僕たちはパラレルワールドの中にいる

十八谷 瑠南

第1話

「実はさ、俺ずっと秘密にしていたことがあるんだ」


はあ?って、まず俺は思った。

なぜなら、そう言ったサカキのことを俺はずっと昔から知っているからだ。


「秘密?」

「そう」


俺は真っ暗な空を見上げた。

相変わらずこのベンチからは星ひとつ見えない。


「お前の秘密に俺が驚くようなことがまだあるのか?」


俺はほとんどサカキの秘密に興味をなくしていた。

どうせ大した話なんかじゃない。


「あるに決まってる。お前は俺じゃないんだから」


俺は飲んでいた缶コーヒーを吹き出しそうになった。

まさかこいつからそんなドラマみたいなセリフが出てくるとは思いもしなかったからだ。


「なんか、今日のお前・・・気持ち悪い」

「そうか?」


俺の左隣に座るサカキは笑ってコーヒーを一口くちに運んでからあっさりとこう言った。


「俺さあ、実は漫画書いてるんだ」


俺はついにコーヒーを吹き出した。


「漫画!?お前が?」

「うん」

「うんって」


あれ?そういえば。

俺はそこで思い出した。


「でも、お前高校生の時、漫画とか読んでたオタクの奴ら馬鹿にしてたじゃねえか」


高校生の頃、俺たちは今で言うスクールカーストのトップに君臨し自分たちに逆らう者は先輩であろうが誰ひとりとしていなかった。

そして教室でこそこそとアニメの雑誌や漫画を見ながらニヤついている男どもが鬱陶しくて理由もないのによく雑誌や漫画を取り上げては馬鹿にしていた。


「それはお前たちに合わせてたんだよ。実際俺、あいつらと仲良かったし」

「はあ?」


俺はサカキの実は漫画を書いているという告白よりもむしろそっちの方が驚いた。


「だって俺アニメも漫画も昔から大好きだったし。あいつらと結構気が合ったんだ。だから内心、俺らひどいことするなあって思ってたんだぜ?でも、お前らはそんなことちっぽけも思ってなかったみたいだから。こっそり取り上げた雑誌や漫画を返してその時に仲良くなったんだよ」


俺はあいつらから取り上げた雑誌や漫画はどこかに捨てたものだと思っていた。

いや、むしろ取り上げた物に対して何の興味もなかった。


「何だよ。それ」


俺は思わず吐き捨てるようにつぶやいていた。

だからだろうか、サカキは俺のそんな言葉に対して付け加えた。


「言っておくけど俺は、お前らとも友達だし、あいつらとも友達ってだけだ」

「じゃあ、あのオタク軍団もお前が漫画書いてること知ってるのかよ」

「知らない」


俺は思わずきょとんとした顔をしていたのだろう。

サカキは俺の顔を見て笑った。


「この秘密は今まで俺しか知らなかったこと。もちろん家族も誰も知らねえ。でも、お前には言っておきたくなったんだ」

「何で?」


サカキは俺の目をじっと見つめた。


「もし、俺に何かあって死んじまった時、お前だけは俺が漫画を書いていたことを知ってくれているだろう?」


俺は、まだサカキの言葉が続くと思ってじっと見つめていたがサカキはあっさりとこう言った。


「それだけだ」


俺は思わず、はあ?と言っていた。


「お前、そんなこと俺に言われても」

「いいか?俺が漫画を書いていること他の誰にも言うなよ!恥ずかしいからな」


サカキは、俺に対して秘密を打ち明けたことも急に恥ずかしくなったのかベンチから立ち上がった。


「おい!」


俺の声など聞こえていないようで、サカキはベンチの目の前を流れる人ごみの中へと消えていった。

俺の耳にこの大都市の、繁華街の喧噪が戻ってきた。

サカキがどうしてあんな話をしたのか俺にはなんとなくだがわかった。

俺たちの仕事はいつも命懸けだからだろう。

だからこそ俺はこう思う。

今更?

鼻で笑った。

何年やってると思っているんだ?

もう10年。いや、15年になるか?

このヤクザの仕事を。



自分の仕事が本当に命懸けであること、自分の死などこの世界に入った時から覚悟をしていた。

でも、本当に実感するというのは死が訪れるその瞬間。

俺はその時一言だけ思った。


“ああ、何も成さない人生だった”


中途半端な人生だった。

結局今訪れようとしている“死”も俺が今まで仕えてきたもののために訪れる“死”ではなく、単に恨まれて恐れられた結果訪れる“死”だった。


今まで生きてきた中で人を脅すことに何のためらいもなかった。

それは脅してきた人間の感情など考えたことがなかったからだ。

でも、今こうして腹を刺されてわかった。

俺は平凡な人間を殺人鬼に変えてしまう恐ろしい力を持った人間だったのだ。


だめだもう。


立ち上がることができずにそのまま道端に倒れ、腹を押さえた。

血が止まらない。

俺は目を閉じた。

このまま死んでも悔いはない。

家族もいない俺を悲しむ人間などいないからだ。

そう思うと俺は安心して眠れるような気になった。

その時、ふと、呑気なサカキの声が聞こえた。


“俺さあ、実は漫画書いてるんだ”


俺は目を開けた。

ずるずると体を引きずりながら動いている。

それも無意識に。


“お前だけは俺が漫画を書いていたことを知ってくれているだろう?“


わからない。

どうしてあんなくだらない会話なんて思い出しているのか。

わからない。

どうして俺は無意識に体を引きずりながら前へと進んでいるのか。

わからない。

どうして誰かに助けを求めようとしているのか。

わからない。

俺がサカキの秘密を知っている唯一の人間であるから生きようとするのか。

それとも・・・・

サカキのように自分しか知らない自分だけの秘密を俺はまだ誰にも打ち明けていないからなのか。

俺は、激しい痛みに耐えながら進むことを止めなかった。

ただひとつわかったのは

ここで終わるわけにはいかないとういうこと。

それだけは確かだった。

空を見上げると、少しだけ星が見えた気がした。



○ソウマ

自分の好きなことを仕事にすれば、毎朝こうして起きることを、興味のないニュースを見ることを、電車に乗ることを苦痛とは思わないのだろうか。

僕はそう思わない。

好きなことを仕事にすれば、きっと僕は壊れてしまう。

だから、仕方がないんだ。

こうして毎日嫌いな場所に通うこと。

好きなことを守るために。



「あ~きもちわる。飲みすぎた」

「おい、お前、昨日のあの子とどうなった?」


僕にはわからない。


「ねえ、聞いてよ~~あいつほんとムカつくんだけど~~」

「はあ?まじで!?また別れたの!?」


どうして僕が、


「なあ、今度さ、M社の子たちと合コンあるんだけど」

「え、マジすか!?」


どうして僕がこの会社に採用されたのか、本当にわからない。


この・・・・・

リア充ばかりの会社に!!!!!


僕がこう思うのは無理もない。

毎朝、毎朝、出勤した僕の耳にはこんな会話ばかりが飛び込んでくるのだから。

そしてその言葉を発する人間は僕なんかとは程遠い存在。

鍛え上げた体にスーツを着こなし、自信に満ち溢れた顔で昨夜の自慢話。

可愛い女の子と飲みに行ったとか、イケメンに連絡先を聞かれたとか、話題も僕とは程遠い。

と、そんなことを考えて自分の席にもつかずに突っ立っていたらドンッと後ろからぶつかられた。

「ちょっと、邪魔なんですけど」

僕は思わずびくっと体を震わせた。

「あ、す、すみません」

僕にぶつかったのは事務員の娘、サオリさん。

年は僕よりも5つも下。

だが・・・・何を隠そう彼女はギャルだ!!!!

それも筋金入りの。

ちっと舌うちの音が彼女から聞こえてきた。

ちなみに僕の言うギャルの定義は怖そうな美人という意味だ。

だから、怖そうな美人に朝から舌うちされた僕はかなり惨めということになる。

「はあ」

僕が、ため息まじりに顔を上げると、まるで汚いものでも見るように僕を見ていた男と目があった。

そいつは僕と同期のカミヤ。

僕からすぐに目をそらすと隣にいた先輩とM社との合コンの話に戻った。

カミヤはかなりの遊人で彼女がいるというのに、ほぼ毎日飲み歩いては女の子を口説きまくっている・・・とか。

もちろん親しくはないので本当は詳しくは知らない。

「おはよう!」

大きくはっきりと響き渡るその声で僕は驚いて振り向いた。

我らが上司、キリュウ支店長のご出勤だ。

さっきまで無駄話していたみんなも立ち上がり姿勢を正すと大きな声で挨拶を繰り出す。

「おはようございます!」

もちろん、僕もそれに続く。

「お、おはようございます」

キリュウ支店長が僕を覗き込むように見つめる。

僕はびくびくしながらも、必死で笑顔を作った。

「相変わらずちっさい声だな。ソウマ!ま、そんなモヤシみたいな体型なら当たり前か」

そう言って、ふんと鼻を鳴らすとキリュウ支店長は支店長室へ入っていった。

残された僕の耳には、小さな笑い声が聞こえてくる。

そう。

僕の名前はソウマ。

モヤシみたいな体型で、声もちっさくて、同期からも後輩からも馬鹿にされている。

それが、僕。

僕はため息をついて自分の席に着いた。

PCの電源を入れる。


この会社に勤めてもう少しで10年。

なのに親しい同僚すら僕にはいない。


カタカタと音を立ててPWを入力。


僕にとって仕事とは、生きるための手段でしかない。


タンッとエンターキーを押す。


お金を稼ぐための手段のひとつ。

僕の居場所はここになくていいのだ。


「おい。聞いてんのかよ」


僕は、はっとして顔を上げた。

PCのモニターの向こう側にカミヤがいた。

じっとこちらを睨みつけている。

「え?」

「え?じゃねえよ。相変わらず一人の世界に入りやがって気持ち悪い奴」

「ご、ごめん」

「呼んでるぞ」

「え?」

「だーかーらー支店長がお前に話があるって言ってんだよ」

カミヤは、あからさまに大きなため息をついて、僕の席から離れて行った。

僕が席から立ち上がると同時に、あ~また長くなりますねなんて声が聞こえた。

それから、あいつ、説教されることが仕事になってますよなんて言葉を付け加えて。

大きな深呼吸をした僕が支店長室のドアを三回ノックすると、はっきりと大きな

「入れ!」という声がした。

「失礼します」とその声に答えて、僕は支店長室のドアノブを回した。

この部屋に入って支店長と向かいあうことが毎週休み明けの日課になっているような気がする。

「なぜ呼ばれたかわかるな?」

背を向けていた支店長は座っていた大きな椅子を回転させて僕と向かい合った。

支店長の後ろには日付が表示された時計が掛けられている。


あれ?


「は、はい」


そうだ。今日じゃないか?


支店長は、大きなため息をついた。

「ソウマ、わかってるならどうしてなんとかしない?」


一ヶ月も前に予約してたから忘れてた!


「・・・すみません」

「お前だけだぞ、先月も先々月もずっと目標を達成できていないのは」


あの本屋は確か


「とにかく今日中にキジマ様のお宅に行って契約書にサインしてもらえ。絶対だぞ」


そうだ。キジマ様のお宅の近く。


「おい。聞いているのか?ソウマ!!」


僕の中で、カチっと音がした。


「はい。わかりました」


とりあえず、まずはこの部屋から出る。

僕は姿勢を正して一礼をした。

支店長室を出て、自分の席に戻ると今日の予定表をチェックした。

今日の予定なら・・・行ける!

