幻影の呼び声/Grimoire_1-2

 爆音を上げて疾走する車、というものを亜門は初めて見たかもしれなかった。

 一般の車も走る公道を、暴走車は信号も表札も何もかもを無視して走っていた。車、人を含めたあらゆるものを避けていく様子は、逆に今までよく事故が起きなかったと亜門が感心するほどである。

「目視で捉える距離まで来た。後は止めるだけだが……」

 暴走車の最高時速は、亜門の車両の上を行っていた。異なる道を並行に進みながらも、暴走車ほどの速度は出せないのが現状。これ以上距離を離される前に、この場で対処しなければならなかった。

 相手が人間であれば、車2、3台ほどで道を塞げば進行を止めさせることができるが、機械相手ではそうもいかない。僅かでも通れると判断すればどんな壁だろうと直進し続けることは目に見えていた。

 ましてや今は暴走した状態。内部でどんな思考ルーチンが繰り広げられているか、プログラムに精通した亜門ですら予想はできなかった。

「……直接乗っ取るのが手っ取り早いか」

《形状"飛行機プレーン"》

「行け!」

 亜門は自車の周りを飛ぶいくつかの蝶を、紙飛行機に変えて前方に飛ばす。目標は暴走車。遠距離でのハッキングを試みるつもりだった。

 紙飛行機は暴走車両に取り付き、亜門の命令通り、セキュリティの解除を実行する。

《アクセス開始。0%……50%》

 半端解除が成功した時に、異変は起きた。

 順調に進んでいたはずのハッキングが突然中止する。次の瞬間には車に取り付いていたはずの紙飛行機が全て停止し、ただの紙面に戻っていた。

 一瞬だけだが、触手のようなものが紙飛行機を弾き出したように亜門には見えた。

「何だあの防壁は? 初めて見るぞ」

 亜門の紙面から起動するツール『CLASSIC』は、それぞれが折り方に応じた情報処理を可能にするプログラムである。あらゆるセキュリティの解除方法が記録されており、既存の車種であればあるほど、ハッキングは容易い。ましてや今走っているのは学都でもよく見かける中型車だった。

 にも関わらず、亜門のハッキングは失敗した。

(ただ失敗したわけじゃない。途中まで侵入は成功していた……)

「……鍵で試すか」

 落胆する時間はない。気を取り直し、次のアプローチとして亜門は再び紙飛行機を飛ばした。

 今度の目標は暴走車ではなく、その先の信号機だった。

(あの暴走車両は無軌道に道を進んでいるわけではない。幸いにも車を避けて道を進んでいる。……つまり、その進行ルートを誘導することは可能!)

 暴走車の先にある信号を赤に変え、こちらの道に合流させる。亜門もギリギリまで速度を出し、両車を並ばせる。

《アクセス開始。形状"鍵"》

 窓を開き、亜門は紙面による鍵を暴走車に向ける。

 鍵は亜門の意識を直接内部へと介入させるデバイスだった。紙飛行機よりもハッキング速度は遥かに速く、どんな防壁であれ突破できる。現状、学都においてこの形状でハッキングできない機械はなかった。

 車を追従させながら、亜門は暴走車の内部へ意識を侵入させる。

《0%、50%…………》

 予想通り進行が遅くなった。だが、予想の範疇。この程度であれば問題はないと判断し、亜門は力技で押し通す。

《75%》

 あと少し、あとひと押しすればセキュリティが解除できる。

 その瀬戸際で亜門の手が止まった。

 解除を躊躇ったわけではない。亜門の意思は未だ固く、暴走車を止めることに向けられている。

 亜門が動きを止めた理由、それは一つだった。

「なっ……」

 異物が腕にまとわりつく。車体から湧き出るように伸びた黄色い布は、亜門の鍵を腕ごと絡み取っていた。

 幻覚でも錯覚でも、ましてやインナーユニバースが見せる情報でもない。亜門が受けていたのは物理的な干渉だった。

「何だこれは!?」

 驚愕に亜門は声を上げる。

 眼に映る布は、確かにネットワーク上のもの。注目すべきはその色だった。

 これほど鮮やかな黄色を、亜門は見たことがなかった。切れ端程度の僅かな領域に、情報の線が何重にも折り重なり、本物の布のような質感を持たせていた。

 否、持っていた。現に今、亜門が触れている。

 様々なデータを視覚化してきた亜門でさえ、見たことのない形式のデータだった。情報量が多すぎて解析できないのは初めての経験である。無論、触れたことも含めて。

 空に文字を写し、紙飛行機の軌道を再現するインナーユニバースと言えど、それはあくまでも仮想上でのこと。人の目に映ったとしても、それは映像にすぎず、実体はない。

少なくとも亜門の常識ではそうだった。

(どういう理屈だ? ……いや考えている時間はない。この状況は、マズい!)

