目覚め/The_King_In_Yellow_2-8
膨大な人が膿に取り込まれている壁中に、亜門は祈るように硬直した幼馴染の姿を発見した。
悩んで決めたであろう服装も、手入れを怠らない長い髪も、無惨にも『膿』と同化し、今まさに膿に沈みかけていた。
「入っちゃダメだ!!」
思わず劇場に踏み入りかけた亜門を、セラが制止する。珍しく声を荒げているが、この状況で一番冷静な判断だった。
「入っちゃダメだよ亜門。この中はすでに異界だ。耐性を持たないただの人間が触れれば、抗う間も無く取り込まれる」
亜門は足元を見る。もうすでに『膿』は劇場の扉の目一杯まで広がっていた。
今まさに『膿』に自ら足を踏み入れる寸前であり、亜門は我に返る。
「まさかここまで広がっているなんてね。……亜門、これが人が彼らに敵わない理由だよ。例え君がこの一帯の機械を全て操り、彼らの力を上回ったとしても、彼らには異界がある。彼らは異界に潜み、移り、そして君たちを襲う。この領域では世界の方が彼らの味方なんだ」
知っていた。知っていたはずだった。人が深きものに敵わないことなど、昨日セラから説明を受けて知っていたはずなのに、この光景を目の当たりにするまで、亜門はその本当の意味を理解出来ずにいた。
体格や膂力などさしたる問題ではない。異なる世界を味方につけている、その事実こそが深きものの本当の脅威だった。
耐え難い現実に亜門は立ち尽くす。目の前に幼馴染がいるのに、その距離はこの世界のどこよりも遠いと言えた。
「どうすればいい。……どうすればミーコを助けられる?」
か細く亜門は口にする。自分の無力さを噛みしめるように、拳を握り、セラに問う。
しかし、セラは無情にも首を横に振った。
「無理だね。こうなるともう手遅れだ」
「無理じゃない!! なんとかしろと言っているんだっ!!」
声を荒げ、亜門はセラに掴みかかる。
実体のないセラに触れても何の脅しにもならない。しかし今の亜門はそんな事すら判断できないほど冷静さを欠いていた。
「魔術は万能じゃない。あくまでもこの世界とは違う世界の法則に従ったものだよ。石を擦ると火が出るように、過程としての行動が術式の結果として得られるだけさ。世界そのものをどうにかしているわけじゃない。キミの友人は『膿』に上書きされた」
混乱の最中にあってもセラの口調は変わらなかった。からかうように、あるいは諭すように、幼馴染と同じ姿で、亜門の心情などお構いなしに事実を口にする。
どこまでも合理的な判断に、亜門は改めて目の前にいる存在は人外なのだと悟る。
「やっぱりお前は……人間じゃない。だだの見せかけなんだな」
「……そうだよ。ボクはあくまで魔導書。魔導書を破壊するために生まれた、この地球外から飛来した端末だ。そう言ったはずだよ、亜門」
亜門の吐露した言葉を理解して、セラは自ら肯定する。
その答えは魔導書として当然のもの。しかし僅かな時間を共に過ごし、信頼してきた亜門にとって、その答えとは心に刺さるものだった。
「仮に……だ」
ふと、念を押すようにセラは言う。触れてはならぬパンドラの箱に触れるように、静かに口にする。
「仮に、キミの言うような異界を退けるような方法があったとしよう。……だけど、世界そのものを歪めるなら、その使い手はその力に沿った反動を受けなければならない。キミにそれほどのリスクを追う覚悟があるのかい?」
セラの言葉には含みがあった。昨日と同じ、まるで別の方法があるかのような口ぶりに、亜門は希望を見出す。
「あるのか? そんな方法が、魔術が!?」
藁をも掴む思いの亜門に対し、今度もセラは首を横に振る。
「ボクの中に記録されている魔術にはないよ。そもそも、これまでにあったあらゆる魔導書にもそんな魔術は存在しない」
「それじゃあ……」
(いや待て。何と言った? これまでにあった魔術にはないっと言ったか)
意味がない、という言葉を飲み込み、亜門は一つ気付く。
そんな魔術がないのなら、今現実を侵している異界は一体どうやって生み出されたものなのか?
