4 喋るヤギ
「ロボトミー手術実験?」
「そう。昔は前頭葉の一部を切除して精神疾患を治そうとした手術があったんだ。それがロボトミー手術」
草木を掻き分け、道無き道を進みながらヒカルは茜に説明する。
「さっき話したロボトミー手術実験ってのは、旧日本軍がやろうとしていた実験で、敵兵の脳みそを切り取って代わりに従順な動物の脳みそを接合して服従させようとしてたみたい」
聞いているだけで茜は嫌そうに顔を顰めて行く手を塞ぐ枝木を避けた。
「そんな荒唐無稽な話があってたまるか」
「それがあったんだよねえ。戦争時代はそりゃあ狂ってましたから。神父サマだって『海と毒薬』くらいは読んだことあるっしょ?」
『海と毒薬』は戦時中実際にあった生体解剖事件を題材とした小説だ。あまり気持ちの良い内容ではなかったことを思い出し、茜は更に苦々しいような気持ちになる。
「その実験が、清原さんたちのいた廃墟で行われていたっていうのか?でも、それと今回の事件に何が関係あるんだ?」
「いや、こっからが神父サマの専門分野じゃん」
先を行くヒカルが足元を邪魔する石を蹴飛ばしながら芝居がかったように声音を変える。
「かつて非人道的な実験が行われていた廃墟!少女たちを呼び込んだのは、無念にも実験中に亡くなった被験体の怨霊なのであったぁ〜!エクソシストの星宮神父は果たしてこの怒れる怨霊を打ち滅ぼせるのか!?ってね!」
鼓舞するように拳を振り上げながらヒカルは振り返るが、茜は相変わらず白けた顔をしてカソックにひっつく葉を払っていた。
「だから、エクソシストじゃないって……」
「そう思ってるのは神父サマだけだよ」
どこか楽しげな雰囲気でヒカルは軽やかに進んでいく。元気なものだ。いくら山中で都内よりもマシとはいえ、蒸すような暑さが体を蝕んでくる中でどうしてあんなにはしゃげるのか。
三十路を前にして衰え始めた体力を感じながら、茜はぜえぜえと肩で息をした。たった二十分歩いただけでこれとは情けない。油断するとヒカルがどんどん先に行ってしまうが、マゼンダ色の髪のおかげでどうにか木々の生い茂る獣道でも見失わずに済んでいる。
この距離ならば平気だろうと茜は少し立ち止まって休憩を入れることにした。腰に手を当て、息をつく。上を見上げれば杉の木が天を衝くように左右から伸びている。杉の隙間に流れる雲を眺めながら茜は車に置いてきた菜穂美の言葉を思い出す。
菜穂美は学校にいたはずが、目が覚めたら廃墟の中にいたそうだ。初めは四人の同級生といたものの、突然黒いヤギに襲われて散り散りになったらしい。途中までは一人の同級生と一緒に行動を共にしていたが、再びヤギに襲われて別れてしまった。それからしばらく廃墟の中を彷徨って、上へ行く階段を見つけて外へ出られたというわけらしい。
ヤギ。今朝のニュースになった裸で見つかった女性も、ヤギについて話していた。菜穂美は更にヤギについてこんなことも話していた。
「ヤギが、喋りながら追いかけてきたんだ。お前たちの罪を贖えって、そう言いながら追いかけてくる」
喋るヤギ。普通であればありえないと一蹴して終わるところだが、茜はそうも思わなかった。多くの人が訪れる教会にはそういったものに苛まれて相談に来る者もいる。(茜の場合は悪魔祓い師と思われているためにより多くそういった相談が舞い込んでいるのだが本人は認めていない)飼い犬と話せてしまうという者。いもしない者の声が聞こえるという者。幻聴の内容は千差万別だが、他者からは「ありえない」ことでも当人にとっては「ありえている」というのが共通している。茜はそういった相談者の話を聞き、不安を取り除いてやることを生業としていた。茜が話を聞くことである者は幻聴を聞かなくなり、ある者は幻聴を気のせいとした。それでも幻聴を聞き続ける者に茜は悪魔払いを行った。
(……まだ悪魔の仕業と決まったわけではないだろう)
茜は自分に言い聞かせながらも、教会から持ってきた『武器』を握りなおした。
「神父サマー!ちょっとこっち来てみ!」
坂道の上からヒカルに呼びかけられて、茜は少し速足で駆け付ける。
「どうしたんだ?」
「ちょっとこれ見てみ」
ヒカルは足元の落ち葉を靴で避けながら指し示す。土の上をよく見ると、タイヤのような紋様がきれいに残っていた。
「タイヤ痕……車が通ったのか?」
「これね、下からこの先までずっと続いてるみたいなんだよね。これ見るにまだ新しいっぽいからつい最近ここを車が走ったってことだと思うんだ」