 万力のように亜門の腕を固定していた黄衣が動き出す。

 はっきりとした拒絶を伝えるように、亜門と車体を勢いよく離した。

「ぐっ……!」

《対象との距離が離れました。アクセスを中断します》

 距離が離れ、鍵による暴走車への接続が途切れる。意識が持っていかれそうになるのを何とか踏ん張り、亜門は車体を停止させた。

(あと少しだ。……あと少しで止められる)

 黄衣の正体は不明だが、幸いなことにセキュリティシステムに一役買っているわけではなかった。亜門の鍵を物理的に止めたのがその証拠である。

 既存のシステム自体に介入していないのであれば、付け入る隙はあった。現に亜門はハッキングのコツを掴み、あと一秒あれば事足りるという状態だった。

 しかし、それを実行するには、暴走車へともう一度近づく必要があった。

 未だに走り続けている車に今から追い付くのは難しい。さらに別の懸念材料もある。

(警察が近くに来ているか……)

 気がつけば、辺りにはパトカーのサイレンが鳴り響いていた。

 今、下手に暴走車へ近づけば、自身の身柄すら危うい状況だった。

「……やるしかないか」

 しかし、亜門は諦めてはいなかった。覚悟は決め、最後の策を講じる。




 学都に響くサイレンは増えていく一方だった。警察の奮闘も虚しく、暴走車両が捕まる気配は一向にない。むしろ激化する競争によって、町への被害が出始めていた。

 接触事故による二次被害は拡散する。まだ死者こそ出ていないが、それも時間の問題だだった。

(ここで食い止めなければならない。この、学区の外へと繋がる一本橋で……)

 暴走車両を鎮圧し損ねた後、亜門は車をすぐに別の場所へと走らせた。それがこの場所、学都を横切る大河に跨がる全長300メートルの橋だった。

 ここを通ると、すぐに隣の学区まで行くことができる。他の交通手段は電車か徒歩のため、車を使って他の区画へ向かうのであれば、必然的にここを通らざるを得ない。

 暴走車両の目的は未だに不明だが、走行を続けているのであれば必ず学区外に出ようとするだろう。それを見越して、亜門は逃走ルートを先行した。

 作戦は、待ち伏せだった。

「どうやら……間に合ったみたいだな」

 警察の妨害がかなり効いていたようだった。亜門は無事、暴走車両が来る前に橋の上へと先回りすることができた。

 暴走車両は橋の入り口へ迫っていた。車から降り、亜門は目標が通り過ぎるのを待ち構える。

《通過まで10秒前》

 自動判定で秒読みが開始された。相手の速度から逆算した、亜門との接触までの時間が予想される。

 件の車の姿はない。残り数秒前だというのに、学都の外へ向かう車線には暴走車の影も形もなかった。

《5……4》

 そこで亜門は唸るようなエンジン音を聞く。

 なんと暴走車両が走っていたのは、亜門の立つ車線の下、学区の外ではなく内へ向かう車線だった。暴走車は警察を振り切るため、反対車線を遡ってきたのだ。

 互いに交わらないように作られた二重構造が完全に裏目に出ていた。

 今から引き返したのでは間に合わない。

 暴走車両は我が物顔で反対車線を爆走し、あと僅かで亜門の真下を通過する。

《3》

 だが、それすらも亜門は予想していた。

「来た……!」

 エンジン音を確認し、亜門は走り出す。

 車には乗らない。そもそも、車線に向かって走ってはいなかった。

《2》

 亜門が向かうは橋の外、目下に広がる川へ向かって、その身を投げ出した。

《1》

 落下する亜門と暴走車が一瞬だけ交差する。

 亜門はその一瞬を見逃さなかった。たとえその身が落下していようとも、全身全霊は暴走車両を止めるために。用意した鍵を暴走車に向けて起動する。

《0》

《『CLASSIC』によるアクセス開始。形状"鍵"》

《0%……100%。アクセス完了》

《自動運転を手動運転に切り替え。緊急停止します》

 決着は一瞬で着いた。黄衣が反応する間もなく、亜門は暴走車の制御を奪う。

 橋の上ではブレーキ音が響き渡っていた。亜門の視界にはもう映らないが、止まった車の後処理は警察が何とかするだろう。

 やりきった表情を浮かべ、亜門は川へ着水する。




 しばらく経つと、亜門は川の岸に漂着した。

 ずぶ濡れのまま、亜門は立ち上がる。

 服を乾かさなければならないが、それよりも重要な事があった。

「さて、こいつをどうするか」

 亜門の手には紙面でできた包みがあった。これは暴走車を食い止めた鍵が変化したもので、そこには亜門がハッキングする際に暴走車から抜き取った内部のデータと、件の黄衣が入っていた。

 黄衣は内部データに付着した切れ端とも言うべき少量のものだった。もう亜門を止めたときのように動き出すことはない。ただ、その摩訶不思議な性質は健在だった。

 どう解析するか、亜門が様々な方法を張り巡らす。すると、町の中から時刻の節目を告げる鐘が鳴った。

 何かに気付いたように、亜門は現在時刻を確認する。現在正午ちょうど。カーチェイスを始めてから優に30分は経過していた。

「……完全に遅刻だな」

 濡れた身体を引きずって、亜門は町の中へと戻っていく。

 休日はこれからだというのに、酷く憂鬱なスタートとなった。

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