四章 3—1
3
リヒトはユキのとなりに来て、顔をのぞきこんできた。
「ユキさん。どうかした? 顔色悪いね」
ここで動揺したらダメだ。なんとか、ごまかさないと。
そして、スキを見て、懐剣で——
ユキは深呼吸した。
「ちょっと疲れただけ。今日は、いろいろあったから」
「そう。おれの用はすんだよ。そっちは?」
「こっちも、すんだ。アユムの車で待っててくれる?」
だが、リヒトは立ち去らない。
「ロッカーに何か預けてるの? それって、矢沼くんが受けとりにいったもの?」
するどい言葉をなげてくる。
やっぱり、リヒトの目的は、この懐剣だ。リヒトが犬神なのだ。
(どうしよう。この場をしのぐには。いちかばちか、いっしょに開けてみるってのは? なかを確かめるふりして、すばやく懐剣をとりだす。そのまま、心臓を……)
ためらってるヒマはない。良心はとがめるが。でも、リンカのむごたらしい遺体を思いだして、ユキは心をふるいたたせた。
「……じつは、そうなの。さっき、矢沼くんからメールがきて。ここに入れたっていうの。いいかげんよね」
「じゃあ、すぐに渡してくれないか?」
「そうね」
ユキは先に立って歩いた。ヒザがガクガクふるえる。なるべく、平静をよそおった。
ユキはA79の前に立った。
カギをさしこむ。手がふるえて、一度では入らない。リヒトに変に思われなかっただろうか。
ロッカーのなかには、風呂敷に包まれた細長い箱状のものが入っていた。ちょうど懐剣の入る大きさだ。
「あけてみるね」
箱をロッカーに入れたままで、風呂敷をはずす。自分の体で手元をかくすようにして、ユキはフタをあけた。
まちがいなかった。懐剣だ。
どこか禍々しいような迫力がある。
懐剣を箱から出し、さやをぬく。
(ふりむきざまに一撃。そう。それで終わる。相手は人間じゃないんだから。犬神なんだから)
ユキは思いきって懐剣をにぎりしめ、ふりかえった。リヒトの胸にとびこむ。さけようのない近距離。
しかし——
「ユキさん。そんなふるえた手じゃ、人は殺せないよ」
ユキの手は途中で止められていた。リヒトの手が、ガッチリつかんでいる。
「おだやかじゃないな。急に刃物をふりまわすなんて」
リヒトは片手でユキの手をつかみ、片手で軽々、懐剣をもぎとる。
「わたしも殺すの? やっぱり、あなたが犬神なのね?」
すると、リヒトは、ため息をついた。
「態度がおかしいから、そんなことだろうとは思ったけど。なんで、おれのこと、そんなふうに?」
「戸神くんが言ってた。犬神はリヒトくんだって」
「やっぱり。ほんとは、もっと詳しいこと聞いてたんだな。呪いの正体は犬神か」
「あなたが、そうでしょ?」
「違う」
「じゃあ、あなたが撮った、あの写真は? 高山さんや玉館くんの死体。あなたが犬神だから、撮れたんでしょ?」
リヒトは困惑顔になった。
「見たのか。まいったな」
「ほらね。説明できない」
リヒトは数瞬、だまりこむ。そして、また、ため息をつく。
「わかった。ほんとのこと話す。もとはといえば、そっちが勝手に——」
そのときだ。構内が急にさわがしくなる。駅員が何人も、同じ方向に走っていく。
「なんなの?」
「行ってみよう」
リヒトは懐剣をもとどおり箱におさめる。すばやく、おおざっぱに風呂敷をむすぶ。
「ユキさんが持ってていいよ。とにかく、ちゃんと話してからだ」
あれ? この人、わたしのこと殺すつもりじゃないの?
とまどうあいだにも、リヒトは走りだしていた。あわてて、ユキも追う。
夜遅いから、構内に人影は少ない。駅員が走っていくのは、さらに、ひとけのないバスターミナルに向かう通路だ。
薄暗い通路のなかほどに、立ちつくす人がいる。白い杖を持つ、目の不自由な人だ。集まった駅員たちも、そこで立ちつくしていた。
温和なはずの盲導犬が、人を襲っている。ラブラドルレトリバーの首輪を両手でつかみ、必死で噛みつかれまいとしてるのは、アユムだ。
ふつうの状態で、盲導犬が人を襲うはずがない。犬神にあやつられてるのだ。
「アユム!」
「来るな! 逃げろッ」
ユキは、どうしていいのかわからない。
うろたえていると、リヒトがかけだした。犬の首輪をつかんで投げとばし、押さえつける。そのまま、犬の首に腕をまわした。
しばらくすると、ラブラドルレトリバーは動かなくなった。
「殺したの……?」
「いや。絞め落とした。今のうちにオリにでも入れといたほうがいい」
犬を離し、リヒトはアユムに近づく。
「ケガしてるな。どこをやられた?」
アユムは答えられない。うめき声をあげるばかり。肩口あたりから、大量に出血してる。
リヒトがアユムのシャツをめくる。右肩のほか、数カ所に傷があった。
リヒトはアユムのシャツの袖をちぎり、止血を始める。びっくりするくらい手慣れてる。というより、動じない性格なのか。
「心配いらない。それほど深くない。命には別状ないだろう。まあ、病院には行かないとな。肩は縫わないと。狂犬病の恐れもあるし。救急車、呼ぼうか」
ようやく、アユムが、つぶやく。
「そんなヒマ……ないだろ。おれは平気だ」
ユキが見てもわかる。平気なはずがないことくらい。
「アユム。あなたは救急車で病院に行って。かわりに車、貸してよ」
「なに言ってんだ。ペーパードライバーのくせに」
すると、リヒトが言った。
「運転なら、おれがするよ」
アユムは、なおも渋る。
が、そこへ、救急隊員がやってきた。駅員が呼んだのだ。
「お願い。早く、カギだして」
しぶしぶ、アユムは車のキーを渡してくる。
「気をつけろよ。ユキ」
「わかってる。アユムもね」
アユムは救急隊員に運ばれていった。
「おれたちも急ごう」
リヒトの言うとおりだ。警察が来る前に行かないと、足止めされると困る。のんびり事情聴取を受けてるヒマはない。
速足でリヒトが歩きだす。ユキも追った。駅員が呼びとめていたが、無視して逃げだす。
「車。どこにある?」
「こっち」
駐車場に停めたアユムの車に、二人で乗りこむ。
「運転できるのね?」
「運転免許、見る?」
「見せて」
リヒトはポケットから、カードケースをとりだす。目の前にさしだされた運転免許を見て、ユキは
「なに、これ? 偽造?」
「本物だよ」
「そんな……だって……」
そんなはずない。写真はたしかにリヒトだ。でも、これは、リヒトじゃない……。
「東堂……たけし?」
「タケルだよ」
免許証の名前は、東堂猛と書かれていた。
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