新たなる支配者/NEONE_4-8

 美衣子の手に『ルルイエ異本』が渡ったのは、大二が学都へと帰還した日の、亜門がセラとの出会いをしたあのカフェでの出来事だった。大二が土産と称した品物の中に、『ルルイエ異本』の複製である色状記憶塗料は紛れていた。

 無論、ビンに入っているだけではただの塗料と変わりない。しかしそれが一度異界に触れたなら、塗料は魔力を持ち、『ルルイエ異本』という生きた魔導書となる。

 言うならば予備バックアップ。ルルイエを広げた際に起動する、最後の魔導書。起動の際に側に居た人間がどうなるかなど、想像には難くない。

 或いは、自分と同じNEONEを増やそうと、大二は本気で二人を変生させるつもりだったのかもしれない。尤も、本人亡き今、その真意は誰にも分からないだろう。ただ一つ確かなのは、この大二の計画が最初から最後まで抜かりはなく、亜門を追い詰めるという点に関して、十分に効果を発揮していたことだった。




「ミーコ!!」

 セキュリティを全てハッキングで解除し、亜門は美衣子の住まう部屋の扉を開く。

 そこから見える光景に固唾を呑んだ。

 家主の趣味が詰まった可愛らしい部屋は、見る影もないほど『古い印』に埋め尽くされていた。壁一面に広がる文字は一部の乱れなく正確に配置され、部屋の中に蜘蛛の巣のような幾何学模様を作り出す。

 美衣子はその中心にいた。外で見たものよりもラフな格好を身に付け、眠るように気を失う。しかし、そこから覗く素肌は『古い印』に覆われ、既に魔導書が占領していた。

 部屋を覆う『古い印』は美衣子の身体の中、色情記憶塗料に記録された『ルルイエ異本』から広がっていた。

「既に体内に、魔導書が……!」

 考え得る中で最悪の事態が起きていた。『ルルイエ異本』は美衣子の身体へと定着し、人知れず活動を開始していた。

「まずいね。彼が彼女の夢を侵食し始めた。ここで魔導書を破壊しないと、彼女はNEONEになってしまうよ」

 美衣子の内面で起きている変化をセラは冷静に分析する。言葉を裏付けるように、美衣子の表情には苦悶の表情か浮かんでいた。

 夢野角の色も、人のものから、魔導書特有の濃色へと変わりつつあった。内面から徐々に変わりゆくそれは、紛れもない変生だった。

「待て、そんな事をしたらミーコはどうなる? 変生した人間の魔導書を破壊すれば、持ち主の肉体は消滅するんじゃないのか?」

「……そうだ。だけどここで破壊しなければ、彼女もNEONEになり、彼と同じ行動を取る。そうなってしまう前に早く!」

「そのためにミーコを犠牲にしろと? 本気で言っているのか?」

「だからと言って放っては置けないよ。魔導書が覚醒するまで時間はない。彼女が目覚めてしまえば、また街に被害が出る。そうなれば結局全て一緒だ。今までの行いを無駄にしないためにも、今魔導書を破壊しないと!」

「分かっている!! そんなことは、俺も分かっている……」

 亜門は必死に考えていた。美衣子を犠牲にせず、魔導書だけを破壊する方法を。

 だがいくら思考を張り巡らせようと、具体的な案は何一つ浮かばない。

 今まで亜門は、魔導書を破壊することだけを考え行動してきた。被害を抑える一心で、NEONEに変生した人間を手にかける。それが増え続ける敵に対する最適解であり、最善の方法だと信じていた。

 合理的な行動をとる反面、魔導書に憑かれた人間のことは考えていなかった。もし考えてしまえば、救えるはずだった人間を救えなくなる。故に、それを貫いてきた亜門が、使用者を生かしたまま魔導書を破壊する術など分かるはずもない。

 今更別の手段を探そうにも、模索する時間は無い。こうして悩んでいる間にも、美衣子の変生は進んでいた。

「亜門!」

 セラの呼びかけで、亜門は現実に戻る。

 セラの言葉通り、素早く魔導書を破壊しなければ、町にさらなる被害が出ることは確実だった。街の被害を抑えるには今、ここで美衣子の中にある『ルルイエ異本』を破壊するしかなかった。

《『MEMORY_TERMINATE』実行》

《『Re:R'lyeh.txt』補足。削除開始…………中断》

「……駄目だ。俺には出来ない……!」

 魔術を起動し、目的のデータを破壊するだけ。幾度となく繰り返したはずの動作を、亜門はどうしても行うことが出来なかった。

 脳裏に浮かぶ彼女の笑顔が、亜門の手を止める。

「俺は身勝手な人間だ。ここまで来て、あと少しで全てが報われるのに……自分に親しい人間一人、救えはしない!!」

 街の平穏が目の前にあって、ただ一つの行為で全てが報われようともも、美衣子を犠牲にしては手を伸ばせない。

 彼女の行動に救われたからこそ、その理想を傷つけることができない。

 合理的な答えが頭で理解できていても、本能がそれを拒絶していた。亜門に取れる行動は、ただ項垂れるのみ。

「大二の言っていた通りなのかもな。……俺も結局、奴と同じ、エゴでしか行動できない怪物か……」

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