生け巣/Dagon_3-5

 学都の地下深くには巨大な地底湖が広がる。地上にそびえ立つ第二学区の水産センターから、ひたすら下へ向けて伸びるエレベーターの先に、目的地である八幡研究所はあった。

 エレベーターから降りた亜門を、一面のガラス張りの天蓋が迎える。そこから覗く湖は一寸先も見えないほど暗く、生命を感じさせないほど静かだった。それは湖だけではない。研究所には各研究室へと繋がる扉といくつかの応接用のソファーが備え付けられているが、そのどれにも人影は一切存在しなかった。

 静寂に包まれた無人の空間にもかかわらず、得体の知れない不穏さがあることを亜門は肌で感じていた。

「なるほど、これでは確かに警察には分からない訳だ。異界が巧妙に隠されている。だが、今の俺には見える!」

 魔導書を組み込んだ亜門の義眼は、人の目には映らない魔力を色として認識する。

 亜門には見えていた。地底湖を映すガラスの向こうに存在する本当の世界。そこを泳ぐ無数の生命体、その奥に潜むより強い魔力の持ち主を、義眼を通して捉えていた。

 足を踏む入れた亜門の存在を感じ取った深きものどもは、天蓋を破り、研究所内へなだれ込む。

「さっそく迎えてくれるみたいだね」

「らしいな。行くぞ、セラ」

「AAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAッ!!」

 狂気の合唱を上げて深きものが迫りくる。巣にいるだけあって、亜門を狙う動きは俊敏だった。亜門が相手をしたどの深きものの中でも格が高いと思われる知性と身体能力を持つ、さながら王を守る近衛兵だった。

 彼らの強さが物語る。この奥に間違いなくダゴンがいる。

「NEONE!!」

《『The_King_In_Yellow』変生》

《『TENTACT_DEITY/HASTUR』開始。形状"外套"》

 指で虚空に古い印を描き、呪文を唱えて、亜門黄衣の王は再び目覚める。

 身体が割れ、中から黄衣を纏った鋼鉄の支配者が姿を現す。

 隊列を組んで襲いかかる深きものを、亜門は束ねた黄衣で一掃する。いかに近衛兵であろうと所詮は深きもの、力の差は一瞬でひっくり返る。

 ここには美衣子も他の人間もいない。気兼ねなく亜門は魔術を行使することができた。

《『MEMORY_TERMINATE』実行。形状"ストリング"、0%……50%……》

 一度黄衣に触れてしまえばそれが決定打となる。黄衣は形を変えて糸となり、深きものの体へ絡み付く。糸は全身をくまなく縛り、身動き一つ取れなくなった深きものの体を締め付け、やがて、