僕は早速、机の中から書類を引っ張り出すとカバンの中に押し込んで、席から立ち上がった。

大きなホワイトボートに貼られた僕の名前の横に“訪問“の二文字を書いた。

「いってきます」

僕がドアノブに手をかけると後ろから、見送る気なんてはなはだなさそうな気の抜けた“いってらっしゃい”が聞こえた。

あの事務員のサオリさんだ。

怖いギャルだが、一応こうして挨拶はしてくれる。

エレベーターで一階まで降りて、駐輪場に向かった。

古い錆び付いた自転車にまたがりペダルを漕ぐ。


さっきまで動く気のなかった僕の体はどんどん動く。

なぜなら僕の原動力にスイッチが入ったからだ。


ペダルを漕ぐ足にどんどん力が入る。

頭の中では今日の予定が一気に組まれていく。


全ては・・・


僕の中で今日の予定が出来上がった。

このままだと定時上がりは確実だ。


そう。全ては・・・国屋川 和哉先生の新作のため!!!!!



おおおおおお!!!!

僕の自転車は今なら車ですら追い越しそうなほどスピードを出していた。


キジマ様のお宅に着くまでの間に、僕は頭の中でどうしたらキジマ様に契約して頂けるのかを考えていた。

だが、こういう仕事は頭の中で考えていても仕方がないことが多い。

目の前で話すことで見えてくるものの方が圧倒的に多いのだ。

さすがにこの会社に10年も勤めていればそれぐらいわかる。

だから、頭の中で考えつつもあとはぶっつけだと自分に言い聞かせていた。


ぶっつけか。


キジマ様のお宅の前で自転車を降りた。

息を整える。


“とにかくまずはぶつかることだ。考えても、考えても仕方がない”


シンタもそう言ってたなあ。

確かあれは・・・


僕はキジマ様のお宅のインターホンを押した。


そうそう。あれは、クイックスタート5巻の・・・


「はい?」

「あ、お世話になっております。コーテー不動産のソウマです」


シンタが癖の強い新チームメイトのミキヒサと話し合おうとするシーン!

全く同じだ。今の僕と。


キジマ様の玄関の扉が開いた。

僕は姿勢を正す。


この癖の強いお客様・・・キジマ様との話し合い。


僕はにっと笑顔を作った。

「いつもお世話になっております。キジマ様」


必ず説得する。

全ては・・・国屋川 和哉先生の新作のために!!



この世界は過去の自分にとって、きっとパラレルワールドに違いない。

だってあの頃にこんな未来がくると想像できただろうか?

この生活も、周りの人間も、僕を取り巻くこの時代ですらこれは僕が生きるべき次元とはきっとちがう。

だとしたらこの世界に迷い込んだ分岐点はいつだろう。

それはきっと・・・



ブーブーとスマホのマナーモードが鳴って、僕は現実に引き戻された。

ついでにガタンッと揺れた振動で持っていた本を落として、隣の人にもぶつかってしまった。

「あ、すみません」

睨まれた僕は、軽く頭を下げてからつり革に掴まり直して外の景色を見つめた。

ガタンゴトンと揺れながら真っ暗闇を電車は走る。

疲れ果てたサラリーマンたちを乗せて。

もちろん、僕もそのひとり。

癖の強いキジマ様に圧倒されつつもなんとか契約にまでこぎつけてへとへとに疲れ果てている。

だが、しかし僕にはこの国屋川 俊哉先生の作品があるのだ。


はあ~~

やっぱり国屋川 和哉先生の作品は面白い。

文章がまた独特で面白いんだよなあ。

もういちど僕は本に視線を戻した。


“この世界は過去の自分にとって、きっとパラレルワールドに違いない”


「パラレルワールドか」


並行世界・・・だったかな

よく時空ものの物語に出てくる。

バック・トゥ・ザ・フューチャー、ターミネーター、バタフライエフェクト

たしか、自分が本来生きている世界とはまた違う世界みたいな感じで。

えっと・・・

本を脇にはさんで、僕はカバンからスマホを取り出した。

ネットで調べようとスマホのロックを解除したところで思い出した

あ、そうだ。メール、きてたんだ。

メッセージの受信ボックスを見つめた瞬間、僕は思わず目を見開いた。


そんな、まさか・・・。


それは意外な人物、いや、いつかくるかもしれないとは思っていた人だがくることがないことを祈っていた人物だった。

僕は震える指で、その人からのメッセージを開いた。

案の定そのメッセージを読み終えるまでもなく、僕は全身の力が抜けていくのを感じた。

持っていたスマホを、脇にはさんでいた本を、カバンを全て落としてしまった。


ああ、だめだ。


そしてそのまま座り込んでしまった。

目の前が真っ暗になっていく。


だめだ。だめだよ。


立ち上がることもできなかったが、何よりも涙がとまらなかった。

同時に覚悟なんてあってないようなものだということを僕は心から感じていた。



○センゴク

「そこはさ、流れ的に俺が死ぬとこなんだよな」

病室でそう笑いながらいったサカキの言葉が俺には理解できなかった。

「は?流れ?」

「あ~いいや。お前にはそういうの分からないだろうから」



その通りだ。

俺はお前が何を言いたいのかわからないままだった。

あの時も、今も。

ふうっと息を吐くと、白い煙が真っ暗な空へと登っていった。

俺の耳にかすかにお経を読む声が聞こえてくる。

すすり泣く声も。

俺は脇に抱えていた大きな茶封筒をぎゅっと握り締めた。

「こんなところにいたのか」

そう言った男の顔を見た俺はすぐにタバコを足元に捨てて火を踏み消した。

「ご苦労様です。親父」

「タバコ、拾っとけよ。ここは俺らのシマじゃあねえんだからな」

「はい」

親父がタバコをくわえたので俺はすかさずライターをかざした。

「サカキはこんな田舎の生まれだったんだな。あ、お前もか?」

親父はふっと白い煙を吐いた。

「いえ、俺たちは中学から一緒で。サカキが中学生の頃に俺の地元に越してきたんです。それから親が離婚したとかで、ここはサカキの母親の実家なんですよ。父親はたしかもう別の家庭があるみたいです」

「そうか。じゃあ、母ひとり、子ひとりだったわけか」

「はい」

親父はため息と一緒に煙を大きく吐き出した。

「子供を失った親を、俺は見てられねえ・・・なあ、センゴク」

じっと俺を睨むように親父は見つめた。

「逃げてきた俺を弱い奴だと思うか」

俺は思わず親父の視線から目をそらした。

なぜなら俺もだったからだ。

「俺は何も言えません」

親父は俺から視線をそらして真っ暗な空を見つめた。

「ま、おまえは昔からサカキのおふくろさんのこともよく知ってるもんな。そら辛えわ」

「すみません」

「そういえば、さっきカタギの男がひとり来ていたぞ?」

俺は思わず驚いて後ろを振り向いた。

暖かな光を灯す小さな平屋からたくさんの人が出入りをしていた。

ほとんどが見知った顔ばかりだ。でも、

あの中にあいつが。

「親父」

「なんだ」

「すみません、少し失礼します」

“おう”と言った親父の低い声に俺は一礼し、人々が出入りを繰り返す平屋へと戻った。

人ごみをかきわけて中を覗くとさっきまで祭壇の前で嗚咽をあげながら泣いていたサカキの母親が少しだけ顔を綻ばせて会話をしている。

その会話の相手こそ俺が探していた男だった。

その男はサカキの母親に深々と一礼をすると立ち上がり俺の方に向かってきた。

俺は軽くその男を見つめたが、涙を浮かべ鼻を真っ赤にしたその男は俺のことなどまるで眼中にないようでそのまま通り過ぎた。

俺はその態度すら腹が立った。

昔と何ひとつ変わらない。

あいつらの存在はなぜか無性に腹が立つ。

その男が外に出たところで俺は声をかけた。

「おい」

男がこちらを振り返る。

「久しぶりだな。ソウマ」

鼻を真っ赤にしたソウマは俺のことをきょとんと見つめた後、大きく目を見開いた。

「センゴク君?」

俺は思わず鼻で笑った。

「お前。俺のこと覚えてるのか?」

「そりゃ・・・高校の同級生だし」

「へえ、同級生ならちゃんと覚えてるんだな?ロクに喋ったことのない俺でも」

ソウマは少しむっとした顔を俺に向けてきた。

意外だな。

少しはそんな顔もするようになったのか。

「ふうん。あのへらへらした顔以外もできるようになったのか。ちょっとはましになったんじゃねえの?」

「センゴク君。君こそ変わっていないね。高校の頃からずっと。そうやって人を見下している癖。相変わらず幼稚だね」

体中が熱くなった。

「てめえ!」

俺は思わず目の前のソウマの胸ぐらをつかんでいた。

「言うようになったじゃねえか!ソウマ!」

じっとまっすぐ、ソウマは俺を見つめていた。

「別に。僕は何も変わっちゃいない。ただ」

ソウマの目から涙があふれてこぼれた。

「ただ今日は、悲しくて悲しくてもうどうでもいいんだ」

そんなソウマを見た俺は思わず拍子抜けして、掴んでいたソウマの胸ぐらから手を離した。

と、同時だった。

まるで支えを失くしたようにソウマはその場で泣き崩れた。

俺はただただソウマを見つめるだけだった。

さっき俺の前で泣き崩れたサカキの母親を見つめた時を同じ様に。

自分は泣くこともなく。



○ソウマ

「悪かったよ」

そう言ってタバコを一本差し出してきた男の顔を見て、僕は思わず固まってしまった。

「いらないのか?」

僕はすぐ我に返った。

「え?あ、う、うん。タバコは吸わないんだ」

僕はさっきまでの自分の行動が信じられない。

ちらっと横にいる男の顔を見つめた。

タバコに火をつけるその男は、まさしく僕の人生においてこれほど嫌いな人間はいないと言っても過言ではない、

高校時代の同級生、センゴク。

高校時代からヤクザのような顔をしていた彼は、結局本物のヤクザになってしまった。

さっき言い争いをした僕たちは、通夜の邪魔だからと人通りの少ない裏手へと場所を移したのだが・・・

本当に誰も来なくてすごく怖い!

「まさかお前とサカキが連絡を取り合う仲だったとはな」

センゴク君は呟く様に言った。

「サカキが死んだこと誰から聞いたんだ?」

「サ、サカキ・・・君のお母さんだよ」

センゴク君と普通に会話をするなんて高校生の時では考えられなかった僕はごにょごにょと言葉を続けた。

「サカキ君がこの道を選んだ時に、おばさんに連絡先を教えて欲しいって言われて。サカキ君に何かあったら連絡するって言われていて。まさかでも」

まさかでも本当にこんなことになるなんて。

覚悟はしていた。

普通の道ではない道を選んだサカキ氏が僕たち一般人よりもはるかに危険なことを毎日しているんだから。

でも実際こうしてサカキ氏の死を目の当たりにしてしまった僕は覚悟なんてあってないものなんだと心の底から実感していたんだ。

僕が言葉に詰まっていたのでしばらく沈黙が流れた。

センゴク君はふうっと白い煙を口から吐いた。

「ちょっとは見直したぜ。ソウマ」

僕はびくっと身を震わせた。

「え?」

「さっき俺に食ってかかっただろ?昔のお前からは全然想像つかなかった」

僕は、顔をセンゴク君からそむけて下を向いた。


そりゃそうだろう。

君と僕は高校時代から天と地ほども違うのだから


高校の頃、サカキ氏とセンゴク君は、スクールカーストのトップにいた。

もちろん僕はそんな二人と違ってスクールカーストの最下層の最下層。

そんな最下層にいる僕たちは高校という狭い世界の中でいじめられる運命だった。

スクールカーストのトップたちに。

特にそのグループのリーダー的存在、センゴク!!

