綿菓子編
天気晴朗の日には、草木でさえも嬉しそうである。
某田舎の片隅にて、
その一年四組の教室にて、午後の麗らかな陽射しに負け、惰眠を貪る男子高校生がいた。
彼の名前は
(また寝てる)
その背中をそっと盗み見ながら、クラスメイトの
とは言っても、それは呆れではない。少しの期待外れと、羨望の表れである。
(今日も、何も起きないかな?)
眠目くんが寝ている姿を見ると、不謹慎だとは分かっているがつい期待する気持ちがむくむくと湧いてしまう。
教鞭を振るう教師やクラスメイトとしては、眠目くんが真剣に授業を受けている貴重な姿よりも、健やかに眠っている姿の方が馴染みがあるし、安心するだろう。
けれど奏子はいつも少しだけ、眠目くんが動き出すのを待っている。本当にたまに、月に一度あるかないかのことだけれども。
(なんて言ったら、パタンくんは怒るかな)
眠目くんとは幼稚園からの腐れ縁である
その中のツートップが、実の兄である英語教師と、その幼馴染みであろう。
(放っておけばいいのに)
他者との面倒をなるべく避けて通りたい奏子などは、いつもそう思う。見て見ぬふり。それが一番安全で、楽なはずだ。
けれど、久朗津くんはそんなことはしない。したいけど、出来ない。多分、そういう性分なのだろう。
「出席番号二十四ー。次、Ⅲ.から読んでみろー」
今日の日付をそのまま引用して、久朗津先生が教室内に呼びかける。
その声に、何故か眠目くんのぴょんと跳ねた寝癖と、出席番号十三番の久朗津くんが、ぴくりと反応した。
奏子の観察結果では、英語は恐らく苦手科目だろう久朗津くんは、しかし授業を諦めるわけでも、あとで兄に聞けばいいというおざなりなこともしない。
そしてどう見ても睡眠過多で授業についてきていないはずの眠目くんを心配して、隣の幼馴染みを心配までする。
しかしその心配は、ある意味で的外れであった。
むくり、と眠目くんが体を起こす。
「……時間、ですか?」
「時間? 何のだー?」
まだ二十代半ばと年若いくせにやる気のない久朗津先生が、気だるげに注意する。が、眠目くんの視線は英語教師に応じるどころか、ゆっくりと窓の外へと向けられた。
良い日和である。徐々に日差しの強さが増してきてはいるが、授業がなければ芝生でごろ寝でもしたくなるような。
「……おい、ネム。まだ授業中だぞ?」
ちょんと、久朗津くんがシャーペンの先で眠目くんをつつく。
その瞬間、眠目くんは覚醒した。
「……綿菓子」
合っていなかった焦点が結ばれ、ぼそりと呟く。
「は?」
久朗津くんの顔が引きつった。
(きた)
そして奏子は、気力の乏しかった双眸を少しだけ大きくした。
眠目くんが、勃然とその場に立ち上がる。久朗津くんが問い返す、その前に眠目くんが狭い机の間を走り抜けた。
そこにすかさず英語教師の理不尽な下知が飛んだ。
「close! Go!」
「俺は犬か!?」
最早日本語すら消えた指令に、しかし久朗津くんは躊躇なく駆け出した。眠目くんを追ってドアに迫る。
「ネム、待て!」
しかし手が届く前に、眠目くんの背中が廊下に消える。その素早さはまるで人間に昼寝を邪魔された猫さながらで、普段の眠そうな様子からは少しも想像できない。
「はっや」
「さすがネム!」
クラスメイトの歓声を背中に聞きながら、久朗津くんも更に脚に力を込める。
それを窓越しに見送りながら、奏子も慌てて机の引き出しに常に隠してある一冊の自由帳を引っ張り出した。英語の教科書に容赦なく覆い被せて、自由帳の真っ新なページを開く。
そこに、ブーッと安っぽいブザー音がした。びくっと顔を上げて周囲を見回す。
音の発生源は、久朗津先生の手元だ。百均の玩具のような立方体に、赤い丸ボタンがついている。
と、つい癖で観察していたら、学校中に校内放送が鳴り響いた。
「眠目逃走! 眠目逃走! 担当教職員、及び久朗津は第一警戒配備! クラスメイトは対象から避難、他一般生徒は教室に待機、廊下には出ないこと! 繰り返す!」
「またやんのかこの放送ー!?」
既に廊下の端まで走っていた久朗津くんの嫌そうな悲鳴が、開放したままの窓から聞こえる。反対に、残されたクラスメイトたちは普通に面白がっていた。