《100%》

《『ALA002.zif』削除》

《『ALA003.zif』削除》

《『ALA004.zif』削除》

《『ALA005.zif』削除》

 糸は刃となり、深きものの全身を切り裂いた。苦悶の断末魔を上げる間も無く、深きものは魔導書ごと葬り去られる。

 魔導書の残骸は全て亜門の古い印へ吸収された。近衛兵という亜門の見立てを裏付けるように、彼らの魔導書に割り振られた数字はどれも古い数だった。

「亜門、彼らは時間が経てば成長する。そして一番成長した者がダゴンになる習性がある。つまり……」

最初001の魔導書を見つけ出せば!?」

 セラの助言を受け、亜門は破壊したデータからコピー元の魔導書を探ろうとする。

「亜門、後ろだよ!!」

「っ!?」

 索敵に気を取られていた亜門を、不意の一撃が襲う。そこで初めて、深きものの攻撃をいくら受けても微動だにしなかった亜門の身体が宙を舞った。

 そのまま研究所を支える柱の一つへ激突する。

 それは巨大な鞭のようにしなり、亜門に襲いかかっていた。研究所の照明を照り返す鱗の輝きが、それが規格外の大きさを持つ生物の身体の一部、だということを示す。

 人よりも大きい足が地響きを鳴らす。広い研究所を埋めるほどの巨体を持ち上げ、この巣の主が姿を現す。

 それは人と呼ぶにはあまりにも巨大で。

 それは魚と呼ぶにはあまりにも強靭で

 それは深きものと呼ぶには、あまりにも狂気的だった。

 一目で分かる。

「こいつが、ダゴンか」

 柱の瓦礫を退かして亜門は立ち上がる。

 見上げる巨体、異様に発達した巨大な口には、小さな人ほどの牙がずらりと並ぶ。意思があるのか、双眸は虚ろではなく、はっきりとした敵意を持って亜門を捉える。

身体の節々に、人間だった名残を思わせる白衣が引っかかっていた。それは研究者の証、この研究所の最高責任者の所持品だった

(そして、八幡教授か……)

 映像を見たときから、八幡教授が変生していたことは分かっていた。深きものと化し、自身と対峙するであろうことも。

 来るべき時が訪れた。

 狼煙を上げるようにダゴンが動く。見上げるほどの巨体が亜門に向かって飛ぶ。

「!? 速い!」

 まずは一撃、続けて二撃三撃と亜門に攻撃が加えられる。

 ダゴンの攻撃は至ってシンプルだった。圧倒的な質量から繰り出される掌底をただ亜門に叩きつけるだけ。知性を感じさせない行動、しかしそれが一番厄介だった。

(これは、不味い)

 凄まじい力だった。一撃を貰う度に研究所が揺れ、壁や床に亀裂が入る。変生してから無傷だったNEONEの肉体に軋みが生じ始めていた。

 反撃しようにも、サイズがあまりにも違う。息をつかせぬ猛攻に、さしもの亜門も黄衣で身を固めることで精一杯だった。

「GAAAAAAAAAAAAAOOOOOOOOOOOOOOOOOOッ!!」

 耐える亜門に痺れを切らしたダゴンは、亜門を片手で鷲掴みにする。

 そうして天蓋に向け、投げ飛ばした。

「亜門、そっちはダメだ! 外は!」

 セラの制止も虚しく、亜門の身体はガラスを突き破り、研究所の外へ出た。

 研究所の外にあるのは中から見える湖ではなかった。

 一面の『膿』。研究所と湖の間には水はなく、代わりに『膿』がひしめく異界が展開されていた。

 『膿』が亜門の身体を覆う。これこそダゴンの狙いだった。

 自らの狩り場へと誘導することで、亜門が持つ強固な守りを崩す。ダゴンが手を下さずとも、後は異界が自動的に外敵を同化、あるいは吸収しようと働く。凶暴な見た目にもかかわらず、ダゴンが取った手段は合理的だった。