コイツだけは敵に回すと本当に厄介だった。

先輩だろうが他校の生徒だろうが、歯向かうものを殺しはしないが半殺しにして力でねじ伏せていたのだ。

だから僕たち最下層の人間は息を殺すようにこそこそと生きていた。

そいつらの目に触れないように。

なのに・・・



「お前ら、本当にうざかったからな」

僕は驚いて、センゴク・・・君に振り向いた。

「え?」

「教室でさ、こそこそ気持ちの悪いアニメの雑誌を持って会話をするお前らが俺たちは何か気に食わなかったんだよな」

僕は何も言わず下を向いた。



存在を認識されないように僕たちはこそこそと行動していたのにそのことにすら気に食わないセンゴク君たちは僕たちから雑誌や漫画を奪っては窓の外に放り投げたり、破ったり。

僕たちは何度悔し涙を流したことか。

でもサカキ氏は違った。

破れた漫画を貼り直して僕に返してくれた。



“俺もさ、この漫画好きなんだ”


そう。

サカキ氏だけは違ったんだ。



「ま、お前にさっき言われたとおりだよ。俺たちが幼稚だったのさ。あ、今でもか」

そう言って笑うセンゴク君の横で僕は思わず青ざめていた。

僕、さっきそんなことまで言ったのか。

な、なんてことを!!この半殺しのセンゴクに!!!

「ご、ごめん。生意気言って」

センゴク君の笑い声が止まった。

「いや、熱くなった俺が悪い。すまなかったな」

そう言って申し訳なさそうな顔をして頭を下げるセンゴク君を僕は人生で初めて見た。

あの半殺しのセンゴクが頭を下げている!!

僕は雷に打たれたような衝撃を受けていた。



“センゴクはちょっとは大人になったよ。俺、卒業してからずっとあいつのこと近くで見てるからさ。さすがにわかるんだよ。だからソウマ。あいつのこと、許してやってくれ”



確かにサカキ氏もそう言っていたが半信半疑だったのだった。

「なんだ?何固まってるんだ?」

雷に打たれたような僕を不思議そうに見つめていた。

「い、いや別に」

センゴク君は本当に少し変わったのかもしれない。

まあ、よく考えれば高校の頃から15年は過ぎているのだから当たり前ではあるのだが。

15年・・・

あれからもう15年も経つのか。


“なんで、なんで君までそんな道を選ぶの?”


サカキ氏、君がこの道を選ばなければ君はまだこの世に生きていられたのに。

僕は昔から泣き虫で、少しでも悲しいことがあると泣きたくなくても涙が止まらなくなる。

だから、また涙を止めることはできなかった。

ぎゅっと僕は拳を握り締めた。

どうしようもない。

このヤクザの道を選んだサカキ氏を止めることなんて僕にはできなかったし、サカキ氏の死に際に駆けつけたとしても平凡で一般人の中の一般人な僕には何もできなかったに違いない。

僕の横にいたセンゴク君はふっとタバコの煙を夜空に向けて吹きかけた。



“だからソウマ。あいつのこと、許してやってくれ”



サカキ氏の声を思い出したような、本当に聞こえたような気がした。

でも僕は、わざと下を向いてその言葉には何も答えなかった。



○センゴク

俺は少しだけ、こいつが、ソウマが羨ましかった。

こいつの様に感情的に泣けたら。

俺の方がサカキとの長い付き合いであることは絶対だ。

なのに俺は泣けない。

サカキの死は本当に悲しい。

でも、涙がこぼれないんだ。

それはきっと俺たちがこの世界に入るために引換えにした感情なのかもしれない。

俺は口から大きく煙を吐き出した。

いや、今はそのことじゃねえ。

俺はソウマを見つめた。

「ソウマ、お前に頼みがある」

ソウマは鼻をすすりながら俺を見つめた。

「頼み?」

俺はずっと手に持っていた茶封筒をソウマに差し出した。

「これを読んでほしい」

ソウマはきょとんとした顔をしていた。

その顔を見て俺はサカキが言っていたことが本当だったとわかった。

サカキは漫画を書いていたことを俺以外の人間には誰にも言っていなかったのだ。

このオタク友達であるソウマにすら。

ソウマは茶封筒の中身を取り出すと、目を大きく見開いた。

「これは・・・漫画!?」

俺は頷いた。

「サカキが描いた漫画だ」

「サカキ氏、じゃなくてサカキ君が?」

「サカキからずっと前に漫画を書いていることを聞いてよ、それからすぐ俺が刺されて入院した時に・・・おい、引くなよ。刺されたと言ってもそんな大した傷じゃなかったんだが、その時に今書いている漫画の隠し場所を教えてもらったんだ」

あの時、あの病室でのことを俺はソウマに話し始めた。



「そこはさ、流れ的に俺が死ぬとこなんだよな」

病室でそう笑いながらいったサカキの言葉が俺には理解できなかった。

「は?流れ?」

「あ~いいや。お前にはそういうの分からないだろうから」

「なんだよわからないって」

「だから、俺がお前に秘密を言ったろ?」

「漫画を書いてるってことをか?」

「なんかそう言われると恥ずかしいな。ま、とにかくそのことをお前に告白した時点で俺には死亡フラグってのが立ったはずなんだよ」

「しぼうふらぐ?」

「で、話の流れ的には俺がそこで刺されて死ぬはずだったんだよ」

「お前・・・何言ってるんだ?」

「ほら。やっぱりお前にはわからなかっただろ?」

俺はサカキの言っていることが何だか別の世界での言葉に聞こえた。

そんな俺に呆れた様子のサカキはパイプ椅子の背もたれに大きく伸びをしてもたれた。

「お前、アニメだけじゃなくて漫画とかも読んだことないだろ?」

そう言って机の上に置かれていたバスケットの中からりんごをひとつ手にとった。

「俺たちの世界にそれは必要なのか?」

「いや、必要ないけど。娯楽ってのは生きていく上で必要だと思うぜ」

サカキはりんごにかぶりつき、もぐもぐと口を動かしながらにやついた顔を俺に向けてきた。

こいつのこういうにやついた顔はいつも何かを企んでいる時の顔だ。

「何だよ。その顔は」

「なんかお前になら読んでもらっても平気な気がしてきた」

「何が?」

「俺の漫画」

「はあ?」

「お前、退院したら俺の漫画読めよ」

「何でお前の漫画なんか」

「いいからいいから。お前なら全然漫画のこと理解してなさそうだから読まれても平気っていうか」

「それ読む意味あるのか?」

「あるんだよ」

即答かよ。

俺はそんなサカキを茶化してやろうかと思ったが、やめた。

サカキの表情は真剣で茶化す気にはなれなかったからだ。

「お前が刺されて思ったんだ。俺たちって組同士の抗争だけじゃなくてこうやってカタギの奴らからも恨まれていつ刺されてもおかしくない状況だって」

俺も今回のことでそれは痛感していた。

カタギだからってなめていた。

俺たちはカタギの奴らを殺人鬼に変えてしまうほどの力を持った存在なんだってことを。

俺を刺した奴は俺がここ2.3ヶ月取り立てでよく訪ねていた奴だった。

俺は借金を作る人間が悪いんだと、こうなっているのは自業自得なのだからどんな罵声を浴びせても構わない、そう思っていたから罵声も暴力も手加減はしていなかった。

だからこそそんな俺はあいつにとって恐怖そのものだったのだろう。

恐怖から逃れるために恐怖を消すしかなかった。

だからこうして俺は今病院のベッドの上にいる。

「いつ死ぬかわからない。まあ、そんなの生きてたら誰でもそうなんだけどよ。でも、それを実感したからこそ死ぬまでに誰かに知って欲しいんだよな。俺の漫画。このまま誰にも知られないままなんてなんか」

そこでサカキは言葉が詰まった。

「なんか、なんだよ?サカキ」

サカキは力が抜けたように笑った。

「なんかむなしいだろ?」




あいつのあんな真剣な顔、仕事でも見たことなかったぞ。

俺は思わず思い出し笑いしていた。

「あいつは言ったんだ。実は漫画を事務所の俺のロッカーの中に隠してある。退院したら読んでくれって。でも俺も色々と忙しくてな。読む時間なんて」

俺は横にいるソウマを見てぎょっとした。

そいつは、茶封筒から取り出したサカキの漫画を手に持って固まっていた。

「お、おい。お前サカキが漫画書いてたことぐらいでそんなに驚かなくても」

ソウマの手が震えている。

俺は、一瞬何のことかわからなかったが、すぐに理解した。

こいつは俺の話を聞かずにサカキの漫画を読んでいたのだ。

俺はまた体中が熱くなった。

「てめえ、人の話全然聞いてねえじゃねえか!」

俺はソウマの胸ぐらをつかもうとしたが、またもやぎょっとしてしまった。

ソウマはサカキの漫画を持ったまま泣いていたのだ。

「な、なんで泣いているんだ?」

ソウマはまっすぐ俺を見つめた。

「君は・・・読んだ?この漫画を」

俺の中でさっきまで熱くなっていた体が冷めていくのを感じた。

そう。そこなのだ。

俺がソウマに頼みたかったこと。

「もちろん読んだ。サカキが生きている間は読めなかったからあいつが死んでからになっちまったけど、読んだ。でも、俺は」

本当にあいつの言うとおりだった。

「俺、全然こいつの漫画理解できなくて。ていうか、マス?みたいなんで分かれてるせいで次にどこを読んだらいいのかもよくわからなくてよ。で、文字を読んでも誰が何喋ってるかもよくわからねえし。そもそも、そいつらの言葉って本当に合ってんのかってぐらい俺には理解できねえんだよ、だから俺、お前に」

ソウマは唖然としていた。

俺の言葉こそ理解できない。そんな顔だった。

「な、なんだよ」

「センゴク君」

ソウマがじっと俺の目を見つめた。



「これは君たちの物語だよ」



そのソウマの言葉に俺は思わず固まってしまった。


この意味不明な漫画が?

俺たちの?


だから俺がソウマに問いかける前に、ソウマは茶封筒にサカキの漫画を入れると俺の胸に押し付けた。

そしてそのまま固まった俺を残してあいつは去っていった。

「お、おい!」

やっと俺は動きだしたものの、ソウマの後ろ姿を見送っただけでなぜか追いかけはしなかった。

俺の中でずっとソウマの言葉が響いていたからだ。


“これは君たちの物語だよ”


俺は結局肝心な頼みごとを言えなかった。



○ソウマ

僕たちは親友だと思っていた。

生きている世界は違うとしても。

君とはずっと親友だと思っていた。

でも本当はどこかでわかっていたんだ。

僕は君にとって趣味の合うだけの友人のひとりだったんだね。


「はあ~」

思わず僕の口からは大きなため息が漏れていた。

いや、仕事に集中しなければ!と僕は姿勢を正してデスクトップ画面に向かった。

カタカタとキーボードを鳴らすが、次第に静かになり

「はあ~」

またため息だ。

さっきから何度こんなことを繰り返しているのか。

まったく仕事になりやしない。

カタカタとゆっくりリキーボードを僕は叩き始めたがその音が大きくなればなるほど僕はさらに頭がぼうっとしてきた。


“なんで、なんで君までそんな道を選ぶの?”


