#65 Lotus
「ここ……どこ?」
気付けば唯は、濃い霧の漂う知らない場所に立っていた。
最後に覚えている記憶は、バアルを殺し、貧血で倒れるまでしか残っていない。それ以降の記憶は無く、最後の記憶からどのくらいの時間が経ったのかも分からない。
紫色の霧は唯の視界を遮るが、唯は立ち尽くすことを止めひとまず歩き始めた。
真っ直ぐ歩いているはずだが、前が殆ど見えないため自分がどう進んでいるのかが分からない。
暫く歩いた時、唯の足下に紫の花が咲いていることに気付いた。その花の名は
「……ああ、私……死んだのかな」
そして唯は、今自分がいる場所が死者の国なのではないかと予想した。
途切れた記憶。消えた傷。聞こえないアスタの声。それらの要素は、唯に死を自覚させた。
「なんだか寂しいところね……三途の川も無さそうだし、つまらないとこ……」
唯はその場にしゃがみこみ、片栗の花に触れる。しかし触れた花は幻影のように消え去り、花すらも愛でれなくなったのかと少し悲しくなった。
「お姉ちゃん」
「っ!!」
どこからか聞こえる声。その声には聞き覚えがある。寧ろ、忘れるはずのない声。
「蓮……」
最愛の弟、蓮の声だった。
「久しぶり、お姉ちゃん」
霧の向こう側に居る。霧を抜ければ蓮が居る。会いたい。今すぐ会いたい。会って抱きしめたい。助けられなかったことを謝りたい。言葉を交わしたい。
しかし、身体は唯の思考を拒み、意識だけが先走るがその場から1歩も動けなかった。
「お姉ちゃん、あまり無理しちゃダメだよ」
「……無理、しちゃうよ……だって私、蓮のお姉ちゃんだもん。蓮が喜んでくれるなら、お姉ちゃんはどんな辛いことも我慢できる」
「……ありがとう、僕、嬉しいよ。けど、お姉ちゃんが傷付くとこ、見るの辛かった。だから、もう無理しないで。あの人が死んだだけで、僕はもう満足だから」
唯の思いが通じたのか、霧は徐々に晴れていく。不鮮明だった蓮の姿が、徐々に鮮明になっていく。
「お姉ちゃんは、お姉ちゃんのために生きて」
霧は完全に晴れ、霧の向こう側に居る蓮の姿が視認できた。あの頃と何一つ変わらない、最後に見た元気な蓮と同じ姿だった。
蓮の足下には、大量の彼岸花が咲いている。そして蓮の立つ大地と唯の立つ大地を分断するように、地面に亀裂が入っている。
その時唯は察した。彼岸花が咲き、蓮が立っている場所は死の国。対して片栗が咲き、唯が立っている場所は生の国。その2つを分かつ亀裂は、言わば黄泉比良坂のような役割であろうと。
「……もし、お姉ちゃんがそっちに行けば、蓮とまた一緒に暮らせるの?」
「暮らせるよ。けど、お姉ちゃんが来るには早すぎる。だって、まだお姉ちゃんは幸せを掴んでない。吹雪お姉ちゃんを幸せにできてない」
「っ! で、でも……」
「僕はお姉ちゃんが幸せならそれでいい。けど、もし今お姉ちゃんがこっちに来るなら、僕は怒る。こっちに来たら、もうお姉ちゃんは吹雪お姉ちゃんと幸せになれない」
唯の脳内に、唯の帰りを待つ吹雪の顔が過る。
「……お姉ちゃん、片栗の花言葉、覚えてる?」
「……寂しさに、耐える」
「なら、彼岸花の花言葉は?」
「……また会う日を楽しみにしてる」
「なら……僕の名前、
「……離れゆく愛」
蓮の質問に答える度に唯の視界は滲んでいく。
「そう……なら、もう分かるでしょ。お姉ちゃんは、心の中で僕の死を乗り越えようとしてる。だからこそ、お姉ちゃんの足下には片栗の花が咲いた。僕は、幸せを掴んでからこっちに来るお姉ちゃんと会うのを楽しみにしてる。だから、僕の足下には彼岸花が咲いた」
「……やっぱり寂しいよ……こうしてやっと会えたのに、次に会うのは私が死んだ時だなんて……また、蓮と会えなくなっちゃう」
「僕は死んだ。会えないのは当然だよ。けど安心して。僕はこうして、ずっとお姉ちゃんを見守ってる。楽しい時も、辛い時も、ずっと見守ってる。だから……お姉ちゃんは生きて」
蓮が見せた笑顔に一切の嘘偽りは無く、唯が幸せであることだけを望んでいる。
弟にここまで言われて尚引き下がらないのは、姉として恥ずべき行為だ。唯はそう考え、蓮のところに行きたいという本心を押し殺しながら振り返った。
「……ねえ、蓮……お姉ちゃんのこと、嫌いになった? あの日、蓮のこと守れなくて……今は今で未練がましく現実から逃げようとしてる。こんなお姉ちゃん……やっぱり嫌い?」
蓮は一瞬間を置いて、唯の本音に対し本音で答えた。
「嫌いになるわけないよ。だってお姉ちゃんは、僕の自慢のお姉ちゃんだから」
再び霧が濃くなり、涙で滲む唯の視界は霧の色に染められた。
◇◇◇
「…………」
目を覚ました時、唯は涙を流していた。
あれは本当に生死の境に立っていたのか、それとも単なる夢だったのかは分からない。
「ん……ん?」
見覚えのある天井と内装。寝起きとは言えど、いま自分が居るのは吹雪の部屋だと気付けた。
そして真横から、吹雪の寝息が聞こえてくる。恐らくは倒れてしまった唯を自室に運び、真横で唯の様子を伺っているうちに眠ってしまったのだろう。
「吹雪……吹雪」
ベッドの上で起き上がり、唯は吹雪の身体を揺する。暫く揺すると吹雪は目を覚まし、起き上がっている唯を見た瞬間に涙が溢れ出した。そして涙を拭うことなく、吹雪は唯を抱きしめた。
「もう起きんかと思った……死んだらどうしようって思った……」
「うん、ごめん……」
「心配させんといて……唯は私の恋人なんやから、私を置いて勝手に1人で行かんといて!」
「うん……ありがと、心配してくれて」
唯は吹雪の頭と背中を摩り、吹雪は死ぬ程心配したことを涙で表した。部屋のドア越しに、唯が目覚めたことを知った光だが、2人の邪魔をしてはいけないと気を遣い静かに家から出ていった。
(蓮……お姉ちゃん、きっと幸せになってみせる。蓮の分も、吹雪と一緒に……)
倒れてから時間は流れ、現在時刻は午前8時過ぎ。窓から差し込む陽の光が唯と吹雪を照らし、2人の目から零れた涙は輝いた。
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