幻影の呼び声/Grimoire_1-7
学都にはいくつかの学区が存在する。
区間によって特色は異なり、中には人が住まない区間も存在した。
第七学区。
大規模な実験施設や採取場、あるいは下水やゴミなどの処理場など、人の集まる場所には建設しづらい特殊な施設を稼働させるための場所。
亜門が向かっている学区は、そういった目的のために作られた区間だった。
《目的地に着きました。アシストを終了します》
『紙面』に広がる地図を頼りに目的の場所までたどり着くと、亜門の脳内に響いていた案内は終了した。
そこは先ほどまで亜門がいた観光区域の情景とは異なり、辺り一面には建設途中の建物が数多く存在していた。骨身をむき出しにしたままのビルや施設を見るに、どうやらここは新区画開発の工事現場のようだった
幸いなことに、今日は工事が行われていない。鉄やコンクリートの材料と、それを運ぶ重機類が放置される中で、唯一、亜門一人だけが動いていた。
(こんなところに、何かがあるとは思えんが……)
先行きに不満を感じつつも、亜門は問題の『黄衣』を取り出す。
すると、即座に反応があった。
「なんだ……!?」
『黄衣』は水を得た魚のように動き出し、亜門の手を飛び出した。思わず亜門は手を伸ばすが、『黄衣』はするりと手を抜けていった。
『黄衣』はそのまま目の前の建物に流れていく。
外側から見るに、そこは立体駐車場のようだった。『布』はその地下の格納庫へ入って行った。
「ここに、一体何が……?」
亜門はその跡を追うように、暗闇へと潜っていく。
地下駐車場の中は広く、異様な暗さで埋め尽くされていた。電灯が点いているが、それ以外に光源はなく、また頼りの明かりの内、いくつかは瞬きをしていた。
先行きは不明瞭。加えて工事途中なのか、床はまともに舗装されていない。停まっている車も乗用車はなく、作業用の重機が数台停車しているだけだった。
《位置情報を参照していまままままままままままままままます》
コンクリートと土が入り混じった空間に亜門が足を踏み入れると、不意に視覚にノイズが走った。義眼のありとあらゆる機能が停止したように遅延する。
「何だ……!?」
突然の誤動作に亜門はうろたえるが、遅延はすぐに収まった。
ネットワークが切断された訳ではない。ただ義眼の動作に著しい影響を与えるほど、何かの情報がインナーユニバースに流れたのだ。
(インナーユニバースの異常か? ともかく、進んでみなければ)
意を決し、亜門は奥へと進む。警戒しながら左右、奥、手前と視線を移していくと、駐車場の中央で小さな物陰が動いているのを発見した。
それは倒れた人間だった。
「!? 大丈夫か?」
素早く駆け寄り、介抱する。
横たわっていたのは女性だった。その顔に亜門は見覚えがあった。
(確か、『名簿』の…… 行方不明の!?)
大二から渡された八幡研究所の『名簿』。そこに写っていた画像と同じ顔の人物だった。行方不明であるはずの彼女がなぜここにいるのか、問い質すべきなのだろうが、今はそれどころではなかった。
彼女の息は荒く、肌は青ざめていた。辛うじて意識はあるようだったが、ひどく苦しげであり、危篤の状態だった。
「n……n……nn……n」
時折、奇妙な呻き声を上げる。
(なんだ? なんと言っている?)
様子を見かねた亜門が彼女の言葉に耳を澄ませる。すると突然、彼女は目を見開き、亜門の首を掴んだ。
「んぐッ!」
まるで万力。彼女の細腕のどこにこんな力があるのか。指が喉に食い込み、亜門は声の一滴すら出なくなる。
白くなりゆく意識の狭間で、亜門は彼女の体に浮かび上がった未知の文字と、狂気に満ちた目を見た。
「n……nn……nnnnnnnnnnnnnNEONE!!」
雄叫びを上げる。それが合図だった。
彼女の身体が肥大化していく。骨格は膨れ上がり、皮膚が破け、そしてその肌の下からは、銀色に光る鱗が何枚も覗いていた。指の隙間からは水かきが、背からヒレが、大きく裂けた口からは三角状の細かな牙がずらりと覗く。
それは男か女か、最早人間かどうかも分からない。
怪物。まさしく『魚人』としか表現のしようがない、常軌を逸した怪物がそこにはいた。
(彼女が何者なのか、考えている時間は……ない!!)