ヒカルは泥のついた運動靴のつま先で山道のふもとから頂上を示して言う。確かにタイヤの走った痕はふもとと頂上の両方向に走っている。
「本当だ。なんで気づかなかったんだ……?」
「隠されていたからっしょ」
茜はヒカルの顔を見る。先ほどまでふざけていた様子は消え、眉間に皺を寄せながらヒカルは茜の顔を見返した。
「犯人は女の子たちを誘拐して車でここを通ったんだ。ここ、多分昔は普通に道路かなにかとして使われていたんだよ。んで、最近この道を車が通った。タイヤの大きさからしてワゴンとか小さいトラックとか、そんなやつが。そんで通った後に誰かがタイヤ痕を落ち葉で隠したんだ」
「ま、待ってくれ。なんでそんなことまで分かるんだ?ここが道路だったって?」
あたりを見回しても、あたりにあるのはまっすぐに伸びる杉の木と散らばった丸い落ち葉。そして何かも分からない植物が生えているだけだ。
「神父サン……周りちゃんと見て歩いてた?」
呆れたと言わんばかりに腕を振ってヒカルはあたりを見回した。
「よく見てみなよ。杉の木はずっとまっすぐに並んでるだろ?それに、杉の葉っぱは針葉樹だから、こんな丸っこい落ち葉があたりにあるはずないんだよ」
あっと茜は口を開けた。言われてみれば確かにそうだ。よく見ると生えている植物も、タイヤの通ったあたりはへし折れたりつぶれたりしているのを上から落ち葉を掛けられている。気が付いてしまえばあたりの景色すべてが不自然だった。
「神父サンぬっけてるぅ」
「……お前の観察眼が鋭すぎるんだ」
嘲るように目を細めるヒカルに茜は言い返しそうになるのをぐっとこらえて足を先へ進めた。ヒカルはははっと笑いをこぼしながらその後を追った。
「まあでも冗談は置いといてだよ。女の子たちを連れ去った犯人ってのは、それだけ用意周到に隠しているんだよ。やっぱり警察を呼んでからの方がよかったんじゃない?」
「電波がちゃんと届く場所まで行くにはこっからまた一時間だ。それよりも清原さんが上なら電波が通じるって言っていたからそこを探した方が早いだろう」
ヒカルは手にした最新のスマートフォンを取出して画面を見る。右上にはネットワーク開発の進んだ東京ではもはやお目にかかることもないと思っていた『圏外』の文字が映し出されていた。
「ほんとに通じるといいけど……」
登り始めて三十分ほど経った頃に、ようやく目当ての場所は見つかった。杉並木の果てに更に開けた空間に平屋建ての古い建物が建っている。むき出しのコンクリートにはびっしりと苔が生えており、緑色をした箱のようだ。実験施設と呼ぶには少々小ぶりな気もする。田舎の小学校のほうがまだ大きいかもしれない。
「ここが、実験施設だって?」
「……そうみたいだね」
ヒカルが親指で指し示した方向を見ればそこにはかすれた文字の看板が置かれており、辛うじて『第八×××験場』という文字が読み取れた。
「それにしては小さくないか?」
下の階の窓を数えても、正面玄関を含めて五つよりは多くない。菜穂美はここで迷ったと言っていたが、迷うほどの広さだろうか。
「うーん。とりあえずどうしようか。近くに車は無さそうだけど入ってみる?」
ヒカルは建物に近づき、入れそうな場所を探し始めた。茜もそれに習って探索をする。ダメ元で正面玄関のドアの丸ノブに手をかけてみると、ザリザリとした感覚はあるものの回った。おや?と思い今度は引いてみるが、ドアは開かなかった
「鍵がかかっている………?」
ドアを数回押し引きしても結果は変わらない。
「神父サマどう?開かない?」
戻ってきたヒカルに茜は首を振る。
「マジか。こっちもダメだったよ。どこも空いてない」
お手上げというように手を広げるヒカルに対し、茜はうん?と首を傾げた。
「それはおかしいだろう。だってじゃあ清原さんはどうやって外へ出たんだ?」
「へ?」
「ヒカル、あの子は開いていたドアから出たと言っているんだ。あの子があそこについて我々がここへ来るまでにそう時間は経っていないはずなのにどうしてどこも開いていないんだ?」
「それ……は……」
はたと気がついたようにヒカルが深刻な顔になる。なにを言いたいか茜はわかっていた。
だれかが、清原さんが外に出た後で鍵をかけ直したのだ。この数十分の間に。
「電波は?」
「圏外」
「そうか……。ヒカル、お前だけ清原さんを連れて警察へ……」
「神父サマを置いていけって?無理無理。貧弱な神父サマの方が戻った方がいいんじゃない?」
「お前だって腕っ節が経つわけじゃないだろう」
