泥暗

底道つかさ

第1話

 暗闇に囲まれた部屋の中に一つの明かりが点っている.古ぼけて明滅しているライトが置いてある座卓には一人の男が座っていた.

 男の顔色は血が抜けた様に暗く嗄れて,痣の如き隈を持っていた.その姿は闇の中に男と卓があるというより,部屋一杯に詰め込んだ闇から光が男と卓を削り浮かんばせている様に見える.

 男が時折耳にする笑い声は,隣部屋から差し込まれる家族の物だ.声を聞くたびその主達への疎ましさが益々募っていく.

 卓上には茶けた原稿用紙とペン先が傷んだ万年筆,そしてカレンダーがある.

 男は小説家だった.無精ひげを擦ったりやボサボサの頭を回したりしながら,時折万年筆を握っては,何度か原稿用紙を突いたあと放り投げていた.その度,左手側に置かれたカレンダーへちらりと視線を移し直ぐ逸らす.しかし,一時と間を置かず再び男の目玉はカレンダーへと向けられる.

 カレンダーの表記は6月.視線が日付を示すマスの一番左上から順に日にちを手繰っていき,25日目のところまで来た時書き込まれた赤い二重丸を見た.

 男の顔が歪んだ.眉間がつまり,ゴミが入ったように瞼を撓める.噛み締めた歯が緊縮した下唇から覗き,顳かみや額,軋む歯から痛みがずぶずぶと脳に入ってくる.

 6月25日.それが男にとっては命の分かれ目であった.売り上げにならなければ最後となる作品の締め切りという,ただそれだけのことは,今や一人の人間に無間の苦しみをもたらし肉体と精神を磨り潰す様に作用していた.

 腹から蛙を踏み潰したような音が染み出し,腸を絞られるような不快感が湧き出した.最後に食事をとったのは一週間前だ.水で胃を膨れさせて誤魔化す事が限界であることを,経験で知っている.だがこの不愉快を払拭するための物を買う僅かな硬貨すら棚の隙間にも無いと既に確かめていた.

 不意に最後の食事を思い出す.数日前に,久し振りの外出をした男は職務質問を受け,その時たまたま手配されていた容疑者に風体が似ているという理由で留置所へ閉じ込められた.警察が無駄な勘違いに気づくまで一週間余り拘留された.

 しかし嫌な記憶では無いのだ.そこで出された配給食は男がその一年の間に口にしたどんな食べ物よりも美味に感じたからだ.腹が満たされるほどの量を食したこともたいそう久しかった.留置所の寝床は固く冷たかったが,満腹でぐっすりと眠れた.謝罪もなく警察署から追い払わてもしばらくは上機嫌でいられたほどだ.

 記憶の中から戻った男は,現実の不愉快に対処するべく台所へ這いずり行った.水を飲むつもりだ.シンクの淵に手をかけて膝立ちになり蛇口に口をつけて栓を捻る.鉄臭い水が口に入ってきて歯を冷やした.だが水流はそこで途絶えた.水道が止められていたのだ.管に残っていた水が最後に出ただけだったのだ.

 再び隣部屋からの声が聞こえた後,男はシンクの下の戸口を開き中から薄く長い箱を取り出した.蓋を開けた下にあったものは,一本の包丁であった.売れるものはことごとく金に変えたこの部屋で,まだ唯一価値が有るものであろう.これだけ売り払わず残していた意図はまさしく今の様な有様に陥ったとき,それ以上苦しみを続けないようにと考えてのことだ.

 しかし男は当初の意図とは違う方法にこれ用いようと考えている.例えば,これで何者かの命を奪えば,自分は刑務所へ送られる.もはや死ぬまで自由のない人生となるだろう.しかしである.刑務所では罪人に罰を受け続けさせるべくその命を保つための食事が出される.先日留置所で食した,あの美味と満足感を毎日味わえるのだ.

 隣の部屋から親子の笑い声が聞こえる.男はゆっくり立ち上がって目の前にあるガラス窓を目にした.事切れる既の虫の様に鳴る卓上ライトの明滅がにわかに速まる.それ合わせて逆光で黒く映る男の顔が現れては消える.ライトが最後の一息で室内を照らした時,歪に口の端が釣り上がった見た事がない悍ましい顔が映った.

 それから長い時間がたった.あの闇を詰め込んだような部屋には今,警察の鑑識と刑事が現場検証を行っていた.時刻は昼で光は隙間から風とともに部屋に流れ込んで内部の様子を浮かび上がらせている.

 そしてそこには,床に腹ばいになり台所の方向へ這いずるような仕草のまま枯れ果てたミイラの死体があった.ミイラは,小説家の男の成れの果てだった.

 刑事の視線がミイラを見て,その伸びて固まっている右手の先にある台所のその下にある戸棚へと向い,それを手で開けた.

 中にあったのは薄い長方形の箱であった.さらに蓋を開けて中身を確かめる.包丁であった.だがそれはサビに覆い尽くされひどく腐食しており,おおよそ何かを刺したり切ったりできる物ではないと一見して分かった.

 訝しげに包丁を睨む刑事のもとへ,部下からの簡易な報告が来た.男が死んだであろう時点よりも更に何年もの前から,このアパートに住んでいたのはミイラになった男だけで,他の部屋には誰ひとりとして入居者はいなかったらしい.

 電気代が支払われいないはずの隣部屋のテレビが付いていたのは不法な引き込み線からの電気の供給によるものであり,埃が敷詰まった床や同じくあったリモコンの状態等からして相当な長期間人の出入りは無いらしい.テレビは最後立ち入った者が付けっ放しにしたのだろうとのことだった.

 刑事の頭に度が合わない眼鏡で見る景色の様な推測が浮かんでくる.ミイラになった作家は死の間際,限界まで追い詰められていたはずだ.そんな状態の人間が自棄になって凶行に及ぶ事態は散々思い知っている.

 しかし,男が持っていた凶器足りうるものは錆つき,用を果たさない.仮に何者かを害そうとしたところで最早ろくに動かぬ体では不可能だと自身が一番理解していたはずだ.もう身近には誰も居ないと知っていたのだから.刑事は男が最後の足掻きで誰かを道連れにしようとした推測を頭から除いた.

 そして思考から現実に意識を向け直し再びミイラへ,その枯れて萎んだ眼窩へ視線を向けた.何程観察し想像を重ねようと,ミイラの眼窩には変化のあるはずがない乾いた闇があるだけで何かを読み取る事はできなかった.

 刑事はこのミイラの死因を餓死と自身の頭に置いた.事件性が見られない以上,例え他に可能性があってもそれを考えることは自分の仕事でも無い.実際,この件はほぼ刑事の考えた通りの処理で終了された.

 結局,ミイラになった男がその死の間際,死んだ体で脳だけが醜悪な妄想を巡らせた無残,滑稽,無意味は誰にも知られる由は無い.男の苦悩と苦痛は世の何処にも残らず,乾いた死に様だけが記録され二度と世間には浮かんで来ないのだった.

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泥暗 底道つかさ @jack1415

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