僕はまるで白昼夢でもみているかのように思い出していた。

サカキ氏があの道を選んだ日のことを。



「俺はあいつが大物になるところを見届けたいんだ」

僕は参考書から顔を上げて、サカキ氏の顔をまっすぐに見つめた。

サカキ氏の顔はいつになく真剣でじっと僕を見下ろしている。

相変わらず身長差は縮まらないし、あいつへの信頼度も僕とは桁違いの差があるようだ。

「だからって」

「ん?」

「なんで、なんで君までそんな道を選ぶの?」

サカキ氏はうーんと唸って首をかしげた。

ざわざわとファーストフード店の客たちの話し声が僕の耳に嫌でも飛び込んでくる。

くだらない恋バナをする女子高生。

会社の愚痴を言い合う会社員。

大きな声で笑い声を上げる主婦。

僕はそんな聞きたくもない人々の話し声に耳を傾けながらサカキ氏の答えを待った。

「なんでだろうな」

えっと僕は思わず声を上げて持っていたペンを落としてしまった。

そんな僕にサカキ氏は、にやっと笑った。

「ソウマ、お前この前のイッコクノオウの最新刊読んだか?」

「読んだけど。なんで急に」

「あの最新刊でザンが言っていた言葉。あれが俺を動かしたんだよ」

「ザンの言葉って」

僕は思い出していた。

「“王子は王になる器だ。だから誰にも邪魔はさせない。俺がいる限り”ってセリフ?」

サカキ氏は吹き出した。

「お前、本当そうゆうところ記憶力いいよな。そう。そのセリフ」

僕は思わず大きなため息をついていた。

「まったく」

そこで僕は椅子を後ろに引いて、さっき落としたペンを拾うためにかがんだ。

「サカキ氏は本当にあいつに一目置いてるよね」

「ああ。俺はあいつに命を救われてるからな」

僕は机の下で何も言わなかった。

「でもよ、ソウマ。そのセリフを思い出すってことはよお、お前もセンゴクが大物になるって思ってんじゃねえか?」

「え?いたっ!!」

僕は立ち上がろうとして机の角で頭をぶつけた。

頭をさすりながら顔を上げるとニヤついた顔のサカキ氏がいた。

僕は大きなため息をついて座り直した。

「そりゃあんな生まれつきのヤクザ顔の人、あっちの世界で成功する気しかしないよ」

サカキ氏は大きな声で笑った。

「ははは!そりゃちげえねえ!!」




「おい!ソウマ!!」

僕はその声で我に返った。

目の前には真っ暗になったデスクトップ。

スリープ状態に入っているようだ。

「聞いているのか!ソウマ!!」

僕が後ろを振り向くと、じっと僕を見下ろすキリュウ支店長が立っていた。

「ソウマ、真っ暗なデスクトップの前で何の仕事をしていたんだ?」

僕は瞬時に立ち上がった。

そのスピードはきっとコンマ0.001秒くらいの速さだったと思う。

「す、すみません!!」

キリュウ支店長はそんな僕に対して大きく息を吐いた。

「支店長室に来い」

そう言い残して大きな足音を立てながら支店長室へと戻っていった。

僕は、がくっと頭を落として支店長室へと静かに向かった。



「キリュウ支店長怒っていたなあ」

支店長室の中で僕は散々に怒鳴られた。

「カミヤからの嫌味すらなかったな」

同期のカミヤはそんな僕に対していつも嫌味をぶつけてくるのだが、さすがに今日の僕はあまりにもひどかったようで嫌味を通り越して、無表情で僕の存在をひたすら無視していた。

そんな仕事をだらだらと続けても意味がない僕はさっさと仕事を終わらせて、今、家への帰り道を歩いている。

まだ少し日が残っているこの帰り道は、僕の気持ちをもっと締め付ける。

この夕日と同じ。

目から焼きついて離れない。

あの・・・漫画。

サカキ氏はそうだった。

ずっと昔からあいつに対していつも一目置いていて、誰よりも尊敬していた。

まさにあの漫画はサカキ氏の

「おい」

その低い声に思わず体が震えた。

反射神経でその声にまだびびる・・・つまり僕の体に恐怖が染み付いている証拠だ。

僕が顔を上げると、家の前で座り込んでいるあいつがいた。

「えっと、なんでここにいるのかな?センゴク君」


○センゴク

目に焼きついて離れない。

あいつの泣き顔が。

俺にはどうしたってあんな風になれない。

理解できない。

できないんだ。

この中で眠るサカキの意義を。


俺は手に持っていた茶封筒をソウマに差し出した。

「昨日、言えなかった頼みだ。俺にこいつの読み方を、漫画の読み方を教えてくれ」

ソウマは固まっていた。

無理もない。

久しぶりに再会した高校の同級生(しかも対して仲良くもない。むしろ悪い)がヤクザになっていて、そいつが家の前で座っていきなり漫画の読み方を教えてくれだなんて。

だが俺は知りたい。

知らなければならない。

お前がああ言ったんだから。


“センゴク君、これは君たちの物語だよ”


これが俺の、俺とサカキの物語とお前が言ったのだから。

俺は、俺は・・・

「俺は、お前のようになりたい」



ヤクザからまさかそんなことを言われる日がくるとは。

「え、え!?」

僕は思わず顔を赤くしてしまった。

「ねえ、あの人たち何しているの?」

「シーッ!見ちゃダメ!」

足早に僕たちの横を通り過ぎる親子はちらちらとこちらを見つめている。

それから僕たちを静寂が包んだ。

「もういちど言う!」

僕はびくっと体を震わせた。

「俺は、お前の」

「わあ!わかったから!聞こえてる!聞こえてる!」

僕は半泣き状態でそう言った。

まさか、あの半殺しのセンゴクからそんなことを言われるなんて。

僕のようになりたいか・・・。

「え、えっと。センゴク君つまり君は、昨日の僕を見てこう思ったんだよね?僕のように漫画を理解したいって」

「ああ。そうだ。それ以上に何かあるか?」

うん、まあそうなんだけど。

「昨日のお前の顔と言葉が忘れられないんだ」

「え?」

「お前、サカキの漫画を読んで泣いていただろう?それから、こう言ったよな。この漫画を俺に押し付けて。これは君たちの物語だって」

そういえば・・・

確かに言った!

しかも、あんな偉そうに!

漫画を押し付けて。

この、半殺しのセンゴクに!!!!!!

僕は思わず頭を抱えた。

昨日の僕は本当にどうかしている。

「俺も感じたいんだ。このサカキの漫画から。でも、こいつの漫画は本当に俺にはわからない」

僕はなんとなくセンゴク君がこの漫画を理解できない理由がわかる気がした。

なぜなら、サカキ氏が描いたこの漫画は・・・・

まあ、今はとにかく。

「とにかく家の中に入りなよ。ここじゃ、目立ちすぎるし」

「あ?俺がか?」

僕の体はびくっとまた大きく震えた。

「い、いえ。そういうことではなくてですね、あ、あのとりあえず中に・・・ね?」



○センゴク

そこは、どこにでもある普通の家だった。

狭い玄関の目の前には2階に続く階段。

階段の奥には、キッチンが見える。

きっとそこにダイニングとリビングがあるのだろう。

なんて、俺はぼんやりと思った。

他人の家には数え切れないくらい入り込んでいる。

取立てで。

だから、こいつが外で会話をすることを嫌がったのもわかるつもりだ。

俺は見た目通りのヤクザだしな。

「あ、セ、センゴク君。こちらにどうぞ」

俺は靴を脱いで家に上がった。

予想取りだ。

階段の奥にはキッチンとダイニング、その横にテレビとテーブルにソファーが置かれたリビング。

どこにでもある家、そしてきっと家族。

「あの、お茶・・・ここに置いとくね」

だから俺には謎だったことがある。

「おい」

湯呑をテーブルに置いたソウマが、びくっとして俺を見つめた。

「お前はなんでサカキと友達だったんだ?それも今まで」

「そ、それは・・・サカキ氏じゃなくてサカキ君も好きだったからだよ」

「何が?」

ソウマは、ぼそっと呟くように言った。

「・・・イッコクノオウ」

「はあ?」

「イ、 イッコクノオウだよ」

「なんだよそのイッコクノオウてのは」

「漫画・・・です」

「漫画!?」

ソウマは頷いた。

「もしかしたら・・・君も覚えているかもしれない」

「俺が?なんで」

「きっかけは君だったから」

「え?」

「ちょっと待ってて。説明するよりも実物を見た方が早い」

そう言って2階に駆けていったソウマはさっきまでびくびくしていたソウマとは別人のようだった。

なんだあいつ。

オタクってあんな感じなのか?

漫画の話になると機嫌がよくなるとか?

「変な奴」


2階から降りてきたソウマが大事そうに抱えていたのはセロハンテープでいたるところを貼り付けている漫画だった。

「なんだその汚い漫画」

そんな俺の言葉を聞いてソウマの表情が曇ったが、どこか納得している様でもあった。

「やっぱり覚えていないんだね」

全く覚えてはいなかったが、察しはついた。

「それ、俺がやったんだな」

ソウマは無言でそのセロハンテープまみれの漫画を俺に差し出した。

俺はその漫画を受け取った。

漫画の表紙はビリビリに破かれてはいたが、タイトルはちゃんと読めた。

大きな赤い文字でイッコクノオウ3巻と書かれている。

「サカキ・・・君はその漫画が大好きだったんだ。この漫画を僕たちが教室で読んでいるとき、センゴク君、君たちが近づいてきて」

「破ったのか?」

ソウマは頷いた。

「教室の隅でコソコソしている僕たちが気に食わないって理由でね。そして破ったこの漫画を窓から放り投げたんだよ」

俺は思わず、え?と声を出していた。

高校生時代の俺は本当にガキだ。

今でも兄貴たちからガキぽいところを直せと言われているんだから当たり前なのだが。

「あの頃はとにかくむしゃくしゃしていたんだ。お前らをいじめていたってうよりもイライラをぶつけてたんだ。だからその・・・」

俺は膝に手をついて頭を下げた。

「悪かったな」

「いや、そんな・・・謝って欲しかったわけじゃ。とにかくこのことがきっかけでサカキ氏・・・じゃなくてサカキ君と仲良くなったんだ」

俺はそこで昔サカキが言っていた言葉を思い出した。


“だって俺アニメも漫画も昔から大好きだったし。あいつらと結構気が合ったんだ。だから内心、俺らひどいことするなあって思ってたんだぜ?でも、お前らはそんなことちっぽけも思ってなかったみたいだから。こっそり取り上げた雑誌や漫画を返してその時に仲良くなったんだよ”



「僕はね、センゴク君。サカキ・・・君と友達になれたことは、僕にとって、僕の人生にとって一番価値があったことだと思っているんだよ」

ソウマのその言葉に俺は顔を上げた。

「お前らは本当に仲が良かったんだな」

ソウマは力なく笑っていた。



○ソウマ

「俺もさ、この漫画好きなんだ」

走って三階の教室から校庭に降りたった僕は、その言葉が全く理解できなかった。

だって、その手にあるその漫画はさっきお前らが破いたせいでボロボロになっているんだから。

僕は下を向いてそいつから漫画を奪い返した。

「何で、こんなことをするの?」

思わず僕の口からそんな言葉が飛び出した。

もう限界だったんだ。

うっとうしいからという理由で僕たちに嫌がらせをしてくるこいつらの存在は僕にとってただの恐怖でしかなかった。

びくびくして教室で過ごすことが身についた。

それがまた気に食わないと言われる。

じゃあ、僕はどうしたら?

