逃走男子。

仕黒 頓(緋目 稔)

アイス編

 本日天気晴朗なれど風強し。

 某田舎の片隅にて、多分おおわけ高校の授業は今日も今日とて粛々と進められていた。

 その一年四組の教室にて、午後の麗らかな陽射しに負け、惰眠を貪る男子高校生がいた。

 彼の名前は眠目たまばくん。得意科目は英語、苦手科目は体育である。


(また寝てら)


 それを横目で見ながら、幼稚園からの腐れ縁である久朗津くろうづくんは深々と嘆息した。


(得意だからって気持ち良さそうに寝やがって)


 ミミズがのたくった暗号を解読途中の暗号で読み上げるような授業に頭を悩ませていた久朗津くんは、せっせと消しゴムの消しカスを集めた。英語教師が黒板に向き直った隙をついて投げ付ける。


(ていやっ)


 ぱらぱらっと、小さなゴミが音もなく背に当たる。痛くもないので、ただの嫌がらせである。が。


「……あ」


「げっ」


 起きた。寝癖のついた眠目くんの頭が、生徒たちの群れの中から僅かに飛び出す。

 じっとりと睨まれるかと思ったが、眠目くんは何を思ったか、そのままその場に立ち上がった。

 椅子がガタンッと大きな音を上げ、英語教師の流暢な読み上げがぴたりと止まる。


「眠目? どしたー?」


 まだ二十代半ばの若い男が、気だるげに注意する。が、眠目くんの視線は英語教師に応じるどころか、ゆっくりと窓の外へと向けられた。

 良い日和である。授業がなければ、芝生でごろ寝でもしたくなるような。


「おい、ネム? まだ授業終わってないぞ?」


 久朗津くんは、嫌な予感がして斜め前の背中に小声で呼びかけた。クラスメイトも、眠目くんが次に何をするのか、固唾を飲んで見守っている。

 二人が幼馴染みだと知っている教師まで、早く座らせろと言いたげにこちらを睨んでいた。

 そんな中、眠目くんは言った。


「……二時?」


「……というよりは、二時半じゃね?」


 五限目の真っ只中である。満腹と午睡の誘惑との最終局面である。

 勃然と、眠目くんは覚醒した。

 狭い机の間を走り抜けて、瞬く間にドアに接近する。


「close! 追いかけろ!」


「ネイティブの発音で呼ぶなバカ兄貴!」


 不届きな英語教師の理不尽な命令に、しかし久朗津くんは躊躇なく駆け出した。眠目くんを追ってドアに迫る。


「ネム、待て!」


 しかし手がとどく寸前で廊下に逃げられた。普段の眠そうな態度からは全く想像できない速さで、トタタタッと廊下を走っていく。


「はやっ」

「さすがネム!」


 クラスメイトの歓声を背中に聞きながら、久朗津くんも更に脚に力を込める。その背後で、ブーッと安っぽいブザー音がした。

 途端、学校中に校内放送が鳴り響いた。


「眠目逃走! 眠目逃走! 担当教職員、及び久朗津は第一警戒配備! クラスメイトは対象から避難、他一般生徒は教室に待機、廊下には出ないこと! 繰り返す!」


「なんだこの放送!?」


 あまりの物々しさに、久朗津くんは足を止めて周囲を警戒した。教室から顔だけを出した英語教師が、どや顔で自分を指差していた。


「俺が校長に頼んでおいた。ちなみに、演出、出演、編集は全部俺だ!」


「声優のサンプルボイスか!」


 そして校長も頼まれるなよ! と叫びたかったが、その間にも眠目くんの背中が廊下の角に消えてしまった。


(しまった、あの先は……!)