旧支配者が存在する環境を再現した空間が、異界だとセラは言った。ならばその空間を実体化出来るのは、その領域の神たる旧支配者だけ。
「まさか……」
「気づいたみたいだね。そう、異界を生み出しているのは彼らだ。彼らが旧支配者の力を行使し、この地獄は生み出され続けている。ならどうすればいいか? 答えは簡単だよ。こちらも同じになればいいんだ」
目には目を、歯には歯を。その言葉通り、セラの提案は極めてシンプルなものだった。
未知なる力には同じ未知なる力を。人間には踏み入ることのできない領域を生み出しているのならば、こちらも同じ領域を生み出せばいい。相手が人間でないならば、こちらも人間を止めればいい。
「俺に、あの怪物と同じになれと?」
「同じじゃない。生憎だけど、ボクが呼び出す方法を知っている存在はただ一つ。深きものみたいな下等な眷属じゃない、世界を塗り替える、正真正銘の旧支配者だよ」
セラは目を輝かせながら口にする。
どのみち亜門にとってロクでもない提案なのは一緒だった。このデパートに巣食う魚人と同じか、それよりもおぞましい存在になるかの違いである。
ただそれでも、この状況を打開できる提案としては、決して無視できるものではなかった。
「本当はあまり教えたくはないのだけどね。キミが望むなら、その方法を授けよう」
「……それは、なぜだ?」
「危険だからさ。深きものの変生、その術式を解析してよく分かったよ。『NEONE』とは脳に直接旧支配者を呼び出す魔術だ。脳に呼び出された旧支配者により術者の姿は変貌し、術者と深く繋がったインナーユニバースにその生存領域、すなわち異界が展開される。効果は絶大だ。しかしその代償は他の魔術などの比ではないよ。正気を失うかもしれない。あるいは人としての姿形が変わるかもしれない。そして最悪、死を迎えるかもしれない」
現実を侵すほどの力。世界を書き換える権能。これから亜門が授かろうとしている魔術は、まさに人が夢見るような強大な力を授けるものだった。しかし、超常的な存在を脳に召喚しなけれはならない代償は、
「……最悪、死か。魔導書にしては随分と気遣うじゃないか。使い手の事など気にかけず、有無を言わせず実行させたらどうなんだ?」
「これでもキミを気遣って言っているのだけどね? キミが死ぬと言うことは、キミの右目にいるボクもやがて停止することを意味する。一心同体なんだ。だからこそ、担い手であるキミにはあまり危険に陥ってほしくないんだよ」
「魔術を使うこと自体が危険なのに、よく言う」
結局は自分の生存のため。魔導書としては至極真っ当な、相容れぬ価値観に亜門は嫌悪感を抱く。しかし嫌悪感が増すほど頭の中は冷静になり、皮肉にも亜門は平常心を取り戻していた。
セラがどんな考えを持っていようとも関係ない。最悪の状況を打開する、そのために今亜門が頼れるのはその魔術しかなかった。
「方法を教えてくれ」
危険なのは承知している。だが後には引けない。全てが手遅れになる前に自らの手で美衣子を助けねばならなかった。
亜門の懇願に、セラは無言で手を振るう。
いつの間にか一冊の本が手の中に収まっていた。分厚く、何の装飾もないそれは、亜門にとって初めて見る形式の本だった。
「これはキミの記憶を書物化したものだ。キミの過去、思想、現在の人生に至るまでの全てが記されている」
手に握られた本が開かれる。それは人の人生を電脳化させたとも言える所業だった。
本が自動的に捲れて、これまでの亜門の過去が矢継ぎ早に現れては消え、次の過去へ切り替わっていく。
走馬灯は矢のように過ぎ、昨日の出会いへ。やがてそこからは白紙のページが止まる。
「これが未来だ。ここに『古い印』を描くことで旧支配者との契約は完了する。後には引けない。もう一度言うよ。人が知るには過ぎた狂気の世界へ、共に踏み入る準備はいいかい?」
白紙のページは亜門の迷いを映すように揺れていた。
時間はない。既に義眼を通して、映画館のシャッターが破壊されたことが知らされていた。背後の通路にはから水気を含んだ足音が響き、ついには劇場内の『膿』からも深きものはその姿を現し始めていた。
まさに惨劇が始まろうとしていた。
深きもの共は異界の中にいる人間を捉え、その頭蓋を力づくで奪うだろう。奴らの力をもってすれば、人間の頭など果物を引く抜くように容易く引き裂くことが出来る。どんな人間だろうと抗うことができず、どんな善人、悪人も関係ない。皆、平等に果実のように殺される。
その中にはもちろん美衣子も含まれていた。
「ミーコ……」
揺れる亜門の決意を揺るぎないものにしたのは、囚われた美衣子の姿だった。
既に身体のほとんどが異界と同化し、辛うじてその輪郭だけが残っていた。人間らしさは失われ、そこにいたことすら霞のように消えかけていた。
認められるはずがなかった。こんな現実を受け入れることなど、亜門には出来るはずもなかった。
「……三つだ」
「?」
「俺と契約する上で、三つ約束しろ。そうすれば俺の未来をお前にくれてやる!」
「!? それはつまり……」
「ああそうだ。この町にある魔導書全てを破壊してやる!」
決意は決まった。亜門の眼はまっすぐに、己の生末を見定める。
「それで、その三つの約束とは?」
「一つ、知っていることは全て話せ。隠し事をするな。聞かれたことは全て答えろ」
「それはもちろん。これからは名実共にボクはキミの所有物だ。知りたいこと、持てる知識の全てを教えることを誓うよ」
「二つ、俺の正気がある内は人の姿でいさせろ。どんな魔術を使っても、どんな姿に成り果てても、人間には見えるようにしろ」
「うん、いいとも。精神性が正常である限り、キミを人間の姿へ戻すことを誓うよ」
あと一つ。期待するセラを眺めながら亜門は深く息を吸い込み、吐いた。
「三つ、必ずミーコを助けろ」
「それは……キミ次第だ!」
すぐさま亜門は手に持った本に『古い印』を描き込む。
その瞬間、まるで重力が何倍に膨れ上がったような負荷が、亜門の頭にかかる。昨日味わったものに近い、無理矢理脳が広げられる感覚とでも言うべき圧力が、何倍もなって亜門を襲う。
吐き気のする感覚は次第に鋭利になっていく。真っ先に反応を示したのは聴覚だった。亜門の耳に、今まで聞こえなかった声が聞こえ始めていた。
「Ia! Ia! Ia! Ia! Ia! Ia! Ia! Ia! Ia!」
それは亜門の脳内から響いていた。
叫ぶような、あるいは呼びかけるような言葉が、いくつも連鎖し、大合唱へと変化する。知らない言語にも関わらず、亜門は即座に理解した。
(これは、賛美だ)
彼らの主、これから来る支配者を讃える、歓喜の声だった。
「さあ、産声を上げよう。現実と夢、人と神の境に立つ、新たなる支配者の誕生だよ!」
情報が流れてくる。それは自身の名。旧支配者を繋ぎ止めるための楔であり、変化のための呪文。
思うまま、亜門はその言葉を口にする。
「『NEONE』」
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