首を絞められながらも、亜門は覚悟を決める。
一瞬で『紙飛行機』を形成し、視界内にある運搬用の重機に向けて飛ばす。
《形状”紙飛行機”。アクセス開始。0%……100%》
亜門は遠隔操作で重機を起動した。素早くシステムを乗っ取ると、全速力で発進させる。対象は目の前、自身の首を掴む『魚人』へだった。
鈍器に殴られたような音が鳴る。重機の馬力をもろに受け、不意を突かれた『魚人』は駐車場の隅へ吹き飛んでいった。
同時に首から手が離れ、亜門はやっとの思いで呼吸を取り戻す。
「くはっ!! はぁ、はぁ…………しまった」
息を整えるのと同時に、人を故意に轢いたという罪悪感が湧いてくる。とっさの判断だとはいえ、元々は人間の姿をしていた者に危害を加えてしまったという罪の意識が、亜門の胸中に現れていた。
だがそれも一瞬だけだった。
あらぬ方へ向け折れ曲がっていた『魚人』の手足が、音を立てて動き始めていた。
驚くべきことに『魚人』の身体は再生し始めていた。手足はそれぞれ独立した動きを見せると、やがて元の位置へと収まった。
「何がどうなっている? 一体奴は何なんだ?」
本日何度目か分からないリアクションを取りつつ、亜門はその場所から離れる。
『魚人』は外見以上に、中身も大きく変化していた。亜門が直に体感した腕力、そして車に轢かれても回復力は、すでに相手が人間でない何かに変貌したことを物語っていた。
暴漢の相手ならまだしも、人でなしを相手する手段はない。亜門に取れる行動は、一刻も早くこの場から離れることだった。
そこで、亜門は周囲の異変に気づく。
(周囲が……この駐車場自体が、最初から可笑しかったんだ)
駐車場の壁が発光していた。緑色の光は奇妙な形の幾何学模様を描き、駐車場全体に広がると、やがてそこから、謎の流動体をにじみ出させた。
黒く異様な脈動するそれは湿り気を帯び、液体のように床に広がる。まるで傷口から染み出す『膿』のようだった。
(ノイズの正体は、これか!)
亜門は義眼を通し『膿』を見る。
『膿』はとてつもない濃い青色で構成されたデータだった。ほとんど漆黒と言っても差し支えないその濃度、膨大なデータは信じられないことに、『膿』の質量を形作っていた。
すなわち、あの『黄布』と同じ、インナーユニバースが生み出した映像の類ではない、現実とインナーユニバース、両方に干渉する物質だった。
「これも、実体を持っているのか……!?」
不可解な現象を目の当たりにする。どういった原理なのか亜門には全く以て理解不能だったが、一つだけ分かることがあった。
(この空間、侵食されている。……間違いない。あの『膿』に覆われた場所の数値が消えている。つまり、『膿』は広がっているように見えて、実はこちらの面積を削っている。あの『膿』に触れるのは、マズい)
亜門の仮説を裏付けるように『膿』は広がりを続ける。『膿』が広がると、確かに周囲の壁はほんの少しずつだが狭まっていた。
『膿』に触れてしまったらどうなるのか、研究者としては気になるところだが、今は自分の命のほうが惜しい。
(ひとまず引き返すしかない)
亜門は『膿』を避けるように来た道を走る。幸い、出口にはまだ『膿』が及んではいなかった。亜門は扉に手をかけ、開こうとする。
しかし、開かない。来た時は簡単に開けられた扉が、今は何故か固く閉ざされていた。
(? 来たとき鍵は開いていたはずだが……)
亜門は眉をひそめる。ならばと『鍵』を起動し、内部から開錠を試みる。
《形状『鍵』。アクセスを開始します。0%……0%……0%。失敗。エラーが検出されました。アクセス出来ません》
(どういうことだ? 何故ハッキングできない)
「それに、なんだこのコードは!?」
扉から返ってきたエラーコードを見て、亜門は驚きの声を上げる。
既存の文字列で構成されたプログラムの中に、見たことのない文字が紛れ込んでいた。
象形文字とも記号とも区別がつかない未知の記号。それは時間と共に増え、扉のセキュリティシステムを現在進行形で理解不能なものへと変化させていた。亜門がどれほど手を施そうとも無意味。異なる法則で侵食された扉は、人の介入を拒むかのようにそびえ立ち、ピクリとも動かない。
額に汗が浮かぶ。すぐ後ろに『膿』は迫っていた。
(ここまでか? こんな状況で、俺は死ぬのか……?)
望みの綱であった自身の技量も通じず、最後の望みも断たれた。亜門は扉を背に、なす術もなく立ち尽くす。
この世の終わりのような光景を目の当たりにして浮かんだのは、生きてきた数多の記憶と、一つの言葉だった。
《助かりたい?》
聴こえたのは、そんな声だった。
いつもの無機質なアナウンスではない。ひたすらに幼い、いたずらじみた感情を伴う声だった。
続けて亜門の前に現れたのは、見失ったはずの『黄布』だった。『黄布』は意思を持つように亜門の眼前に躍り出ると、その形を変え、文字を綴った。
《
姿の見えぬ何者かは、一刻も早い亜門の返事を求めていた。
この状況で選択の余地はない。亜門は『黄布』を見つめ、一度深く頷いた。
《快いお返事ありがとう。では、ようこそ――『異界』へ》
待っていたかのように、亜門の背後で勢いよく扉が開く。光の代わりに飛び出したのは、溢れんばかりの『黄布』の奔流だった。『黄布』が身体に絡みつく。亜門は抵抗もままない状態で、扉の中へと引きずり込まれた。
扉の向こうは出口ではなく、どこまでも続く虚空だった。空など無く、地面も同様に存在しない。無限に続くかのような落下だけが亜門の体を包む。その中で唯一見えていた扉も上へと離れていった。
しかし不思議と不快感はなかった。それはあの『膿』と『魚人』から逃げられたという安心感から来る感情だった。。
気の遠くなる落下を得て、亜門の意識は途切れた。
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