 舌打ちする暇もなく駆け出す。同じく角を曲がれば、目の前には廊下。その踊り場には窓がある。その窓枠に、眠目くんが丁度足をかけたところであった。


「待てネム! どこ行く気だ!」


 最早この問答は今年で何回目だろうかと思いながら叫ぶ。その間にも、眠目くんは躊躇なく窓の向こうに身を乗り出す。

 ちなみに、ここは四階である。一番若い一年生は、当然のように一番上の教室を宛がわれているのである。

 そして窓の外は地面――ではなく、三階にある連絡通路の屋根がある。


「アイス」


「は?」


 窓の外に半分以上体を出して、眠目くんがぽそりと言った。

 幻聴かな? いや幻聴であってほしい。と、久朗津くんは思った。

 しかし眠目くんは続けた。なんとなれば今日一番の力説くらいの勢いで。


「今日だけなんだ。しかも一時間限定。チョコとわさびのブレンドに、ドラゴンフルーツのミックス、レモン添え」


「いやもうそれ絶対売れないって分かってるからこその試作販売だろ!? 期待に目を輝かせて買いに行くなよ!」


 最早ギリギリセーフなのかどうかすら分からない。

 しかし悠長に突っ込んでいる間に、眠目くんはひょいっと外に飛び出してしまった。


「あぁっ」


 叫んで窓枠に飛びつけば、その目の前で眠目くんが連絡通路の屋根をとたたたっと走って行ってしまう。そこは通路じゃないぞ、中を走るんだよ(こら、歩きなさいよ)と言ってももう届かない。

 久朗津くんは嫌々ながら覚悟を決めると、自身も窓の枠に座るように足を外に出した。とおっと着地。バォンッと安物みたいな音がして、ちょっとビクッとなる。


「パタンー。なんだその情けない跳び方はー」

「ネムみたいに華麗に飛べよー」


「うっせぇ! 俺のノートも取っといて!」


 窓から顔を出して好きに野次を飛ばすクラスメイトに怒鳴り返して、猛然とダッシュする。

 そうこうする内にも、目標の眠目くんは連絡通路の横にかかる木の枝にぴょんっと飛び移ると、そのまま地上に降り立った。グラウンドとは別にある小さな中庭を抜け、木造の旧校舎と図書館の間を抜けた先には、駐輪場がある。その向こうはついに校門だ。


「こらー! 眠目! まだ授業中だぞ!」

「教室に引き返せ! 今ならまだ間に合う!」


 その目の前に立ち、中年のおじさん教師が二人、大きく手を振って待ち構えている。もしやあれが、警戒放送にあった警戒配備なのだろうか。


(うっすー!)


 授業中だからほとんどの教師は登壇しているのだろうが、それにしても配備が薄い。

 木の枝に縋りつくようにおっかなびっくり降りていた久朗津くんは、心の中で叫んだ。しかし眠目くんが門を飛び越える前にあの二人に取り押さえれば、この後の追いかけっこはなくなる。


「先生! がんばれ!」


「「よっしゃこぉぉぉーい!」」


 久朗津くんは無責任に応援した。

 その目の前で、綺麗なフォームで疾走していた眠目くんが、右に折れた。


「「「んん?」」」


 そして駐輪場の屋根の骨組みに足をかける。その時の足音は二歩。ダンッとトタン板のたわむ音がしたと思ったら、眠目くんは駐輪場の屋根から、すぐ隣に伸びるフェンスの上へと飛び渡っていた。


「「あぁー!?」」


「猿か!」


 教師が絶叫する声を聞きながら、久朗津くんも進路変更してフェンスに下から縋りつく。別に乗り越えられない高さではないのだ。生徒の善意で守られているに過ぎない障害物なのだ。


「なんてことだぁぁー!」

「今回は完璧だと思ったのにー!」

「たまばぁぁー!」

「信号機と自販機は特に高いからぁー!」

「壊させるなよー! くろうづぅぅー!」


「俺かよ!?」


 道路設備の賠償金の心配をされた。


(生徒の心配をしろよ!)


 教師への文句に、眠目くんから視線を離した一瞬だった。

 ぎーこぎーとと車輪を漕ぐ音に、ハッと前を向く。既に学校の外を並走する道路に飛び出していた眠目くんの前に、飛び出してくる車両があった。


「ネム! 三輪車だ!」


「!」


 幼稚園児が、お古の三輪車を猛スピードで漕いできていた。

 ぶつかる、と眠目くんが身構える、その瞬間――


 世界の法則が変わった。


 たった今まで三輪車だったものが、スホーイSu-57戦闘機に変形して眠目くんの横スレスレを滑空し、マッハ2で上空へと抜けていく。

 ベビーカーを押していた若奥さんが、もっこもこの熊の着ぐるみになって平然と目の前を歩いていく。

 交差点で信号待ちをしていたスポーツカーは、突然ライトを右に動かして眠目くんに語り掛けた。


「よう。今日はどこに行くんだ?」


「ちょっとそこの公園まで、限定のアイスを買いに」


「乗ってくかい?」


「ううん。すぐそこだから、走った方が早い」


「そうかい。じゃあまたな」


 青信号に変わると同時に、陽気なスポーツカーがぶおんとかっ飛ばしていく。お前は運転手の意向をまず聞けよ、とは、もう久朗津くんは言わないのである。


(始まっちまった……)