「もう勘弁してよ」

僕は、まだ校庭に落ちてばらばらになった漫画のページを拾うためにかがんだ。

情けなくて、涙がこぼれた。

僕が手を伸ばした漫画のページにもう一つ伸ばした手が滲んだ世界に見えた。

顔を上げると滲んでよくわからなかったが、そいつは微笑んでいるように見えた。

「この漫画のいいところってさ、主人公がひとりじゃ生きていけないってところだよな。力もなきゃ頭がいいわけでもない。見た目だってカッコイイわけじゃないし。でも、いつも真っ直ぐで自分よりも強い悪人に勇気を持って立ち向かう王子。そんな王子だからいい仲間に恵まれてさ。仲間たちに助けてもらってやっと物語が進んでいく。俺この漫画のそういうところが好きなんだ」

僕はそいつが急にそんな話しをするものだから、意味がわからなくてさっきまでの涙も引っ込んでいた。

「だから俺もそうやって生きて行きたいって思ってたんだ。正しい道を進んでいたらきっと誰かが支えてくれて、逆に俺が誰かを支えたり。でも現実はそううまくいかなくて」

そいつは、ぎゅっと唇を噛み締めた。

「ごめん。本当にごめん」

涙はとっくに引っ込んでいたから、そいつの顔はもうはっきりと見えた。

だから僕は本当にそいつが心から謝っていることがわかった。

僕はふと手を伸ばした漫画のページを見つめた。



「“そうやって生きていくしかない。それが俺の人生で運命だから”」



きょとんとした顔をそいつは向けてきた。

僕は漫画のページを拾い上げてそいつに突き出した。

「ここに書いてある。ロキ王子が自分の限界を知って自分の運命を受け入れるところ。僕、このシーン好きなんだ。そうか、受け入れればいいのかって。何か楽になるから」

そいつは一瞬拍子抜けした顔をした後、吹き出した。

「確かに。いいよな。ロキ王子らしい言葉っていうか」

「現実なんて漫画みたいにうまくはいかないよ?サカキ君、そんなことも知らなかったの?」

僕は初めてそいつの名前を言った。

「うるせえな。ソウマこそ漫画の世界に生きてるんじゃねえのかよ」

僕は初めてそいつに名前を呼ばれた。

「漫画の世界は好きだけど、現実はちがうって僕はわかってるつもり。でもね」

僕はわからなかった。

どうしてこんな奴にペラペラと自分の思いを話しているのか。

いつも一緒いるオタク友達にも言っていないのに。

「漫画の、いや、漫画だけじゃない、小説やドラマ、映画の中に出てくる言葉は時々僕を救ってくれる。僕の現実を救ってくれる。さっきの君みたいに」

「え?」

「気がついていないの?だって君、さっきまでの君と全然ちがう顔をしているよ」

サカキ君は、大きく目を見開いて僕を見つめていた。

僕はそこで我に返った。

あ、あれ?

僕・・・クラス一の不良グループの一人になんてことを!!?

「あ、あの、ごめん。生意気言っ」

「確かにそうだ」

僕はきょとんとした顔をしてサカキ君を見つめた。

サカキ君は、にっと笑って僕を見つめた。

「俺、この漫画がやっぱり好きだ。何でこんなに好きなのかわかってなかったけど、今わかった。俺も救われてたんだな」

僕はその時自分の考えを人生で初めて受け入れてもらった気がした。

まるでそれは自分の存在を生まれて初めて認めてもらえたような、そんな感覚。

というか、本当に初めて人に打ち明けて理解してもらった。

自分が作品を読む、見る理由。

それは時に人生を救ってくれる瞬間があるからだ。

そして、また新たにわかったのはこうして作品を通して思いがけない友を得ることがあるということ。

なぜなら僕はその時、はっきりと感じたのだ。

親友と出会った感覚を。




「君たちには負けるよ」

僕の口から思わずそんな言葉が飛び出した。



だってあの漫画を読んでしまった僕はもう、サカキ氏の親友でなくなってしまったのだから。



「あの漫画には、お前がそう思えるようなことが書いてあったのか?」

僕は見つめた。

あの日、破かれた漫画、サカキ氏がセロハンテープで直してくれた漫画を手に持ってこちらを真剣に見つめるセンゴク君を。

僕はずっとこう思っていた。

いや、思いたかった。

僕はサカキ氏のことを誰よりも理解していて一番の親友であると。

いくら同じ道を歩んだからといってセンゴク君とサカキ氏は親友ではない、僕こそが本当の親友なんだと。

でも、違った。

やっぱり違ったんだ。

よりによってどうしてセンゴク君なんかと君が。

僕は本当に・・・

「僕は本当に君が嫌いなんだ」

僕の声はもう止まらない。

ずっと僕の心の中に閉じ込めていたものだったから、一度開けてしまうともう止まらないんだ。

「たとえ君が今、立派に大人になっていたとしても君が僕たちにしてきたことは消えない。あの時、僕たちがどれほど辛かったか知ってる?あの教室に入ることも、君の声を聞くことも本当に怖かった。正直今でもびくついてしまう。あの時、何もしていないのに、暴力を振るわれた僕たちの気持ちを君は少しでも考えたことがあった?ないよね。あるわけないよね。そんな奴に僕は、サカキ君・・・いやサカキ氏の漫画の意義なんて知ってほしくない。なによりもサカキ氏の死で涙ひとつ見せない・・・悲しみひとつ見せない君は本当にサカキ氏の親友なの?」



○センゴク

涙は出ない。

自分でもなぜだかわからない。

サカキが死んでこんなにも悲しいのに。

俺の目からは涙一粒こぼれない、こぼれないんだ。

そんなの俺が一番聞きてえよ。

俺は無言で立ち上がりソウマとまっすぐに向き合った。

そしてそのまま大きく振った右腕でソウマの顔を俺は殴った。

ソウマはそのまま吹っ飛ばされて、床の上に倒れた。

「そんなこと、てめえに言われる筋合いはねえよ。俺たちはてめえらオタクみたいにぐだぐだ生きてねえからな」

床の上に倒れたソウマは上半身をがばっと勢いよく起こすと、机の上にあった湯呑を掴み、中にあった茶を俺に向かってぶっかけた。

「うわっ!あっつ!!」

「ましだよ」

ぼそっとつぶやいたソウマを俺は睨んだ。

俺の怒りはMAXだ。

「あ?」

だが、ソウマの怒りもMAXだったようだ。

ソウマは俺を睨み返すと叫んだ。

「君みたいな生き方より、僕のほうがましだ!君のように何も感じることのできない人間の方が哀れだよ!」

その言葉に俺は更に熱くなった。

ソウマの胸ぐらを掴み無理矢理立ち上がらせると、俺はもういちどソウマの顔めがけて・・・



ばしゃん!!!



俺はソウマの顔を見つめた。

ソウマも何が起こったのかわからないで、まばたきを繰り返すだけだった。

ただ俺たちはびしょ濡れになっていることだけはわかった。


「はい!そこまで!」


女の声が聞こえて俺とソウマは同時に声がした方を見つめた。

そこにはバケツを持った女が立っていた。

俺は何が起こったのか理解ができず、止まった時間を動かしたのはソウマが言い放った一言だった。

「ハル」

春?

俺はまだ理解ができず相変わらず固まっている。

女はにっと笑った。

「とりあえずふたりとも向こうで体拭いてきなよ。それから」

女は足元に置いていたスーパーの袋を持ち上げた。

「晩ご飯にしよ」


熱い茶をぶっかけられてそれから水までぶっかけられた俺はさすがにさっきまでの怒りは消えていたが・・・

「・・・」

無言でソウマは俺にタオルを差し出した。

相変わらず顔はこっちを見ていない。

ソウマの怒りはまだ収まっていないのだろう。

俺はタオルを受け取って顔を拭いた。

「あの女は?お前の女か?」

ソウマが吹き出した。

「僕の女?ハルが?」

そうか、春じゃなくてハルか。

あの女の名前なのか。

「違うのか?」

「違うに決まってるじゃないか。ハルは僕の妹だよ」

ソウマは顔をタオルで荒く拭くと洗濯機の中に投げ込んだ。

「センゴク君、今日はもう帰って」

俺が言葉を発する前にソウマは2階へと上がり、バタンと大きなドアが閉まる音がした。

その音を聞いて俺は思わず鼻で笑っていた。

「あいつ、普段はびくびくしてるくせにたまに噛み付いてくるな」

さっき俺を睨んできたソウマの顔はまだ俺の目に焼き付いている。

高校の頃よりかはちっとは男らしくなってるみたいだな。

俺はため息をついてタオルを洗濯機に放り込んだ。

漫画は別の奴に教わるか。

だが、玄関に向かおうとしたところで気がついた。

サカキの漫画をリビングに置き忘れたことに。

リビングに戻ると、さっきまでびしょ濡れになっていた床がきれいに掃除され、ソウマの

妹であるハルがキッチンで料理をしている。

包丁が野菜を切る音、鍋が沸騰する音、炊飯器で米が炊けていく音。

この音を聞いていると何だかずっと遠い昔を思い出す。

ずっと、ずっと昔。

俺がこの道を選ぶよりもずっと昔。

「大丈夫?」

俺は、はっと我に返った。

ハルがこちらを覗き込んでいる。

確かに言われてみてわかった、ソウマに顔が似ている。

ハルはにっと笑った。

「せっかくだから夕飯食べていってよ。センゴクさん」

「何で俺の名前」

「お兄ちゃんとあんな言い争いするのセンゴクさんしかいないだろうなって思ったので。あ、そういえばまだ挨拶してなかった」

「さっきソウマから聞いたよ。妹なんだろ?」

「はい。妹のハルです」

「俺のこと何でわかったんだ?」

「センゴクさんはこの家では有名人だから。お兄ちゃん、高校の頃にあなたのことで相当悩んでたからねえ」

俺はさすがに何も言えなくなった。

「サカキさんと仲良くなってからはちょっと変わったみたいだったけど」

「サカキに会ったことがあるのか?」

「よく遊びに来てたから」

その時、ピーと甲高い音が聞こえた。

「あ、ご飯も炊けたみたい。私、お兄ちゃん呼んでくるからセンゴクさんそこに座ってちょっと待ってて」

バタバタと2階へ駆け上がって行くハルの後ろ姿を見つめてから、俺はサカキの漫画が入った茶封筒に手を伸ばした。


“センゴクさんはこの家では有名人だから”


「・・・」


なんとなく伸ばした手を俺は途中で止めて、ダイニングテーブルに向かった。

誰の席かも知らないが椅子に座って、誰もいない前の席を見つめた。

ここでソウマは両親と妹に俺の話をしたのだろう。


“あの時、何もしていないのに、暴力を振るわれた僕たちの気持ちを君は少しでも考えたことがあった?”


なかった。

全くなかった。

ただただソウマたちオタク軍団は俺にとって目障りな存在で、ちょうどいいストレス発散の相手だったんだ。

そんな俺のことソウマはここで何と話したのだろうか。

「ちょっとほら我が儘言わないで」

そんなハルの声と一緒に階段を降りてくる足音が聞こえる。



○ソウマ

「いやいやいやだっておかしいだろ!」

階段の上で僕はものすごい小声になってハルに言い張った。

「僕たちはさっきまでそこで喧嘩してたんだよ?それなのにいきなりここで一緒に晩ご飯を食べるなんておかしいだろ」

「そう?」

「そうだよ」

ハルは小さく息を吐いてから僕をじっとまっすぐに見つめた。

「な、何だよ」

「お兄ちゃん。これはお兄ちゃんの過去とケリをつけるチャンスだよ。あのセンゴクさんと分かり合えることで。あの時のことを許せるかもしれないんだよ」

あの時・・・いや・・・いやいやいや

「そうかもしれないけど、でも今は」

「今しかないって!ほら行くよ!」

ハルに腕を引かれて僕はしぶしぶ階段を下りた。

ダイニングに入るとセンゴク君はもう椅子に座っていた。

なんでちゃっかり座るかなあ。この人は。

センゴク君は僕を見つめた、というかかなりドスのきいている睨みを向けてきたので、僕は思わず下を向いた。

僕・・・本当になんでこの人とあんな言い争いしたんだ!?