「ガチャ先生、そのブザー毎回やんの?」
「校長が流してるって本当?」
「絶対嫌がらせだろー」
既に勉学へのやる気が二割まで減ったクラスメイトが、どや顔をしている久朗津先生を指さしてけらけらと笑っている。
それににやにや笑いを返しながら、久朗津先生はまるで真人間みたいな返事をした。
「嫌がらせとはなんだ。眠目が変なことするから、先生たちはご近所にご迷惑がかからないように色々と考えてるんだぞ」
「じゃあまずネムを止めろよ」
「パタンを使うなよ」
「俺は走りたくねぇ」
生徒たちの正論に、久朗津先生は本音を一ミリの躊躇もなく吐き出した。相変わらず潔い。
(ガチャ先生はラスボス、と)
奏子は、一番最後のページに、こそっとデフォルメした久朗津先生を書き込んだ。ブザーとマイクも待たせておく。
「さー、授業再開するぞー。出席番号二十四……の次ー」
「えーっ、やんのぉ?」
「弟が授業に置いてかれて可哀想じゃないのかよー」
「まっっっっっっったく」
力強い返事であった。信頼<面倒がひしひしと伝わる。
クラスメイトたちがぶーぶーと文句を言いながらも再び教科書に向き直る。その横で、窓際の男子たちが校庭を見下ろして手を振った。
「パタンー。パルクール教室行けよー」
「ネムは実はこっそり通ってるらしいぜー」
「ホントか!? その教室調べといて!」
楽しげに野次を飛ばす友達に、窓の下から久朗津くんのとても本気な返事が返る。信じたらしい。
(純粋だなぁ)
そこもまた付け込まれる要因だろうが、久朗津くんにはずっとそのままでいてほしいので、みんな誰も真実を教えたりはしない。
くくっと笑い合う男子たちがいる一方、反対側では女子たちもくすくすと顔を向け合っていた。
「綿菓子だって」
「ネムくん、本当甘いもの好きだよねぇ」
「綿菓子って、どこのかな?」
仲良し三人組で、いつも学校帰りにショッピングやカラオケに行っているようなグループだ。いわゆるリア充で、奏子にはとても会話に入れるものではない。名前に「奏でる」とついているくせに音痴な奏子は、カラオケ滅ぶべしとさえ思っている。
それでも、眠目くんへの興味は同じようにあるんだなと思うと、不思議な感覚ではある。
「ネムくんだから、限定の変なヤツじゃない?」
「レインボー?」
「蛇柄かも!」
眠目くんの本日のお目当てを妄想し合いながら、彼女たちが弾けるように笑う。久朗津先生が、やる気のない声で「そこー」と言った。
それで騒ぎは少しだけ収まり、出席番号二十五番が立ち上がって嫌々教科書を読み始める。
それを片手間に聞きながら、奏子は元のページに戻ってシャーペンの先を置いた。
(さて、何を書こうかな)
今頃、眠目くんと久朗津くんは、第一警戒配備についた担当教師も加えて追いかけっこを始めているだろう。今日も無事校外に出られるだろうか。
(綿菓子って……アレかな?)
今朝路上で配られていたチラシを思い出しながら、真っ白なページに最近ハマっているステルス戦闘機F-22ラプターを描き込んでいく。
先月までコンビニだった場所に出来た、可愛らしいポップなデザインの綿菓子屋さん。いやいや、若者らしくコットンキャンディー店と言うべきか。
確か開店セールを終えて、新作をお試しくださーいと言っていたような気がする。
(どんな形のがあったっけ?)
流線形流線形と思いながら、三角形の凝った戦闘機を描き上げる。敵もいないのにステルスでは無駄に高性能なだけなので、次はレーダー探知をする敵を登場させようかな、と思っていたらノートに変化が起きた。
「あっ」
戦闘機以外はまだ真っ白だった見開きのノートに、突然道路のような平行線が二本走る。その左側にはぴょんと寝癖が跳ねたままの男の子。その更に左端には、右手を伸ばして焦った顔をした男の子がもう一人出現する。
「蒲生? どしたー?」
「な、なんでもないです」
意外に目敏い久朗津先生に、奏子はパッと顔を伏せてノートに向き直る。その一瞬の間に、ノートの道路の周囲中には更に街路樹や住宅、車や自転車が次々と描き出されていた。
(始まった!)