 これが、英語教師初め多分高校教師陣が頭を悩ませる、眠目くん現象である。

 眠目くんはやる気がない。だがそれは無気力なのでも寝坊助なのでもない。ちょっと、ひととはやる気の出し所が違うだけなのである。そしてそのやる気が、授業中に突然発動されることがある。

 そのやる気のまま校外に出ると、世界(多分半径二キロくらい)の法則が眠目くんの欲望と妄想に侵食されてしまうのだった。

 そしてこの不思議な現象は、何故か在校中に限定されていた。


(学校の外でやる気になれよ!)


 空の色はアイスへの欲望を反映してかワサビ色だし、風が吹くとそこから何故か星型のチョコがパラパラと降ってくる。秋になると落葉掃除に駆り出される街路樹には輪切りのレモンがたわわに実り、その頂点には籠盛りにされたドラゴンフルーツがちょんと載っている。


り方が分からないんだな……?)


 そんなことを言ったら全部が全部常識にサヨナラしていたが、籠盛りという辺りによく分からなさが表れている気がする。

 そして肝心の眠目くんはというと、その全てを全部避けていた。

 目指すは本物のアイスである。妄想で出来た偽物になど用はないのである。


(だったら作り出すなよ!)


 徒労感がどっと増す瞬間であった。


「あ、チョコ! ママ、チョコが降ってるよ!」

「まぁ、食べちゃいけませんよ」


 猪突猛進する眠目くんを追いかける久朗津くんの横で、散歩をしていた親子が和やかに会話する。


「んにゃー?」


 昼寝をしていた間に牛になったらしい野良ネコが、輪切りのレモンを嗅いでぱくりと食べる。ちゅどーんっと爆発した。


「何でだよ!?」


 意味が分からない。久朗津くんは降ってくるチョコも避けることに決めた。


「こら、ネム! いい加減にしろ! 標識とかガードレールとか、壊すと高いんだぞ!」


「わっ」


 叫びながら、律義に信号待ちをしていた眠目くんの襟首に手が届く。眠目くんの体がよろめく。と、地面もよろめいた。まるでバルーンハウスのように。


「げえっ」


 眠目くんがトランポリンよりも高く中空に投げ出された。久朗津くんもポーンと飛ぶ。眠目くんはいつの間にか手に入れた日傘を開いて、近づいてきた公園を優雅に目指す。一方の久朗津くんは必死で宙を掻いた。平泳ぎで。


(なんなんだこの不公平感!)


 眠目くんの妄想である。当然であった。

 しかしどこの新任教育係ナニーかと思うような眠目くんの傘さばきの前にも、ついに障害物が立ちはだかった。何故か屋根がスフィンクスになった十トントラックが、道路の向こうから快走してきたのだ。


「!」


「ネム! 避けろ!」


 道路設備も高いが、トラックにぶつかったとなれば人命に関わる。しかも向こうはきちんと道交法を守っている。違反しているのは傘で道路の上空を横切ろうとしていた眠目くんの方である。

 と思ったのに。


 すちゃっ、と眠目くんが89mm口径型携帯式対戦車スーパーロケット弾発射器バズーカを肩に構えた。


「どこから!?」


 考えたら負けである。そして発射されても終わりである。


「待て待て待て待て! そりゃアウトだ!」


「close! 呪文だ!」


 慌てる久朗津くんのポケットが、まるでパペット人形のようにそう叫んだ。責任を丸投げした英語教師の声である。またもやスマホのスピーカーを勝手にジャックされた。だが町内放送のスピーカーよりは何倍もマシである。


「今日は何だよ!」


 久朗津くんはやけっぱちになって怒鳴り返した。

 今この世界の法則は、眠目くんの妄想と欲望とやる気である。眠目くんの夢見がちな脳みそに冷水を浴びせかけるような衝撃を与えられれば、その原動力は途切れる。

 つまり我に返ればいい。

 ポケットの中のスマホ(の中の兄)が、渾身の力を込めて叫んだ。


「ドラゴンフルーツは、サボテンだ!」


 だぁーだぁーだぁー……と、間の抜けた大音声がワサビ色の空に響く。


「…………」


 何だそれ、と久朗津くんは今日も思った。

 しかし変化は起こった。

 頭にドラゴンフルーツの籠盛りを乗せていた街路樹が、ボンッとサボテンに変身した。しかもベンケイチュウサボテンである。柱のような本体の両側に、まるで腕のように一本ずつ枝が生えている。しかも顔の辺りには、鳥の巣穴にされたと思しき穴が三つもある。三つ。シミュラクラ現象が発生した。