お互いに数秒の睨み合いが起こった。だがどちらも譲る気配が無いと分かると茜はため息をついて近くに落ちていた大ぶりな石を拾い上げた。
「どこか入れそうなとこは?」
「あっちに割れそうな窓があったよ」
会話を和解の合図として茜とヒカルは入れそうな場所へと移動する。ヒカルの見つけた場所は建物の一番はじの窓で風化によってひび割れていた。
「ちょっと離れて」
ヒカルに距離を取らせると、茜は窓ガラスに向かって石を投げた。耳を劈く様な破裂音と共に脆い硝子が砕け散り、窓ガラスに穴が開く。硝子の破片に触れないように穴から手を差し入れると、茜は窓の鍵を器用に開けてスライドさせた。
「ひゅー!やるじゃん神父サマ」
「茶化すな。非常事態なんだから仕方ないだろう」
茜が先行して入り、続けてヒカルも廃屋の中に入る。途端に何かが腐食しているつんとした匂いが鼻をつき、二人は思わず口元を手で覆った。じゃり、と足元で鳴るガラス片の下のコンクリートには外壁と同じように苔が覆い、かつての姿は見られない。まだ外は明るいにも関わらず廃屋の中は暗く、数メートル先を見渡すにも明かりが必要そうだ。
「このどこかに誰かがいるかもしれないのか」
「とりあえず、見て回ろうか」
スマートフォンのライトを付けながらヒカルが先陣を切る。ほとんどの部屋はとうの昔にドアが外れており、部屋の中はがらんどうだった。
「何も残っていないな」
「まあー七十年も前だしね。GHQとかの介入もあったし、ほとんど燃やすか回収されたかでしょ」
「じーえいちきゅう……?」
首を傾げる茜に対し、ヒカルは呆れたというように口をあんぐりとさせた。
「神父サマ、歴史とか勉強した方がいいよ」
「な、馬鹿にするなよ。こう見えて歴史のテストで百点とったことがあるんだからな」
「へえ。何時代のテスト?」
「うーん……中世ヨーロッパは得意だったな」
ふうんとヒカルは曖昧に返す。十字軍遠征や宗教戦争の時代であることは容易に悟れる。
茜は決して頭が悪いわけではないが、その知識はいささか宗教のことへと偏りがちであった。おそらく聖人全員の名前を諳んじることはできても、今人気のアイドルグループのセンターの名前さえ分からないだろう。神父という厭世的な仕事柄、仕方ないことではあるが。
「あれ、行き止まりだ」
目の前の壁を見てヒカルが呟く。建物の端から歩いてきたはずであったがここまで何にもなかった。本当に、ただの廃墟である。
「おかしいな……。菜穂美ちゃんの話だとここに友達がいるはずなんだけど……」
ヒカルは頭をがりがりとかく。その横で茜はきょろきょろと辺りを探し始めた。
「ふむ。そうしたらやっぱり地下だな」
「地下?地下なんてないだろ?」
「何を言ってるんだ?」
首を傾げながら茜が言う。
「清原さんは地下から出てきたって言っていたじゃないか」
「は?何言ってんの神父サマ。菜穂美ちゃんはそんなこと一度も言ってないよ?」
「ああ、そうか。確かに地下とは言っていないな」
茜はヒカルの疑問に合点がいったように頷いて、白く細長い指で地面を指差した。
「清原さんは『階段の上まで来てそこの鍵が開いてて逃げてきた』んだ。出入り口が一階だけなら、地下から来たと考えるのが妥当だろう?」
それでようやくヒカルも「ああ」と理解する。つまり、まだこの建物には下があるということだ。
「え、神父サマそれ話聞いた時からわかったの?」
「いや、建物を見てからだよ。……ついてきてくれヒカル。さっき地下に繋がりそうな場所があったんだ」
踵を返す茜の背を見ながら、ヒカルは少しだけにやりと笑う。茜は人の話を聞いて、想像ができる男だった。当たり前のことのようだが、ヒカルの周りには案外それができる人間が少ない。もしかしたら茜くらいなものかもしれない。そしてヒカルは茜のそんなところを好きだった。
「ここだ」
中央の出入り口にほど近い場所で茜が立ち止まる。言われてみれば確かに、コンクリート床に地下へ続きそうな扉があった。かなり特殊な作りなのか、鍵まで付いている。
「これ。こっちから開けられそうだね」
捻って鍵をかけるためのサムターンが付いているのを見ながらヒカルが呟く。
「………普通、逆じゃない?こっちが外側なんだから、こっちに鍵穴があるべきでしょ」
「……なら、こっちが内側で、この中から出てきて欲しくないものがあったとか……」
茜の想像にヒカルは嫌なものを見るような顔で振り返る。自分で言っておきながら少し怖気が湧いた茜は誤魔化すように取り繕った。
「七十年前の話だろ?それに、今は女の子たちが閉じ込められているだけだ!」
