幻影の呼び声/Grimoire_1-8

 頬に硬い感触を受け、亜門は目を覚ました。

(どうやら、気を失っていたようだな)

 どれほどの間そうしていたのかは判断しかねる。亜門が横たわっていたのは黄色い布の上だった。布は滑らかに、砂のように手にさらさらとまとわりつく。

 立ち上がり、周りを見渡すとその場所の全貌が明らかになった。

 一言で言えば、そこは書庫だった。さらに付け加えるなら書庫としか表現できなかった。

 視界中に広がる、本という本。驚くべき事に棚も壁も、地面以外何もかもが本で成り立っていた。びっしりと敷き詰められた本が周囲を覆い、このドーム状の広大な空間を形成していた。

 だが、それよりもさらに目立つのは、中央にそびえ立つ巨大な菱形の物体だった。石碑のようにも見えるそれは、宙に鎮座し、風もないのにゆっくりと回転していた。

(あれはなんだ? そしてここは一体?)


「ここは『異界』だよ。人間ヒューマンくん」


 戸惑う亜門に、声がかけられる。

 積み上げられた本の一角、その頂点に一人の人物が佇んでいた。『黄布』をフードのように身に着けた人物は、階段状に積まれた本を踏み歩き、亜門の元へと降り立った。

 その姿を見て、亜門は驚く。

「……ミーコ?」

 大きな瞳、透き通るような面影を間違えるはずがない。フードの中から覗く姿は、亜門の幼馴染み、武藤美衣子と瓜二つの姿だった。

 目の前にいる少女は、亜門の記憶にある美衣子そのものの笑みを浮かべていた。

(いや、ミーコであるはずがない。姿は、ミーコがまだ学都にいなかった時の、俺と共に過ごしていたときのものだ)

 よくよく凝視すれば、顔は今よりも幼く、体格も小さい。

 そしてローブの内側に垣間見える学生服、それは亜門と美衣子がかつて通っていた学校の指定服だった。今の美衣子が着ているはずもない、過去のものだった。

「お前は……誰だ?」

 目の前の人物の姿は確かに美衣子だった。しかしそれはかつての美衣子の面影であり、断じて今の美衣子ではなかった。

 少女は質問に答える。

「ボクは■■■■■、おっと、これは発音できないね。この星より遙かに遠く、プレアデス星団より飛来した、君たちで言うところの魔導書。その知識インフォメーションであり、端子インポートであり、そして目次インデックスだよ」

 幼い容姿から繰り出される言葉は、あまりにも亜門の常識からかけ離れたものだった。

 プレアデス星団。魔導書。聞き慣れない単語の奔流の中で、理解できたのはただ一つの事実だけだった。

「人間……じゃないのか?」

 少女の言葉を飲み込みながら、亜門は一つずつ疑問を整理していく。

「知識であり端子だと、言ったはずだよ。ボクは、ボクを見た者の知性、その象徴の姿になるのさ。人間が見ているなら人間に、カエルが見ればカエルの姿にでもなるさ」

「俺の……知性の象徴?」

 彼女の言葉をそのまま受け取ると、亜門が見ている少女の姿は、己の持つ知性のイメージが出力された映像のようなもの、ということらしい。

 何故、幼き美衣子の姿を模しているのかは不明だったが、生きた人間ではないということは確かなようだ。

(つまりは、AIのようなものか……)

「人工知能、ではないね。ボクを造ったのは人間じゃないのだから。遠い宇宙の、人とは異なる生命体が、石碑に知識を埋め込んだ。それをキミが観測することで、ボクはこうして知能として存在するに至るのさ」

「……っ! 俺の思考を!?」

 自然に脳内を読まれ、亜門は目を見開く。

同時に納得もした。

 目の前の少女は確かに人間ではないと。

「なるほど、確かにさっきも言っていたな。プレアデス星団から飛来したと。……プレアデスはおうし座の星団。するとお前は宇宙から来た隕石。後ろに存在する菱形の石が本体で、お前は映し出した映像、と言ったところか」

「その言い方には語弊があるけど。……うん、概ね想像通りだよ。この石碑こそ要。旧い支配者の知識を蓄えた『セラエノ石碑』。それがボクという魔導書だよ」

 少女は身に着けたローブを翻し、『セラエノ石碑』と呼ばれた宙に浮く菱形の石を撫でた。呼応するように、石碑は光を放つ。その表面には未知なる記号が次々と浮かび上がっていた。

 『魔導書』という言葉の意味を亜門は未だ理解できていない。しかし、彼女と後ろにある石碑が宇宙から飛来した事と、どうやら彼女に命を助けられた事は間違いなさそうだった。