「やあ、ぼく、ドラゴンフルーツ」


 サボテンが右腕(に当たる枝)を動かして愛想を振りまく。途端、ボボボッとその頭にドラゴンフルーツが咲き乱れた。

 眠目くんが、いつも半分しか開いていない目をくっきりと見開いた。

 久朗津くんは思わず絶叫した。


「絶対そんな感じじゃない!?」


 途端、二人を仲間外れにしていた常識的な重力が舞い戻ってきた。ぐんっと体が重くなり、瞬きした次の瞬間には世界の法則が元に戻る。

 体は中空――ではなく、歩道だ。

 しかし目の前に自販機があった。


『自販機は特に高いからぁー!』


 教師の切実な絶叫が脳裏に蘇る。

 久朗津くんは咄嗟に、すぐ横にあった眠目くんの体に見事な跳び蹴りを決めていた。


「とぉりゃっ!」


「ッ」


 二人の体が自販機の両側にごろごろっと転がる。

 久朗津くんはブロック塀に。

 眠目くんは――


 プップーッ!


 けたたましいクラクション音がした。先程の十トントラックだ。もうスフィンクスはいない。けれどその目の前に、眠目くんがいた。

 先程までの忍者かと思うような身のこなしはなく、呆然と道路の真ん中に佇立している。


「ネム!」


 久朗津くんはがむしゃらにブロック塀を蹴っていた。縁石を飛び越えて眠目くんの体を抱きしめる。その真後ろを、トラックが爆風を巻き上げて通り過ぎた。


「馬鹿野郎! 轢いちゃうだろが!」


「すんませんっしたぁぁ!」


 少し先で急停止したトラックから、運転手が顔を出して怒鳴る。久朗津くんは男子高校生らしくほぼ怒声で謝罪した。

 本当は直立直角で謝りたい気分だったが、まだ腕には眠目くんを抱きしめて、反対側の歩道にすっころんだままである。

 ぷりぷりと怒って去っていくトラックを見送りながら、久朗津くんは深々とため息をついた。


「……馬鹿ネム。俺はこんなことのために鍛えてるわけじゃねぇんだぞ」


 自分よりも抜群に運動神経がいいくせに、目的もなく動きたくないからという理由で体育を苦手科目と公言する眠目くんに、在学中に勝つためである。勿論内緒である。

 しかし久朗津くんの愚痴に、返事はなかった。よっこらしょと上半身だけ起こして、いまだ腕の中で悄然としている幼馴染みの顔を覗き込む。

 どうやら、やっと反省というものを覚えたらしい。それならば少しだけなら許してやるのもやぶさかでない、と久朗津くんが思った時である。

 眠目くんが、瞳を潤ませて、久朗津くんの瞳を見上げた。


「ネ、ネム……?」


「……財布、忘れてきちゃった」


「知るか!」


「パタン、お金貸して?」


「嫌に決まってんだろ!」


 久朗津くんは血管がキレそうだと思った。もう次は絶対追いかけないと心に誓う。

 しかしその勢いも、しゅんと肩を落とした眠目くんの次の発言であっさり折れた。


「……じゃあ、いい。もっかい走る」


「わ、分かった! 貸す! 貸すから走るな!」


 ぱぁぁぁ……!

 眠目くんに笑顔が戻った。最早恐喝ではないかと思う久朗津くんである。

 しかしながら。


「いらっしゃーい。限定アイスはいかがですかー? あと一分で販売終了ですよー」


 うきうきしながら、眠目くんが公園入口に停まったポップな移動販売車に向かう。

 アイスは、無事買えた。


「いる?」


「いらん!」




 余談だが、やる気を出した後の眠目くんは、猛烈な眠気に襲われる。最低でも一時間は昼寝をして体力を回復するのである。

 その回復のタイミングが校門まで持つかどうかは、運次第である。

 主に久朗津くんの。


「ね、寝るな! まだ寝るな! せめて教室に戻るまで……!」


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