胸がどきどきした。逸る気持ちで見つめる目の前で、ノートの中の道路がゆっくりと動き出す。
鉛筆画の道路は、ノートの中でコマ撮り動画の中のベルトコンベヤーのように右から左に流れていく。その上を走る二人の男子高校生は、左側から全く進んでいない。写実性の欠けた絵柄の影響もあって、奏子にはまるで横スクロールの古いゲーム画面のようにも見える。
その間にも、二人のキャラクターの上にあった奏子が描いた戦闘機が、白い尾を引きながらノートの外へと飛び出していく。飛び出した戦闘機がどこに行くのかは、奏子にも分からない。
これが、奏子にとっての眠目くん現象だった。
眠目くんが授業中に校外へと飛び出すと、世界の法則が変わる。
多分高校を取り囲む住宅街の緑化に勤しむ街路樹には、木の実の代わりにふわふわな薔薇がたわわと実り、ちりんちりんと通り抜けていく自転車の荷台には、綿菓子製造機が当たり前の顔をして積まれている。
右側からは怖そうな顔のおじさんが現れ、奏子は慌てて可愛らしい兎のお面と長い耳、丸い尻尾を描き足した。
(ふぅ、危ないあぶない)
怖そうなおじさんに眠目くんが怒られる危険を回避できて、奏子が一息つく。
そんな窓の向こうでは、朗らかな陽気に全くそぐわない飛行機の轟音が、きぃぃー……ん! と鳴り響いた。数拍遅れて、ブアン! と嵐のような突風が教室内に吹き荒れる。
「ぅわぁっ」
「きゃあ!」
下の階から、他クラスの生徒の悲鳴が響いた。
一年四組の教室にも、舞い上げられた校庭の砂塵が襲い掛かり、クラスメイトのルーズリーフがバラバラと反対側の窓から飛び出していく。しかしこのクラスの感想は相変わらず平和であった。
「お、ネムは今日も絶好調だなー」
「今日の被害額はいくらかな?」
「校長のポケットマネーってホントか?」
砂塵をものともせず英文の解説を進める久朗津先生を無視して、クラスメイトたちが飛行機雲の根元を探す。見ればそこから、ちゅどーんっ、どちゅどちゅーんっ、と賑やかな爆発音が立て続いていた。
立ち上る黒煙の位置で、眠目くんの進行速度が分かる。
(やっぱり、あの綿菓子屋さんみたい)
いつもブロック塀の上で昼寝をしている三毛猫が、何故か巨大化して薔薇の街路樹に猫パンチをしている。それが落ちて、何故か手榴弾のように爆発していくのだ。
(これって……どっちだろ?)
眠目くん現象は、いつだって眠目くんの欲望とやる気をもとに構成されている。空がいつの間にかパステルカラーの虹色になっているのも、街路樹がふわふわの薔薇に変わったのも、きっとチラシで見た綿菓子のせいだ。
しかしそこに現れる破壊音とは、これいかに。
(……まさかね)
眠目くんに破壊願望があるとは微塵も思えないが、まさか奏子にもそんな願望はない。戦闘機は最近ハマっているだけだし、ステルスがあるならレーダー探知機もあるのもまた必然なのである。
と思いながら、道路を外れて左折していく自転車のベルの隣に、いそいそと黒画面に緑の線が入ったごっついレーダー探知機を搭載しておく。
ちゅどーんっ、どちゅどちゅーんっ。
ノートの左側を走る眠目くんは、前後の爆発などものともせず軽やかに走っていく。その背中を必死で追う久朗津くんは、目をひん剥いて何事か叫んでいる。が、残念なことに、ノートには効果音は現れても台詞は描かれない。
(『こらばかっ止まれ! 危ないだろがっ』……とかかな)
勝手に久朗津くんの台詞を妄想していると、その手がついに眠目くんに届きそうになる。奏子は慌てて二人の間に板こんにゃくを描き込んだ。
ぼわんっと、久朗津くんがノートの端まで弾き返される。反対に、眠目くんはノートの中央まですっ飛んでいた。奏子は慌てて眠目くんの右手に描けるだけの風船を描き込んだ。
(距離感とか高さとか、ちょっとよく分かんないけど)
ノートの中では大した高度には見えなくとも、落下した時に大怪我しては大変である。狙い通り、眠目くんがぷかぷかと降りてくる。その下では、どうにか今のうちに追いつこうと、板こんにゃくを迂回した久朗津くんが右往左往していた。
(パタンくん頑張れ)
自分で邪魔しておきながら、奏子は心の中でささやかに応援した。
