久朗津くんは、自分も校門までの一直線を全速力で駆け抜けながら、油断なく視線を走らせる。

 そして目の前で、教師が慌てて開けた校門の僅かな隙間に身を滑り込ませて、眠目くんが進んだ方へと足を向け――


「ぶほっ」


 盛大にぶつかった。はるか先を走っているはずの、眠目くんの背中に。


「あれ? パタン、来たの?」


 校門を出てすぐの歩道のど真ん中に突っ立っていた眠目くんが、背後でわたわたしている久朗津くんを振り返って暢気な声を上げる。その顔を腹立たしく見下ろしながら、文句の一つもぶつけてやらねばと、久朗津くんは口を開いた。


「お前なぁ、何でこんな所に立ち止まっ――」


「あのぅ」


「てぅおア!?」


 ずももぉんっ、と目の前にそそり立った壁が、遠慮がちに口を挟んだ。

 久朗津くんは本能的に後ずさった。そして見えたものに、久朗津くんはあんぐりと口を開けた。

 歩道の半分以上を塞ぐほどに立ちふさがっていたのは、木であった。しかも昨日嫌という程見上げたあの街路樹――イチョウの木である。

 樹高は久朗津くんの背丈のゆうに三倍はあり、樹皮も鱗のようにぎさぎさとささくれ立っている。鴨の脚のような特徴的な葉は黄色に色付き、もっさりと枝に連なってゆっさゆっさと揺れているさまは、いかにも風情がある。

 しかし、それが風のせいでもなんでもなく、イチョウの木が営業中のサラリーマンよろしく低姿勢でぺこぺこと頭を下げているとなれば、全ては台無しである。

 しかも、眠目くんに向かって。


「……なんだ、こいつ?」


 問いながらも、久朗津くんはまた始まってしまったかと顔をしかめた。

 これが、久朗津くんが嫌々ながらも毎度追いかける羽目になる理由――眠目くん現象である。


 眠目くんはやる気がない。

 いつも授業は眠たげだし、昨日の落ち葉掃除でも静止している時間の方が長かったが、無気力なのでも寝坊助なのでもない。ちょっと、ひととはやる気の出し所が違うだけなのである。

 そしてそのやる気が、授業中に突然発動されることがある。

 そのやる気のまま校外に出ると、世界(恐らく多分おおわけご町内くらい)の法則が眠目くんの欲望と妄想に侵食されてしまうのだった。

 そしてこの不思議な現象は、何故か授業中に限定されていた。


(今日こそ掴まえられたかと思ったのに)


 眠目くんが立ち止まったのは、どう見てもこの街路樹に進路を塞がれたからであろう。眠目くん現象が発動すれば、街路樹が植えられた場所から動こうと、低姿勢で話しかけてこようと、驚くに値しない。


「さぁ?」


 現に、眠目くんの反応は淡泊であった。やる気を出しても、世界の法則が変わっても、興味の向かないものに込める熱はないらしい。

 いつもの眠たげな顔で、眠目くんは普通に街路樹に話しかけた。


「邪魔だから、退いてくれる?」


「実はワタシ、困ってるんです」


「いま急いでるんだ」


「ネムさんにしか頼めないことなのです」


 ずずいっと街路樹が距離を詰めて眠目くんに迫る。

 会話はまるで噛み合っていないが、そもそも木が喋るという時点で噛み合う要素などないのかもしれない。

 と思っていたら、被害が飛び火した。


「……パタンにも、きっと出来るから」


「おい。面倒臭いからって適当に俺に振るな」


「ワタシを美少女にしてください!」


「「…………」」


 帰りたい、と久朗津くんは思った。何事にも動じない眠目くんでさえ、一瞬沈黙した。

 よし、なかったことにしよう、と久朗津くんは決めた。眠目くんの襟首を掴んで校門へと踵を返す。だがその前に、眠目くんが興味本位で会話を続けてしまった。


「……何で?」


「あっ、バカ聞くなっ」


 しかし制止も虚しく、喋る街路樹は幹から伸びた左右の枝を両手のように正面で組み合わせ、一気にまくし立てた。


「ワタシ、木の身にして寡聞ながら知ってるんです! 美少女といえば! 美少女といえば微笑むだけで食べ物を差し出され、雨の日には傘をさしてもらい、馬糞があれば男が自分の体で作った橋の上を歩いて汚れずに渡れる! 嗚呼なんて素敵な美少女!」