 ならば、先ほどの不可解な現象の正体を知っている可能性も高かった。

「知識であるなら聞きたい。この空間は何だ? 外のあれは何なんだ? どうしてあの『膿』は現実を侵食している? そして、どうして人が怪物になる?」

 矢継ぎ早に亜門は質問を繰り出した。その様子からは焦りが見える。

「やれやれ、質問が多いね。全部答えてあげたいところだけど。そんな時間、あるかな?」

「それはどういう……」

 疑問を口にしようとした矢先に、突如として地震が起きた。立つのも難しいほどの揺れが発生し、衝撃で外壁として使用していた本が何冊か落ちる。

「何だ!?」

「見つかったね」

 揺れの原因は壁の向こうにあった。本が落ちた隙間から『膿』が覗く。『膿』は今、まさに亜門と少女のいる空間に侵入しようとしていた。

 少女はそこに向け手をかざす。すると周囲の本が自動的に動き出し、右から左、左から右へと隙間を埋め、『膿』を締め出した。

 ひとときの静寂が訪れる。しかし隙間を埋めた分、壁を形作る本は減り、空間は狭まっていた。

「完全に包囲されたね。いよいよもって、外にいる彼らがこの空間を破壊しようとしているってことだよ」

「彼ら……?」

 少女は告げる。怪物の正体。人を人ならざるものへ変えた異形の名を。

「『NEONE』だよ。『旧支配者オールドワン』より力を賜りし者たち。内なる宇宙に対応した『異界』の新たな支配者をボクはそう呼んでいるよ。外にいるのは、その中でも格が低い『深きものディープワン』だね」

「『異界』……それがこの空間のことか?」

「その通り。夢と現実の境界。電脳の中で再現された旧支配者の住処を模した世界。キミも見たはずだよ。外に蔓延る『膿』を」

 夢と現実。考えられるのはインナーユニバースだった。少女の話が本当なら、この空間はインナーユニバース上に存在しているということだった。

 あまりにも荒唐無稽な話であるが、どれだけ非常識でも、亜門はその考えを完全に否定することはできなかった。

 暴走車、『膿』、そしてこの『黄布』と本の空間。それらを続けざまに目撃して、それでもまだ常識という枠にこだわるほど、亜門は現実主義者ではなかった。

「だけど、この領域もいずれ消える」

 少女は破滅を口にする。感情的ではなく、ただひたすらに淡々と事実を述べるように。

「それは、何故だ?」

「単純な話さ。『異界』は空間を侵食する。異界同士がぶつかれば、お互いの世界を喰らい始めるのさ。そこからはもう、世界の質量が多い方が勝つ戦いだ。喰らい合い、奪い合い、そしてただ一つの世界しか残らなくなる」

 そこから先は亜門でも予想できた。

「今、この空間も負け始めている。……そういうことか?」

「いや違う、もう完膚なきまでに負けているんだ。周囲を完全に囲まれた。キミを引きずり込んだ時は、相手の『異界』に空いた僅かな隙間を利用したけど、それももうないよ。今は魔導書にある、ありったけの知識を防壁として利用しているけど、それでも長くは持たないだろうね。あちらは外部からどんどん補給出来るのに対し、こちらは完全な孤立状態だ。単純な物量差で押し切られるよ」

 お手上げだと少女は言う。それがどうやら事実なのだろう。

 だが亜門には、どうしても少女の口調から、諦めや絶望感といった感情を感じ取ることができなかった。

 むしろ逆。この最悪とも言える状況を打開する意図すら感じていた。

「なにか手があるのか?」

「……なぜそう思うんだい?」

少女は聞き返す。その顔は笑顔を浮かべたままだが、僅かに意地の悪い笑みを浮かべていた。

「お前は、助かりたいか、と俺に言った。それは裏を返せば、助ける方法があるということだ。そうでもなければ、奴らに見つかる危険性を冒してまで、俺を引きずり込む必要がない」

「…………気まぐれだとは思わないのかい?」

「お前が知識なら、自分の益にならないことはしないさ。今なら分かる。暴走車にお前の『黄布』が付いていたのも、それに引きつけられた俺のような人間がここへ来ることを待っていたからだろう?」

 町で車が暴走すれば、必ず騒ぎになる。そうなれば車を止めるために多くの人間がその後を追うだろう。そう少女は隠れながら、人間を集めていた。

 これらは全て亜門の憶測にすぎない。ただこれまでのやり取りの中で、それなり確信を得ていた。

 しばらく少女は亜門を見つめる。想像以上の成果にその頬を緩ませた。つまりは、図星だった。

「……驚いたね。どうやらキミはらしい」

「当たり、だと?」

「待っていたよ。キミのように賢く、知性ある人間を。キミなら耐えられそうだ。『旧支配者』が使う力、『魔術』に」

「魔術、だと……何を!?」

 亜門が驚きの声を上げる。

 聞き慣れぬ言葉にではない。いつの間にか、自身の目の前に移動した少女に対してだった。

 今にも触れてしまいそうな距離で、少女の儚い笑顔が目に焼き付く。

 少女は亜門に手を伸ばすと、その頬をすり抜け、義眼に触れた。

 そこから、地獄が始まった。

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