《『The_King_In_Yellow』耐久率低下、85%……78%……60%》

 異界が圧力をかける。素の人間とは違いなかなか吸収できない亜門を、鎧ごと圧砕しようと膿が流動する。

 黄衣の耐久性が下がっていた。これ以上、機能が下がると変生の維持すら困難になる。さらに亜門を追い詰めるように、周囲の膿を泳ぎ、複数の深きものが近づいていた。

 対処しようにも膿がまとわりつき、身動き一つとれない。

 亜門の有利な状態へ、場所を変えるしかなかった。

 義眼が見た世界へ。

 旧支配者が夢想する世界へ。

《異界構築『Celaeno_Lost_""_Library』展開》

 膿に埋め尽くされた異界が断裂する。空間を上書きする亀裂が地底湖を走り、亜門が構築する新たな世界を固定した。

 瞼を開けるように異星の砂漠が地底湖に広がる。その世界は亜門の瞳の如く、異界に潜む外敵の所在を色濃く暴く。

《『ALA006.zif』から『ALA104.zif』まで捕捉》

《『MEMORY_ALL_TERMINATE』実行。0%……50%》

 『膿』に潜む深きものと魔導書は全て把握した。砂漠に降り立った亜門は、その全てに対し攻撃を仕掛ける。

 『黄衣』は毛細血管のように異界中を駆け巡り、服を縫うように丁寧に、雲を散らすよりも速く、地底湖の深きものを捕獲する。

《100%》

 アナウンスが魔導書の破壊を告げる。

 ついに地底湖に潜んでいた深きものは、一体残らず消滅した。今や地底湖全域が亜門の手中にあった。逃げ場など何処にも存在しない。

 残るは大元ALA001.zifのダゴンのみだった。障害を排除した亜門は異界を敷いたまま、研究所へ戻る。

 しかし、研究所にはセラしかいなかった。

 あの巨体が影も形もなく消え去っていた。

「ダゴンが消えた?」

 破壊した魔導書は全て把握している。どれもコピーされた魔導書であり、最初のネクロノミコンはなかった。

「彼は上に逃げたよ。異界が塗り替えられたら勝ち目がないと悟ったみたいにね。見た目以上に理性があるみたいだ。おまけに、鼻もいい。君の世界に引っかからないように登って行ったよ」

「それを黙って見てたのか?」

「仕方ないじゃないか。ボクは魔導書。主人の命令なしには動かないよ。それとも、勝手にあれこれ奉仕するほうがキミの好みかい?」

「……状況が状況だ。自分で判断しろ」

「難しい事を言うね、キミは。ボクはそういう人間らしい行動をするのは、苦手なんだ」

珍しくセラは頭を抱えていた。

出会ってから初めて見せるその表情に、亜門は仮面の下で驚く。

「人間みたいな姿で、人のような言葉を喋っておいてか」

「キミだって言っていたじゃないか。ボクは人間じゃないと。それはボクが魔導書であり、人間に使われる道具って意味合いだろう?」

 それはデパートで亜門が思わず口にした言葉だった。美衣子の事で気が動転した亜門をたしなめ、冷静さをもたらしたセラに対し、悪意のある言葉をぶつけてしまったことを亜門は覚えていた。

「あれは……言葉のあやと言うか、なんと言うか。正直口に出すべき言葉ではなかった。失言だ。…………すまなかった。とにかく、今はそうは思っていない、とだけ伝えておく」

 しどろもどろになりながらも亜門は謝罪をする。しかし当の本人は、なぜ亜門が謝罪しているのか理解できていないようで、疑問に頭を傾げていた。

「? ……するとボクは人間なのかい?」

「俺は意思の有無が人間を人間足らしめると思っている。しかし他の人間がそう思うとは限らない。だから、俺に言えるのは、分からない、ということだけだ。分からないからこそ、自分がどう思うかが大事なのだと思う」

 人の形をしているものだけが人間なのか?

 それは昨今に至るまでの研究者たちの永遠の議題の一つだった。義体や人工知能といった分野が発展すればするほど、人間性という境界線が曖昧になる。

 現状、その明確な答えは出ていない。もちろん、亜門も同様だった。

 ただ一つ確実なのは、亜門はもうセラを道具だとは思っていない、ということだった。

「少なくともお前は何かを学び、そして答えを出そうという意思がある。俺はそれを尊重する」

 出会いから何度も助けられていた。人間としてかは分からない。魔導書という情報体としての偏見もある。だがそれでも知性ある一人として亜門はセラを頼りにしていた。

「……変だね。やっぱり人間は」

 頭を振り、亜門に聞こえないように呟く。心底理解が出来ないといった様子だが、呆れ果てている訳ではなかった。

「さて、そろそろダゴンを追うぞ」

 哲学にふける時間はない。会話を切り上げ、亜門はセラとともに地上を見上げる。

「そうだね。そして地上の異界のどれかに雲隠れするはずだよ。彼はかなり慎重だ。キミが異界を展開できると分かった以上、隠れている間は動くことはほぼないだろうね」

「逃げた今が追う好機、か」

 学都は広い。どこに異界があるか未だ分かってはいない。数も不明、万が一にでもダゴンに雲隠れされてしまえば、探し出すのに相当な時間を有することは容易に予想が付く。

 まだ痕跡を追える今が好機だった 

 目を凝らし、亜門は研究所から地上に伸びる青い軌跡を追う。

 地下から地上へ、戦いの輪を広げる。

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