「どこで何を知った!?」


 思わず突っ込んでいた。興奮気味に語る内容としては、あまりに偏り過ぎている。特に馬糞という単語辺りが、一昔前の時代を想像させて妙に生々しい。

 だがるんるんと黄色い葉っぱを撒き散らす街路樹を止めたのは、その背後から射出された怒声と無数のギンナンであった。


「真面目にやらんか!」


「あいたたたっ」


 シュババババッと、まるで弾丸がごとき勢いで目の前の街路樹の葉が撃ち落とされた。背後にいた別の街路樹である。

 こちらは植えられた場所から動いていないが、幹の樹皮を山姥やまんばのような形相にして、枝に残ったギンナンを射出し続けている。


「何が美少女じゃ! 自分の失態を忘れたんか!」


「わわっ分かりました! ちゃんとやりますって!」


「バカこっち来んな! 俺たちにまで当たるだろうが!」


 剥き出しになっていたイチョウの木の根が、歩道が熱々の鉄板にでもなったようにわちゃわちゃと逃げ回る。お陰で、すぐ目の前に立っていた久朗津くんまで逃げ回る羽目になった。同じ被害に遭っているはずなのに、眠目くんがひょひょいっと華麗に避けているのがまた腹立たしい。


「実は、探し物があるんです。ワタシがその番人を任されていたんですけど、昨日この高校の誰かに奪われてしまって」


 ギンナン攻撃が止んだあと、目の前の街路樹は歩道の真ん中で改めて正座をすると、そう切り出した。


「昨日って、あの落ち葉掃除か?」


 久朗津くんが、仕方なく相槌を打つ。

 眠目くんはそわそわしているし、久朗津くんも今すぐ回れ右をしたかったが、いかんせん街路樹は前後にどこまでも続ているし、ギンナンは今年も豊作である。

 正座した街路樹が、「はい、恐らく」と人間臭く相槌を打つ。


「それで、美少女だったら探し物もしやすいんじゃないかと思って」


「深刻そうに語られても、その思考回路は十分おかしいからな」


「お願いします。一度でいいんです!」


 街路樹が食い下がった。理由は真っ当なような気もするが――そもそも街路樹に探し物どころか番人という考えがおかしいという話は、最早野暮である――美少女になるという要求だけは引けないらしい。


「でも僕、別にそんな力ないけど」


「ネムさんには世界の法則を変える不思議な力があると聞いています」


「それ、誰から聞いたんだ?」


「ご近所では有名ですよ。いつもここを通る赤い車とか、野良猫さんとか」


「…………」


 文句を言う先が多すぎて、久朗津くんは沈黙を選んだ。頭が痛い。


「お願いします。ネムさんしか頼める人がいないんです! 叶えて頂ければ、代わりにこの絶品桃饅頭を差し上げます」


「やる」


 すちゃっと樹頭の葉っぱの間から取り出されたつやつやな桃色をした饅頭を見て、眠目くんが即答した。ついでに粗茶でも出てきそうな勢いである。最早イチョウの木のくせに桃かよという突っ込みはしない。


「お前、今日の目当ては饅頭だったのか?」


「ランチタイム限定のチョコレートドリンクだったけど、行けそうにないから」


「ならランチタイムに行けよ」


「美少女美少女……」


 久朗津くんの冷静な指摘を無視して、眠目くんは念じ始めた。


(そういえば、ネムの美少女像ってどんなだ?)


 思えば、眠目くんと女性談義をしたことはない。ちょっとだけ興味があるなと、久朗津くんの好奇心がうずく。

 丁度その時、隣の車道をアニメイラストが全面に施された車が走り抜けた。顔の半分以上ある大きな瞳に、真っ赤なリボンで結んだツインテールと、幼児向け玩具として展開されることを前提とした魔法のステッキを持っている。


「出来た」


「ありがとうございます!」


 二人の声に、久朗津くんがハッと視線を前に戻す。

 妖怪のような街路樹が座っていた場所に、見覚えのない少女が立っていた。

 同年代らしい背格好をしているが、その服は肩が露わになり、大きく開いた胸元はイチョウの葉のようなデザインになっている。太腿が見えるミニスカートもまた大きなイチョウの葉を巻き付けたような形で、頭上で二つ結びにされた髪飾りの形は、欲望を大きく反映して桃饅頭だった。

 極めつけ、右手にはどこかで見たようなステッキが握られ、石突にはギンナンの実にしか見えない何かが飾り付けられている。

 もう嫌だ、と久朗津くんは思った。


「嬉しいです! さすが噂に聞くネムさん! ワタシ、この格好とっても気に入りました!」


 項垂れる久朗津くんとは正反対に、珍妙な美少女――顔だけを見れば確かに可愛いが、異様に目が大きくてキラキラしていてちょっと怖い――は喜色満面でくるくる踊りまわっている。

 久朗津くんは、痛い頭を抱えて幼馴染みを睨んだ。


「……見たな?」


「見えちゃったんだ」


 眠目くんが、正直に白状する。さすがの眠目くんも、少しだけ後悔しているようだ。

 久朗津くんは、益々頭が痛くなってきた。


「どうすんだよ、これ……」


 魔法少女風美少女は軽快なステップとともにステッキを振り回し、眠目くんはあむあむと桃饅頭を頬張っている。

 頭を悩ませているのも現状に満足していないのも、どうやら久朗津くんだけのようだった。



《中編につづく》

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