溺死

夜依伯英

 彼女の幸せこそが、何よりの望みだ。そう本気で思えるほどに愛した人に嫌われるということが、どれほどの辛さなのか、幸せの中で生きてきた人間には理解できないだろう。僕はそれを身に刻まれるように知った。どこで間違えてしまったのだろう。或いは、最初から間違えていたのかもしれない。ただ、彼女に拒まれたという事実を、なんの防衛機制も働かないまま僕の心は受け止めてしまった。煙草をやめるのが本当に難しいように、強く依存していたものから離れるのは至難の業で、それこそ禁断症状が出るほどに辛いものだ。僕は彼女に依存していた。彼女がいないと生きていけない、彼女が僕の人生だ、というように。そうして自分の支えとなる存在を失ったことで、僕の心にはひたすらに死にたいという思いと、あの幸せを忘れてしまいたいという思いが募った。


 実際、僕が彼女を傷つけてしまうより前は、確かに幸せだった。毎日のように声を聞き、彼女と話すことだけを支えに地獄を生きた。だからこそ、今はその過去が恨めしい。そんな日々が無ければ、僕は彼女の不在を不幸だとは認識できなかっただろう。幸せを知るということは、不幸を知るということと同義だ。もし僕が幸せを知らなかったら、きっと全てを諦めて生きていけただろう。それでも僕は知ってしまった。だから僕は今こうしてベッドの上で壁に背を預け膝を抱えて泣いているのだ。涙の数だけ強くなれるだなんて綺麗事、それを嫌いになったのはいつからだろうか。涙はいつだって心を侵食するのみだ。決して補強はしない。声を出さず、ただ自分の悲しみの為だけに涙を流す。何を訴えるでもなく、何をするでもなく。ただ、悲しみに暮れている。


 あの日から変わらず悲しみは続いているのに、今日に限って僕の心がこんなにも苦しくなるのは、きっとこの寒さのせいだろう。青春の季節だと皆が勝手に思っている夏が終わり、日がだんだんと短くなってきた。気温も下がり始め、もう冷房は不必要のものとなった。その冷たい空気が、僕の寂しさを掻き立てるのだろう。彼女にいて欲しいと、そう思わせるのだろう。もういっそ、誰かに壊してもらいたい。でも既に、壊れてしまっているのかもしれない。


 僕が最も死に近づいた日の事を思い出す。あの日、僕は電車に乗れなかった。強迫性障害。その病気を抱えた僕には、その電車は人が余りに多かった。普通に生きていけないんだということを、強く感じさせられた。強烈な死への扇動が、心の中で起こった。学校には行けなかった。二時間ほどをその駅で過ごした。スマホを見るわけでもなく、ただ駅構内を歩き回った。そして、何回目かにホームに降りたとき、飛び込み自殺がイメージとして湧き出てきた。それを、僕は実行したかった。その瞬間、自分の命に対して価値を全く感じていなかった。もはやそれは、「死にたい」などという積極的な感情ですらなかった。ただ、僕の中の「生きたくない」が渦を巻いた。ホームの黄色いラインに踏み出す。そして、ローファーに包まれた僕の足のつま先が線路側にはみ出すくらいまで前に出た。電車の到着を告げるアナウンスが鳴り出す。それが、どうしても僕にリアルな死の恐怖を与えた。電車に轢かれるということを、僕の人より優秀な頭脳は鮮明にイメージできてしまった。僕は電車がすぐ手前に来た瞬間、逃げるようにホームから立ち去った。


 あの日、僕が臆せず飛び込んでいたならば、あんな幸せを知って不幸を味わうことにもならなかっただろう。彼女と仲良くなることも、彼女に恋することもなかっただろう。僕は、なんであのとき死ななかったのだろう。死ねなかったことへの強い、強い後悔が僕を蝕んだ。息が苦しかった。


 僕は立ち直って生き返ったような姿勢を取って見せた。今までの絶望が全て現在に繋がっているのだと、そう言って人生を最高の肯定形式で認めたのだ。しかし、そんなものは所詮ポージングに過ぎなかった。実際のところ、僕は自身の人生を僅かにだって肯定する気などなかった。彼女が傷ついたことを一ミリだって美化したくなかった。僕の正義は静かに拒んだ。僕の理想は悲痛な声を上げた。彼女が傷ついたのだから、それは悪で然るべきだと、そう確信していた。如何なる形だろうと、彼女の苦しみが正当化されてはいけないのだと感じた。だから僕は自分を責め続けた。それが彼女の苦しみを苦しみたらしめるのだと、そんな妄想に取り憑かれた。僕が悪でなければいけないのだと。それで彼女が救われるのだという、哀れで痛ましい妄想だ。しかし、それが妄想だろうとそうしなければ僕はどうにかなってしまいそうだった。毛布を手に取り、自分を慰めるように掛けた。こうして不幸に浸っている間は、堕ちる恐怖から解き放たれるのだ。寒さに身を震わせていれば、寒くなることの苦痛、暖かい幸せなど忘れてしまうのだ。そう信仰していた。だからこそ僕はずっと、孤独の中で無言のまま叫んでいた。


 僕の幸せを忘れる為に。過去の幸せから目を逸らす為に。

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