「それだけならまだいいんだけど……」
ヒカルが意を消したように息を吐いてサムターンを回して解錠する。カチリ、と軽い音がして奈落への扉が簡単に開いてしまった。
#
あてもなく道をぐるぐると歩き回る。ここの廊下はまるで円を描いているようだ。疲れ果てて、泣き声さえ枯れてしまった。樹里はもう感覚のなくなった足を引きずりながらどこかに出入り口はないかと乾いたコンタクトレンズ越しに探し回る。手にしたスマートフォンは数時間前に充電が切れたままだ。こんなことなら早く最新機種を親に強請れば良かったと後悔するが、全てが遅すぎた。
なんで自分がこんな目に。
何度も問うた自問をもう一度繰り返す。聖人君子には程遠いかもしれないが、それでも悪いことだってしていないはずだ。ただ楽しく毎日を過ごしていただけなのに、まるで罰のように閉じ込められていつ帰れるかもわからないなんて。
(ここに私たちを閉じ込めた変態を見つけたら、ぶっ殺してやる……)
物騒な強がりを胸中で吐きながら、樹里は新たな部屋にたどり着いたことに気がつく。右側にだけ進んだことが功を奏したのだろうか。もしかしたら出口かもしれないと期待を膨らませながら部屋の中を覗き込む。
そこに広がる光景に、樹里は目を見開いた。小さな窓から漏れ入る光に照らされた部屋は真っ赤だった。
むき出しのコンクリートに知らない国の言葉が赤い文字で書かれている。床の中央部分には巨大な円形が規則的に描かれており、その周囲にもいくつかの文字が書かれている。
それはまるで漫画やホラー映画で見た魔法陣のようなそれは、この場にはいっそ相応しいほどの禍々しさを放っていた。何よりも目を釘付けにしたのは魔法陣の真ん中に脱ぎ捨てられた学校の制服だ。ただそこにあるだけなのに、くしゃくしゃになったシャツやひっくり返った靴下、スカートで隠すように落ちている下着がここでなにがあったのかを雄弁に語っている。
「なにこれ……ほんと、ふざけんなよ……」
想像するだけで吐き気を催しそうになって、樹里はへなへなと座り込む。
この惨状を見て何も分からないような顔ができるほど子供ではなかった。誰の制服かはわからない。それでも仲間の誰かが屈辱的な目にあったのは確かだ。
出口のない場所に閉じ込められ、喋るヤギに罰を問われ、おまけに魔法陣まで出てきた。これではまるきりB級のホラー映画のようじゃないか。さしずめ私たちは狂人に弄ばれる哀れな生贄といったところか?
「ふざけるな……。てめえのお遊びに私らを巻き込むんじゃねえよ……!」
握りしめた拳が震える。恐怖だったはずのそれが、だんだんと怒りに塗り変わっていく。今まで怖がっていたことにさえ、腹が立ってくる。誰だか知らないが、遊ばれてなどやるものか。おもちゃになどなってやるものか。
樹里の中に闘志が燃え上がる。
ヤギを見つけよう。きっとあのヤギがすべての原因だ。あのヤギを殺せばきっと外に出られる。
樹里は立ち上がってじっと耳を澄ませた。どこからか、足音が聞こえる。カツカツという蹄の音だ。
手にしたスマートフォンを握りなおし、樹里は音のする方向へと向かった。
#
ままならない視界で私は泣きながら歩いていた。私の体は、もう全くと言っていいほど言うことを聞いていなかった。私はどこへいくのだろう。私はなにに操られていたのだろう。ロボトミー手術がなにだったか思い出せないが、確か言うことを聞かせるための手術だったはずだ。私はきっとその手術を受けさせられて、何者かの命令で動かされている。
嫌だと思っても足は進み、視界が操られる。さっきから同じ場所を歩かされて、もうくたくただ。自分の意思で流している涙の止め方さえ、忘れてしまいそうだ。
「みんなどこ……」
か細い声は闇に溶けて誰にも届かない。そもそも自分が話せているのかさえ、私には分からなかった。
歩いているうちに、鏡のある部屋の前まで来た。大鏡のあるこの部屋はいったい何のための部屋だったんだろう。
ふと、視界の端になにかが映る。わずかな光に照らされたのは、波打つ髪だった。わざとらしい曲線を描く長い髪だけで、部屋の中にいるのが誰かわかった。
「樹里!」
必死に力を込めて名前を呼ぶ。やっと会えた。晶子ちゃんのことがあるとはいえ、この状況下では彼女のことも心配だった。呼び声に気づいた樹里がこちらへ向く。
ああ、無事でよかった。早く樹里に私のことと、晶子ちゃんのことを伝えなきゃ。樹里は晶子ちゃんのことを嫌っているけど、今日くらいは仲良くしてくれるよね?