今日だけじゃない。

サカキ氏の通夜の時も。

「邪魔したな、俺帰るわ」

そう言って立ち上がったセンゴク君を僕はきっときらきらした目で見つめていたことだろう。

もう是非帰って頂きたい!そしてもう二度と現れないで欲しい!

「何言ってるの?ほら座って」

ハルはセンゴク君の肩を掴んで無理矢理席に座らせた。

お前こそ何言ってんの?って僕は本当に言いそうになった。

「ほら、お兄ちゃんも座って座って」

僕はとりあえず今にも出そうなため息を飲み込んで席に着いた。

ハルはテキパキとテーブルの上に料理を並べていく。

ホカホカと湯気のたつ白米にお味噌汁、野菜炒め。

ハルは席に着くと僕とセンゴク君の顔を交互に見つめた。

「さ、食べよ!いただきます!」

そう言って軽快にハルは手を合わせた。

僕とセンゴク君は無言で手を合わせて、それから目の前に置かれた箸を手に取った。

僕は野菜炒めを一口食べてセンゴク君は味噌汁を飲んだ。

「あ、うま」

その一言を聞いてハルは嬉しそうに笑った。

「でしょ?いい出汁使ってるのよ。今日がちょうど特売の日で。センゴクさんって料理とかするの?」

センゴク君は野菜炒めを口に運びながら首を振った。

「あんまり。普段はコンビニとかで適当に」

「ふうん。そうなんだ。サカキさんは結構自分で作ってたみたいだけど。だってヤクザの仕事って体力使うでしょ?そんなコンビニばっかりで大丈夫なの?」

僕は二人の会話を聞きながら何でこんなところでこんなどうでもいい話を聞かなければいけないのかわからなかったし、ていうか何かものすごく気まずくて今すぐに部屋に戻りたい!

そんなことで頭がいっぱいだったが、そんな僕の頭を真白にさせる言葉をハルは突然言い放った。

「で、センゴクさん。昔いじめてたうち兄に何か用でもあったの?」

僕は本当に白目をむくかと思った。

ハルはいつも突然、空気を裂く。

真っ二つに。

「ハ、 ハル。お前そんな言い方」

「漫画だ」

センゴク君はにこりともせずにただまっすぐに僕とハルを見つめた。

「漫画の読み方をソウマに教わりに来た」

しばらく僕たちの間で沈黙が流れた。

なんで・・・なんでこんな馬鹿正直に言うかなこの人は!?

やばい。ハルのことだからきっと馬鹿にするようなことを言うに違いない。


“え、センゴクさん漫画も読めないの?”とか


“絵本から読み直したらどう?”とか平気で言うに決まっている!!


僕は、ハルよりも早く何か言葉を発さなければならないと思いつつも何も思いつかなくてただそわそわしているだけになった。

「それは、センゴクさん」

僕は、はらはらしながらハルを見つめた。

だが、ハルが言い放った言葉は思いがけない言葉だった。

「人選めちゃくちゃいいじゃない!」

思わず僕とセンゴク君は同時に、え?と声を出していた。

「お兄ちゃんって本当に小さい頃から漫画が大好きでさ。ううん。漫画だけじゃない。映画も小説も詳しいし。お兄ちゃんに漫画の読み方教わるなんてすごくいいと思う!」

ハルは嬉しそうに笑った。

「じゃあお兄ちゃん後でセンゴクさんを部屋に入れてあげなよ」

「な、なんで僕の部屋なんかに」

「お兄ちゃんの部屋見たらセンゴクさんきっとびっくりするわよ。それに漫画の読み方を教えるならあの部屋がぴったりだから」

ハルがきらきらした目で僕を見つめてくる。

全く、ハルはいつもこうだ。

自分でいいと思ったら一直線に進んでいく。

兄の僕とは大違い。

「漫画に読み方とかないんだよ、ハル。絵だけでもなんとなく理解できるじゃないか」

「理解できねえから来てんだろうが」

ドスの効いた声に僕は思わずまた体がぶるっと震えた。

「は、はい。すみません」

僕の横でハルはくすくすと笑っている。



○センゴク

ドアを開けたらそこには本しかなかった。

本棚から溢れ出る本。本で埋め尽くされて開かなくなっている窓。

机の上にも椅子の上にも積み上げられた本、本、本。

こんなにも本だらけなのに、不潔感が全くない。

ホコリひとつ被っておらず綺麗に整頓されているのだ。

大事にしているんだ。

あのセロハンテープまみれの漫画と同じで。

「狭い部屋でごめん。適当に座って」

俺は天井にまで積み上げられた本を見上げながら床に座った。

まるでここは本の森だ。

こんなに囲まれて生活なんてできるのか?

積み上げられた本と本の間にベッドが見えたが、足は伸ばせなさそうなほど周りの本で圧迫されている

ソウマはただのアニメ好きのオタクだと俺は思っていたが、オタクも度が過ぎるとここまでいくのか。

俺と向かいあうようにして座ったソウマはさっきと違って顔を上げて俺をしっかりと見つめた。

「センゴク君」

ソウマは頭を下げた。

「さっきはごめんなさい。僕、すごく君に嫌な言い方をしたよね」

俺はそんなソウマに拍子抜けした。

さっきまであんなにも怒りを俺にぶつけてきたくせに。

まあ、でも

「俺も悪かった。今も昔も」

俺はそう言って頭をかいた

「俺、正直羨ましかったんだよ。お前が」

頭を上げたソウマの顔は、目が点になっていて全く理解できないという顔をしていた。

「僕が?なんで?僕なんてセンゴク君がさっき言ったようにオタクとしてぐだぐだ生きてて」

「だからそれは悪かったって。撤回するよ。お前言っただろ?サカキが死んでも俺が涙ひとつ見せなかったって」

「それこそ、本当にごめんなさい。そんなこと言うつもりなかったんだけど」

「その通りだから俺も熱くなっちまったんだよ。俺、お前みたいに泣けないんだよな。この世界に長くいるからなのかわかんねえけど」

俺はサカキの漫画が入った茶封筒を見つめた。

「でも、これを読んだら何か変わる気がすんだよ。だってこれは俺とサカキの物語なんだろ?」

ソウマは俺の目を見つめた後、目を伏せて頷いた。

「確かに、そう言ったね」

「でも、俺にはどうしてもわからねえんだよな」

俺は狭いこの部屋で、できる限り足を伸ばした。

「この漫画、意味分かんねえ言葉ばっかり出てきて、頭がついていかねえんだ」

ソウマは、うーんと唸った。

「センゴク君って何の漫画を読んだことあるの?」

「何も」

「何も?」

「何も読んだことねえよ」

「え」

俺は茶封筒からサカキの漫画を取り出した。

「まずこのマスがよくわからねえんだよ」

俺がそういってサカキの漫画をソウマに差し出した時、ソウマは口をぽかんと開けて俺をただ見つめるだけだった。

「何だよ、ソウマ」

「これはマスじゃない!コマって言うんだよ!!」

ソウマがあまりにも大きな声を出すから俺のほうが次にぽかんとした顔をしていた。

「駒?」

「いま違うコマを思い浮かべてるね。駒じゃなくてコマ!カタカナ2文字でコマ!!」

「あ?んだとコラ」

「あ、すみません」

俺はサカキの漫画を見つめた。

「じゃあこのコマ?がよくわからねえ」

「コマがわからないって」

「次にどこを読むのかがわからなくなってんだよ」

「そ、そこからか」

「あ?なんだ?」

「い、いえ。えっとコマは普通右から左に読む感じだよ」

「なるほどな。で、また下のマスじゃなくてコマにいったら右から読むのか。あ、でもここは縦になっててよくわかんねえぞ」

「ま、まあそういうところは適当に流して読むんだよ」

「適当に流す?まあ、いいや。でさ、あとこれこいつらが話してる言葉。これも誰が何言ってるかよくわからねえんだけど。このお化けみたいな枠に入ってるやつ」

「それは吹き出しね」

「そうそれ。吹き出し。たまにただの円だけになっている時とかさ誰の言葉がわかんなくなるだろ」

「うーん。まあそれはサカキ氏の書き方が悪いのもあるけど、キャラクターの個性がわかっていればなんとなくわかるところだよ」

「個性ねえ。てか、サカキの漫画に出てくる奴ら自体よく分からねんだけどよ。まずこいつ、主人公なのかよくわかんねえけどこいつ」

俺は頭がつんつん頭の男の絵を指さした。

「こいつがさ本当に何言ってるのか意味不明なんだよ。アステリア王国?だかなんだか知らねえけどそこの兵士?で、グルってのが悪い兵士っていうのはわかるんだけどそいつらのムラベルってなんのことだか。あと多分これ、主人公の女だよな?こいつのよくわからねえ言葉も理解できないんだよ。ほらここで言ってる“ベル・ゼ・ガイガー”って何だよこれ。英語なのか?それから」

「ちょ、ちょっとストップ!」

俺はそんなソウマの声に漫画から顔を上げた。



○ソウマ

なんだろう。なぜか僕は・・・・

サカキ氏が公開処刑されているように感じる!!!!!!

いくら漫画を読んだことがない漫画に関してはど素人のセンゴク君でもここまで理解ができいないことをあるがままに言われるなんて。

サカキ氏・・・君はなんでセンゴク君に漫画を読んでもらおうなんて思ったんだ!?

ていうか、むしろサカキ氏の目の前でセンゴク君がこんな風に問いたださなくてよかった。

きっといくらサカキ氏でもさすがに恥ずかしかったに違いない!!!!

「なんだ、どうした?ソウマ」

「い、いやなんでも」

それにしても、困った。

ここまでセンゴク君が漫画を読んだことがないとは。

そもそも、サカキ氏の漫画は正直に言うと・・・

中二病全開なんだ!!!!