久朗津くんは努力家の苦労性で、自由気ままな眠目くんをいつか掴まえられるといいと思う。でもやっぱり、奏子は眠目くんを応援してしまう。だから、戦闘機を追いかけて進行方向に立ちはだかった三毛猫の尻尾を前に、つい眠目くんの手にアーチェリーを描き込んでしまう。
目的を達成するまで、止まってほしくない、と思う。自分の手が非現実を生み出しているかもしれないと気付いているくせに、この席から動けない自分の分まで。
(どこまでも自由に飛び回って)
洋弓の弦を引き絞った眠目くんが、弦音も高らかに右手を離す――その寸前。
「close! 呪文だ!」
いつの間にか授業の手を止めていた久朗津先生が、ポケットからスマホを取り出して叫んでいた。通話先は、言わずもがな。
(今日は、どんな言葉で引き戻すんだろう)
少しだけわくわくしながら、久朗津先生の言葉を待つ。
『今日は何だよ!』
電話の向こうから、久朗津くんのやけっぱちな声がした。
今この世界の法則は、眠目くんの妄想と欲望とやる気で出来ている。眠目くんの夢見がちな脳みそに冷水を浴びせかけるような衝撃を与えられれば、その原動力は途切れる。
つまり我に返ればいい。
今ばかりは固唾を飲んで見守るクラスメイトの視線を一身に受けながら、久朗津先生が渾身の力を込めて叫んだ。
「綿菓子を最初に作ったのは、アメリカの歯医者だ!」
だぁーだぁーだぁー……と、間の抜けた大音声がパステルカラーの空に響く。
「…………」
へぇ意外、と奏子は今日も思った。
しかし眠目くんの中では、その程度で済まなかったようだ。
巨大な三毛柄の尻尾がぼふんっと金髪碧眼の中年アメリカ人に変わり、虫歯を削る
『いやだから絶対そんな感じじゃないって!?』
電話越しに、久朗津くんの不服そうな悲鳴が聞こえた。途端、風船が突然自分の性能限界を思い出したように、眠目くんの体がガクンと落下する。その下に急いでふわふわの雲を描き込むが、多分役には立たない。
道路は既に動いておらず、戦闘機はいつの間にかノートの上部に戻ってきている。動いているのは、もう眠目くんと久朗津くんだけだ。
(パタンくん頑張って!)
先程とは比べ物にならない熱量で願う。眠目くんの体が地面に打ち付けられる、その下に、久朗津くんが野球選手並みに滑り込んだ。
がっしと、少しだけ華奢な体を横抱きに抱え込む。
(ふむ。眼福眼福)
奏子は、むふふと口の中だけで笑った。そこで、ついにノートの中の鉛筆画も動かなくなる。
眠目くんと久朗津くんは消え、奏子が描いたもの――戦闘機にレーダー探知機、兎のお面にアーチェリーに風船等々――だけが残る。
「ネムくん、綿菓子買えたかなー?」
「どんな形かな?」
クラスメイトの女子たちが、久朗津先生の言葉に終了の合図を見て囁き合う。
奏子も同じ気持ちで、表面上は静かに、内心ではそわそわと二人の帰りを待つ。
そうして、いつの間にか
「ネムー、それが今日の戦利品か?」
「マジでそれ綿菓子か?」
悠然と廊下を歩いて帰ってきた眠目くんに、待ち構えていた廊下側の男子生徒が口々に声をかける。
眠そうながらあむあむと口を動かす眠目くんの手には、真っ赤な薔薇を中心に虹色の輪が取り巻く、ほぼ芸術的なレベルで仕上げられた綿菓子が握られていた。
(なるほど。めっちゃ投影されてた)
もしかしたら、眠目くんの目には街路樹が美味しいもの製造機に見えているのかもしれない、と奏子は思った。
「つ……かれたぁぁ……っ」
ぎりぎりで眠目くんの回復休眠に帰校が間に合った久朗津くんが、溶けたアイスのように自席に座り込む。その横で、眠目くんがあむあむと綿菓子を平らげていく。
これが終わったら、眠目くんは一時間ほどの眠りにつくはずだ。
(今日の冒険は、これでおしまい)
満足と残念が半々の気持ちでノートを閉じる。と、少しだけ視線を感じた気がして、奏子は顔を上げた。
口の周りを綿菓子の欠片まみれにした眠目くんと、目が合った。
「……ありがと」
「!」
声はごく小さく。でも、確かにそう聞こえた。
奏子は途端に恥ずかしくなって、ふるふると首を横に振った。
それでも、視線は外されない。
奏子は十数秒かけて、やっと小さくこくり、と頷いた。
眠目くんは前を向いた。
授業は、今日も粛々と進んでいく。
脱力しきった久朗津くんと、休眠に入った眠目くんを置いてきぼりにして。
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