そんな希望を胸に、私は必死に体の言うことを効かそうとする。すると奇跡的に私の体がまっすぐに樹里と向かい合ってくれた。
「樹里!」
もう一度名を呼ぶ。再会を喜んで駆け寄ってハグをしたい。私にはできないけど、もしかしたら樹里がしてくれるかもしれないと私は微笑んだ。
しかし―――
「死ね!」
呪いの言葉を吐きながら走り寄ってきた樹里に、私は頰を殴られた。
突然のことに驚きすぎて、私は痛みさえ感じられない。
どうして?なんで?こんなことをする子ではないはずだ。人を馬鹿にすることはあっても、暴力は振るわないのが樹里だった。
「しね!しねしねしねしね!この、くそやろう!」
何度も何度も、握りしめたスマートフォンで殴られる。痛い。やめて。痛い。痛い。いやだ。血が出てる。やだ、やめてよう。やめて。それとも、もしかしてこれが樹里の本性なの?まるで悪魔にとりつかれたみたいだ。
「全部、全部お前のせいだ!お前のせいで全部めちゃくちゃだ!お前がいなきゃ、こんな目に合わずに済んだのに!何が罰だ!全部お前がやったことだろう!」
ぼろぼろと涙を流しながら樹里が枯れた声で叫ぶ。殴られるたび、視界がぐらぐらと揺れた。樹里の握りしめたスマートフォンのひび割れた箇所に血が染み込んでいるのを見ながら、殴られながらも私はすっと頭が冷えていくのを感じる。
樹里が何を言っているのか、私には分からなかった。けれど、彼女がおかしくなったことと、なにかを誤解していること、そして、私を裏切ったことだけはわかった。
「あんたのせいで!みんなが苦しむんだ!」
ぷつりと、私の中で何かが切れる。それはずっとそう思いたかったけどできなかった最後の重石で、たった今その重石を繋ぐ糸を切られて軽くなった気持ちだ。
樹里は、友達なんかじゃない。
友達だったらこんなことをしない。殴らない。罵倒しない。自分以外の誰かを、傷つけたりしない。
ああそうだ。ずっと前からこいつは、敵だった。
「私のせいじゃなくてあんたのせいでしょ!!」
自分でも驚くほどの大声が出た。対抗されると思ってなかったのか、樹里の手が止まる。驚きで見開かれた目が揺れていた。
「あんたが………あんたが晶子ちゃんをいじめたせいだ!あんたが悪い子だったから、それで、私たちまで巻き込まれてこんな目にあうんだ!日頃の行いが悪すぎんだよ!だから目をつけられてこんなことされるんだ!お前なんか、変態に犯されて死ね!!」
自分でも驚くほどの大声が喉の奥を震わせた。体が突然自由になって、私は樹里に頭突きした。がつりと、厭な音が頭の上で響く。樹里の体が後方へと吹き飛び、壁へと打ち付けられる。
しまった。そんな強く突き飛ばすつもりはなかったのに。
「ごめん、樹里……!」
慌てて駆け寄るが、反応がない。樹里はぐったりとしてまるで人形のように横たわっている。気絶したのか?
「樹里……ふざけるのはやめてよ……悪かったからさ……」
かける言葉が震える。生きているよね?死んでいないよね?
触れて確かめようとして、私は自分の手がやけに黒いことに気がついた。黒いだけではない。あるはずの指はなく、代わりに二つに裂けた黒い骨のようなものを黒々とした毛が覆っている。
後ろを振り返って大鏡を確かめる。そこには死体のように横たわる樹里と一頭の黒いヤギだけが写っていた。
私が、ヤギになっていた。
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