ものすごくファンタジー要素満載で。

ていうか、イッコクノオウのパクリだろってツッコミたくなるところもたくさんあるし。

でも、それでも・・・

僕はセンゴク君を見つめた。

センゴク君は腕を組んで難しい顔をしながらサカキ氏の漫画を読んでいた。

僕は思わず笑ってしまった。

理解したいよね、そりゃ。

サカキ氏が最期に残したものなんだから。

「その漫画、そんな難しい顔をして読むものじゃないよ」

僕はセンゴク君からサカキ氏の漫画を取り上げた。

「お、おい」

それから漫画を茶封筒に入れながら言った。

「センゴク君、今から言うことをよく聞いてほしい」

僕は座り直してまっすぐにセンゴク君の目を見つめた。

そんな僕を見て察したのかセンゴク君も座り直した。

息を大きく吸って吐いた。

確かにこの漫画は中二病全開だ。

読んでいるこっちが恥ずかしくなるくらい。

でも、この漫画がセンゴク君にとって読むに値するものってことも確かなんだ。

「センゴク君。作品の力を本当に強く感じる時、それはいつなのかわからない。昔、読んで何も感じなかった作品が今読むと涙が出るほど熱い思いがこみ上げてくる時がある。君がサカキ氏の作品を心から強く感じる時、それは今じゃないのかもしれない」

センゴク君は黙って僕の目を見つめていた。

僕は続ける。

「それでもいつか必ずサカキ氏の作品の意義を君には感じてほしい。僕にはサカキ氏から君への思いをこの作品から感じたんだから」

「この漫画が?」

「うん、まあ信じられないかもしれないけど。とにかく、今読んでも君にはこの漫画の力を感じることができないかもしれない」

「だから、まだ読むなってことか」

僕は頷いた。

「いつか来ると思う。今ならわかるっていう時が」



「それって・・・体よく漫画の読み方教えるの断ってない?」

僕とハルは玄関先でセンゴク君の後ろ姿を見送っていた。

「お前、盗み聞きしてたのか?」

「だってお兄ちゃん、また喧嘩しちゃうかと思って心配だったのよ」

「悪かったよ。今日は」

「まさかあのセンゴクを目の前で見れるとはねえ。あの人今、ヤクザの世界でも結構上にいるんじゃなかった?サカキさんが確か言ってたじゃない」

「さあ。そんな話はしてないから」

僕たちはお互いに、“おう!どうしてたんだ?元気だったか?“なんて言う間柄じゃない。

むしろお互いに嫌い合っていて道で会ったとしてもきっと気づかない振りをするだろう。

ただ僕は今日初めてちゃんとセンゴク君と会話をした。

そう。

ただそれだけなのだ。

僕は夜空を見つめた。

少しだけ星が見えたような気がした。



○センゴク

正直に言おう。

ソウマの家を出てからすぐに“いつか”がいつなのかも俺はもう考えていなかった。

とりあえずサカキの漫画は俺のベッド脇にあるデスクに置いてある。

最初こそ寝る前や起きたときに目について意識はしていたものの、今やインテリアと同じ扱いだ。

最初からそこにあるもの、意識をすることもなくなっていたのだ。

だから俺はすっかりサカキの漫画のことを忘れて仕事に没頭していた。


「センゴクの兄貴、知っていますか?」

「あ?何が」

「リクの奴やらかしたらしいです」

俺は興味がなかった。

というよりもサカキの死以降、俺は仕事が増え弟分であるソテツの話を聞いているどころじゃなかったからだ。

だが、ソテツはにやにやした顔で俺に耳打ちをした。

「親父の金に手をつけたらしいです」

俺は思わず手を止めた。

「親父の金に?」

「へえ。なんかあいつやばいことに手を出していたみたいでそれを精算するのに大金が必要で遂に手を出しちまったらしいですよ」

俺は鼻で笑った。

「ヤクザがやることじゃあねえな」

「へえ。俺もそう思います。しかし、チャンスじゃねえですか?センゴクの兄貴」

「チャンス?」

「リクを可愛がっていたのはツバキの兄貴だ。ツバキの兄貴はきっと責任をとらされますよ。そうなればセンゴクの兄貴にとって」

「おい、ソテツ」

ソテツはびくっとして一瞬震えたかと思うと固まった。

そりゃそうだろう。

俺を切れさせたんだから。

「少し黙れ」

「へ、へえ。すみません」

ソテツは尻尾巻いて逃げるようにぴゅ~と事務所を出て行った。

俺は椅子の背もたれにもたれて息を吐いた。

ツバキも馬鹿な奴を気にかけたもんだな。

俺は携帯を開いてツバキに電話を掛けた。


「お前、どうやって落とし前つけるんだ?」

俺はふうっと白い煙をはるか下を歩く人々に吹き付けたつもりだったが、煙はそのまま真っ暗な空へと溶けていった。

「さあな」

ツバキは上を向いて夜空に向かって煙を吐いた。

屋上に吹く風はきっと下よりも強いのだろう。

まるで全て吹き飛ばしてくれそうな、そんな風だった。

ま、本当に吹き飛ばしてくれたらありがてえんだけどな。

「俺さリクのこと結構信用してたんたぜ?」

ツバキが呟くように静かにそう言った。

俺は横目でツバキを見つめた。

リクの姿を思い出す。

子犬みたいな人懐っこい性格だった。

ツバキのことを誰よりも慕っていて腰巾着みたいにずっと付いて回っていた姿が俺の記憶には残っている。

「あいつ、金持って姿くらますような奴に見えなかったんだけどな」

「センゴク、それはサカキに対して言ってるんじゃねえのか?」

俺は黙ってタバコに火をつけた。

「人が腹ん中で考えてることなんてわからねえもんだ」

ツバキはそう言って目を細めて夜空を見上げた。

俺は逆に街を歩く人々を見下ろした。

「サカキがした行動を俺は今だに理解できねえよ」

「それは俺も、いや、親父ですら驚いているはずだ。知ってるか?センゴク。サカキの通夜のあと、親父の奴酒をガブ飲みして俺の肩つかんでよ、号泣し始めたんだ」

俺は驚いてツバキを見つめた。

「まじか」

「ああ。俺は本当にあいつのこと信じていたんだってそう言って泣いてたよ」

「親父がそんなことを」

俺は思い出していた。

サカキの通夜での親父の姿を。


“逃げてきた俺を弱い奴だと思うか”


「サカキは俺たちと同じ道を歩いているもんだと思ってた。俺も思いっきり踏み外しちまったけどな」

ツバキはそう言って笑った。

「お前なあ、笑ってるどころじゃねえだろ」

「ま、俺なりに落とし前つけるよ。それにセンゴク、俺がいなくなりゃあお前にとっては得だろ?」

俺はツバキを睨みつけた。

「何が言いてえんだよ。ツバキ」

ツバキは、タバコをくわえたままにっと笑った。

「俺が犬死にしても無駄にはならねえんだなって思って」


“それが俺の役割だから”


俺は思わず目を見張った。

サカキの声が聞こえて、ツバキとダブって見えたからだ。


「お前、今サカキのこと思い出したろ?」

俺はその言葉に何も答えなかった。

というよりも答えることができなかった。

そんな俺を見て、ツバキは少し微笑んだように見えた。

「じゃあなセンゴク」

そして、そう言って俺の前から去っていった。

白い煙だけがそこに残して。


そのうっすらと消えていく煙を見つめながら俺は昔を思い出していた。

この組に入った頃。

ツバキと俺とそしてサカキは、そのときからの仲だった。

お互い下っ端の仕事ばかり回されて上からはこき使われて殴られてへとへとになって、愚痴を言っては盛り上がり辛いときもお互いに励ましあって支えあって生きてきた。

そう。

俺たちはそうやって生きてきたんだ。

まるで青春って言ってもいい・・・ていうか、俺たちにとってはあの時期が青春だったのかもしれない。

でも、いつからか変わってしまった。

この組で上へとのし上がるには、時として仲間を裏切らないといけないときもあるのだ。

あの頃には信じられないような行動を俺たちはとるようになっていた。

ある者は組を裏切ってある者はそんな友を見捨てた。

涙すらそのうち出なくなった。

そうして、俺は今ここにいる。

だから俺はきっとツバキを踏み台にして上を行く。

俺はもうあの頃の俺とは違うんだから。



「サカキの兄貴と同じみたいですよ」

その言葉に俺は思わずソテツを睨みつけていたのだろう。

ソテツは固まっていた。

「あ、あの・・・センゴクの兄貴」

だが俺は睨みつけていたわけではない、むしろ俺の方が固まっていたのだ。

親父のことだから指を詰めるぐらいでケジメをつけさせねえとは思っていたが、まさかサカキと同じことをさせるなんて。

「なんで」

「へ?」

俺はタバコを灰皿に押し付けた。

「どこの組だ?」

「秋月組だそうです」

俺がいきなり立ち上がったものだから、ソテツは更に固まって俺を見上げた。

「ど、どうしたんですか、センゴクの兄貴」

俺はソテツの言葉に何も答えず足早に事務所の出口へと向かっていた。

出口のドアノブに触れようとした時、ソテツは俺に向かって叫んだ。

「あ、兄貴、変なこと考えるのはやめてください!俺は兄貴にはもっと上に上がってほしいんだ!こんなところでつまずかないでください!!」

事務所の中は騒然としていたが俺はその言葉に何も答えず、ドアノブを回した。



ツバキに電話を何度も掛けたが、ツバキが電話に出ることはなかった。

こうなった以上俺となんて話すことはもうないのだ。

そんなことわかっている。

俺はツバキに電話を掛けたところで、本気で止めはしないだろう。

サカキの時と同じように。

俺たちは結局、仲間だといってもお互い腹の底では敵だと思っているんだ。

この組で生きていく以上それはしょうがない。

しょうがないんだよ。

俺は立ち止まった。

事務所を飛び出してからあてもなく歩いていたが、もうそれも止めた。


しょうがない?

本当に?

本当にこれでいいのか?



“俺が犬死にしても無駄にはならねえんだなって思ってよ”


お前、本当はどう思ってるんだ?ツバキ。


“それが俺の役割だから”


サカキだって本当はどう思ってたんだ?


“僕にはサカキ氏から君への思いをこの作品から感じたんだから”


あっと小さな声を俺はあげていた。

それから再び歩き・・・いや走り出した。




そいつはそこに立っていた。

あいつはどんなときでもいつもどおりだなんて俺は呑気に思った。


「ツバキ」


ツバキは俺に振り返って驚いていたようだがすぐに顔をほころばせた。

「馬鹿だろ、センゴク」

「馬鹿で結構」

俺はツバキの横に立ち、目の前のビルを見上げた。

「じゃ、ちゃちゃっと行くか」

「お前どうやってここが?」

「俺を舐めるなよ、ツバキ。俺はダチを蹴落としまでのし上がった男だぞ。こんな情報すぐにつかめるんだよ」

ツバキは力なく笑った。

「ああ、そうだな。でも、いけるか?俺たちだけで」

「あの頃、俺たちに敵う奴らなんていなかっただろ?」

ツバキは吹き出した。

思わずつられて俺も吹き出したものだから二人で腹を抑えて笑っていた。

敵の組のビルの目の前で。

「違いねえ。あの頃の俺たちは最強だった」

「だろ?」

俺たちはにやついた顔で目の前のビルを見上げた。


「行こう」




漫画を読むっていうことがどういうことなのか俺は知らなかった。

走って自分の部屋に飛び込んで、サカキの漫画を引っ張り出した。

こんな時に漫画を読んでいる場合かなんて思いがずっと俺の中にあったが、読み始めるとそれ以上の思いが俺の中をいっぱいにした。

なぜ、俺は今まで漫画を読めなかったのだろう。

いや、なぜ・・・



俺とツバキはビルの中へとのりこんだ。



あいつの漫画がスラスラと俺の頭の中に入り込んでくる。

次から次へと登場する奴らが勝手に喋りだす。

歩く音も、走る音も、騒音もこの漫画の中から聞こえてくる。

俺はいつのまにか夢中になってサカキの漫画を読んでいた。

とがった頭をして堅物でいつも威張っている主人公のディール。そんなディールを支える親友のレイ。意味のわかんねえ言葉を連呼するディールの女メグ。

こいつらが勝手に動く、喋る、声が聞こえる。



薄暗い階段を足早に上がっていく。



“俺はこんな一兵卒で終わる気はないんだ。レイ”

ディールの表情まで動いている。


“ディール。君は、いつも強気だね。でも、どうするんだい?あいつら“グル”は手ごわいよ”

レイは優しく微笑んでいる。


“ディール!レイ!こっちへ来て!白魔法を使うわ!ベル・ゼ・ガイガー!”

ディールの女の意味のわからん声まで聞こえる。


読んでいる・・・なんて感覚じゃない。

まるでその世界に入り込んで、俺自身がそこにいるような、そんな感覚。



俺たちは胸元から拳銃を取り出す。



俺はサカキの漫画の世界に入り込めば入り込むほど、この主人公であるディールが気に入らなかった。

大した実力もないくせにいつも威張り散らし、くだらないプライドを捨てることもできない。



扉を開けた俺たちは銃口を向けた。



けどそいつにひとつだけ同感できるのは

誰よりも登りつめたいというその野心。

そのために自分より格上で王国を乗っ取ろうと企む悪の兵士、グルたちをやっつけて国王に認められようと考える



中にいた連中が俺たちに振り向いた。



そのとき俺は気がついたんだ。

ディールは俺と同じだ。

俺はここまで堅物じゃあねえけど、でも野心はこいつと同じ。

くだらない俺のプライドも。

そしてそんなディールの唯一の親友のレイはこう言うんだ。


“君がどんな道を選ぼうと僕は君を見捨てない。逆に君に見捨てられたとしても僕は君を恨まない”


はっきりと聞こえたレイの言葉が俺の中に深く深く沈み込んでいった。



俺たちは引き金を引いた。



俺は銃をぶっぱなしながら、思った。

なぜ、俺は今まで漫画を読めなかったのだろう。

いや、なぜ俺は今まで漫画を読まなかったんだ?




事務所の奥から銃を持った男の姿が出てきたのを視界の端で捉えた。

俺はすかさず電気を消した。

真っ暗闇の中で俺は確かにサカキの声を聞いた。



“俺さあ、実は漫画書いてるんだ”



あのときと同じだ。

腹を刺された時と。

あの時もサカキの呑気な声が聞こえたんだ。

俺は、まだだめだ。

まだ死にたくない。


あの声を思い出す度、いつも俺は“生“にしがみつく。


だって俺はまだ


「俺はまだあいつのように俺だけの秘密なんて持っていない。本当の俺を知る人間が誰もいないまま死ぬなんて嫌だ。それに漫画だってもっと・・・もっと読みてえからな」


俺は暗闇の中へ飛び込んだ。




正直、俺はお前の漫画全部理解できたわけじゃねえんだ。

やっぱりところどころ何言ってるかわからねえし。

ディールの女は変な言葉ばっか連呼してるし。

でもな、サカキ。

俺、勝手な解釈かもしれねえけどお前は俺のこと恨んでなんかいないんだな。

こんな俺のこと許してくれるんだな。

俺はお前に許されたい。

だから都合のいいように言葉を捉えているのかもしれない。

でも、それでも俺は信じたい。

ここで感じたこの言葉はきっとお前が思っていたことなんだと。

俺、お前の漫画読んで気がついたんだ。

俺はどうしようもないことをしてしまったって。

大切な親友を失ったことにやっと気がついたんだ。

漫画を読んで気が付くなんて本当俺って馬鹿だよな。

だから、だからこそ俺今こうしてこんなことしてるんだぜ?

もう二度と同じことを繰り返さないために。

なあ、サカキ。

ありがとう。

そんで、ごめん。ごめんな。

もしいつかまたお前に会えたら、言ってやるよ。



お前の漫画面白かったよ。



○ソウマ

駅に着いて僕は大きく伸びをした。

「あ~今日もよく働いた。やっと休みだよ」

そして僕は持っていた紙袋を見てにやついた。

「クイックスタートの新刊を家で読む楽しみもあるし。ハルも続きが気になっていたから喜ぶだろうな」

僕は上機嫌で家への帰り道を歩いていたが家の前まで来て固まってしまった。

思わず、え?と声を上げていた。

家の前にセンゴク君が片膝を立て、その上に肘を置いて座っていたからだ。

どこからどう見てもヤクザが取立てで家の前に座り込みをしているようにしか見えないその光景にいつもどおり僕は身震いをするだろうと自分でも思っていたが、

「ど、どうしたの!?その怪我!?」

彼はいたるところを怪我した様で包帯やら絆創膏まみれになっていた。

「よう」

にやっと笑ってセンゴク君はふらつきながら立ち上がった。

「お前に言いたいことがあってな」

僕はそこで気がついた。

「センゴク君」

僕は立ち止まってセンゴク君を見つめ、センゴク君もその場で突っ立っていた。

「君は読んだんだね。サカキ氏の漫画を」

センゴク君が怪我をしていたことに驚いて僕は震えなかったんじゃない。

センゴク君の表情がこの前とは全然違うからだ。

「ああ。読んだ。ま、だからこんななりなんだけどよ」

「センゴク君。サカキ氏は」

「俺が殺した」

僕はセンゴク君が何を言っているかわからず、ゆっくりとセンゴク君を見つめることしかできなかった。

「お前はサカキが死んだ理由を知っているか?」

僕は息を呑んでそれから首を振った。

おばさん、サカキ氏のお母さんですらそれは知らないと言っていた。

葬儀場で静かに涙を流すおばさんを僕は何も言えずに見ているだけだった。

だから僕はサカキ氏は組同士の抗争にでも巻き込まれたのだと思っていた。

「サカキはな、組に対して裏切り行為を働いたんだ」

まさか。まさかそんな!?

「サ、サカキ氏が?なんで・・・」

「俺にもわからねえ。とにかくあいつは組を裏切った。でも、逃げはしなかったんだ。責任を取るからもういちど組に戻してほしいって組長に土下座した。普通戻ってくるかって話だよな。戻ってきたら裏切り者なんて殺されちまう。だからあいつは」



ドンっと低い音が聞こえて俺は、そりゃそうだと思った。

土下座したサカキの目の前に拳銃が投げ出された。

「これで篠原組の組長を殺してこい。うまくできたら組に戻してやるよ。だからさっさといけ」

サカキは拳銃を拾った。

「親父」

ガンっと鈍い音が聞こえた。

親父が机にあった灰皿をサカキに投げつけたのだ。

サカキの頭から真っ赤な血が流れた。

「出てけ」

サカキはふらふらと立ち上がると部屋を出た。

思わず俺はサカキの後を追っていた。

背後から兄貴の声が聞こえたが、俺は立ち止まることはなかった。

「サカキ」

拳銃片手に事務所を出ようとするサカキを俺は呼び止めた。

「お前本当に」

「これが」

サカキは俺に振り向いた。

俺は思わずその姿に目を見開いていた。

だってあいつは


「これが俺の役割だから」


あいつは笑っていたんだ。


「行くな」

その言葉が俺の喉から出ることができなかった。

なんで?

サカキは俺のダチで親友で・・・なのに、なんで?

「行くな」

その言葉は出てこない。

ずっと喉に引っかかっている。

のろのろと出口へと向かっていくサカキの後ろ姿を俺は見つめるだけで一歩も動くことはなかった。

ただ扉が閉まる音を聞いて俺はなぜか少し・・・安心した。


「ひとりで・・・カチコミを」

僕はセンゴク君からサカキ氏の話を聞いて思わず呟いていた。

センゴク君は片眉を上げてにやついた。

「へえ、ソウマ。お前でもそんな言葉知ってるのか」

僕は黙ってセンゴク君を見つめた。

センゴク君は顔から笑みを消すとじっと僕を見つめ返した。

「どうして」

僕はぎゅっと手に拳を作って握り締めた。

「どうして、僕にそんな話をしようと思ったの?」

「お前に知ってほしいと思ったんだ」

「何を?」

「俺の本性を」

僕は言葉が出なくなった。

なぜだかセンゴク君もわかっているはずだ。

だって僕は、サカキ氏の漫画を読んだ人間なんだから。

「お前はサカキの漫画を読んでわかっただろ?あいつが命をかけて敵の組にひとりで乗り込んだ時、俺は止めもしなかった。なのに、あいつは俺のことを」

僕はそれこそ息が止まるかと思った。

目の前の光景が信じられなかった僕は目を見開いた。

センゴク君の瞳から涙が溢れ出していたからだ。

「俺は安心したんだ。あいつがひとりで事務所を出て行って。いくらダチでも俺の足を引っ張られなくて済んだって。俺は本当にそう思ったんだ。あいつの自業自得だって。あいつが自分で巻いた種だって。なんで、なんでそんなこと・・・俺は、俺はあいつの親友だったのに」


“君がどんな道を選ぼうと僕は君を見捨てない。逆に君に見捨てられたとしても僕は君を恨まない”


僕の頭の中でレイの言葉が聞こえた。

涙をぽろぽろと零すセンゴク君の頭の中ではきっとこのレイの言葉が残っているんだ。

そんなセンゴク君に僕は問いかけた。

「僕が君の本性を知ってそれで君はどうなるの?」

センゴク君の瞳が僕を捉える。

「知ってくれているだけでいい。誰かひとりでもこの世に俺の本性を秘密を知ってくれている人間がいるだけで俺はそれで存在できる」

僕はその言葉に思わず目を見張った。

あの時の僕も同じことを感じたからだ。

サカキ氏に僕の秘密を話して受け入れてもらった時。

自分の存在を生まれて初めて認めてもらえたような、そんな感覚を僕は感じたんだ。

だからわかるんだ。

センゴク君の気持ちが、痛いほどに。

でも

「それが」

僕は呆れた顔でセンゴク君を見つめた。

「いじめていた相手でも?」

「ああ」

即答だった。

でも僕はどこかで納得はしていた。

だからこそ、か。

自分しか知らない自分、秘密。

それを打ち明けた時、自分の存在は確かにそこに存在したと証明できるのかもしれない。

僕もそうだし、サカキ氏もセンゴク君も。

「ソウマ」

僕は顔を上げた。

「悪かったな。それだけだ。俺が一方的に意味のわかねえんこと言っただけだったんだけどな」

センゴク君は僕に背を向けるとふらふらと歩き出した。

僕はそこでセンゴク君に肝心なことを聞き忘れていたことを思い出した。

「センゴク君」

センゴク君は振り向いた。

「サカキ氏の漫画は面白かった?」

その言葉にセンゴク君は拍子抜けしたような顔をしていたがすぐに、にやっと笑った。

「ああ。面白かった。お前の言うとおりだったよ。読むべき時ってのがあったんだな。それがいつなのかわかったんだ」

僕も思わず、にやっと笑っていた。

「本当にそういう時があるんだ。だから、もっと読みなよ」

センゴク君は不思議そうな顔をしてこちらに向き直った。

「何をだ?」

「決まってるじゃないか。漫画だよ」

センゴク君は吹き出して笑った。

「俺さ、死ぬ直前にそれ考えたんだよ。なんでもっと漫画読まなかったんだろって。呑気だよな」

「読みにきなよ」

僕は持っていた紙袋を持ち上げた。

「今日だってまた新しい漫画を買ったんだ。だから」

「行くよ」

僕はセンゴク君を見つめた。

「いつ死ぬかなんてわかんねえからな」

僕はそんなセンゴク君の言葉で動き出していた。

センゴク君に肩を貸すために。

一歩僕が踏み出したその時暖かい風が吹いた。

その時僕は思い出した。

この前読んだ本の一節を。


“この世界は過去の自分にとって、きっとパラレルワールドに違いない”


そう今の僕も同じ様な気分だった。

まるでパラレルワールドの世界に迷い込んだ様な気分だと。

自分の人生と決して交わることのなかった憎い敵と言ってもいいセンゴク君とまさかこんな日がくるなんて。


このパラレルワールドの分岐点はどこだろう。


僕が今一歩踏み出したこの時?


僕がセンゴク君に本音をぶつけた時?


僕がサカキ氏の通夜でセンゴク君と再会した時?


いや、分岐点はきっとあの日。

サカキ氏がばらばらになった僕の漫画に手を差し伸べたあの日。



あの日から僕たちはずっとパラレルワールドの中にいる。











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僕たちはパラレルワールドの中にいる 十八谷 瑠南 @Lumina18

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