三章 3—3

 *


 S市の駅前のファミレスで、矢沼は桝前田と落ちあった。

 桝前田は近くの大学で講師をしている。昼に会ったときは、そのあと講義があるというので、いったん別れた。


「お待たせ。ついでに夕食、食っていこう。じつは今、家内が持病で入院中でね。この年で自炊はキツイよ」


 と、そう言う桝前田は、戦国武将みたいな名前とは正反対の、ヒョロリと貧弱なおじさんだ。夜間に歓楽街を歩いていれば、まちがいなく少年たちからカツアゲされるタイプ。


 矢沼も同じタイプなので、ひとめで、たがいにシンパシーを感じた。


「そうなんすか。娘さんとか、いないんですか?」

「娘はいない。息子は東京で働いててね」


「じゃあ、家に一人なんすね」

「ペットがいるよ。家内の可愛がってる毛の長いチワワが。私に、なつかなくてね。やんなるよ」

「僕、動物、大得意ですよ。犬も猫も、すぐなついてくれる」


「じゃあ、今日、ジャッキーのシャンプーしてくれんかなあ。もう十日も、ほっときっぱなしで。なにしろ、牙むいて、うなるんだ」

「いいすよ。任せてください」


「なんなら泊まってくれたらいい。息子の部屋があいてるから。蜂巣の預かり物、探すのに時間がかかるだろうし」

「助かります! 感謝」


 そんなことを話しながら、冷やし中華を完食。


 桝前田の自宅は、ユキの実家のあるA町の、となり町。かなり山手だ。なかなかのモダン住宅だが、奥さん不在で庭の花には元気がない。


「おジャマしまーす。へえ。マスさん、キレイにしてるんすね。ジャッキーちゃんは、どこかなあ?」


 ロングコートチワワの姿は見あたらない。


「そのへんに隠れてるんだろ。腹が減ってるはずだから、そのうち出てくるよ。私は蜂巣に預かったものを持ってくるから。ちょっと待っててくれ」


 桝前田が二階に上がっていく。

 そのあいだ、矢沼は一階をうろうろして、ジャッキーを探した。犬のオモチャやケージはあるが、肝心の犬がいない。


「ジャッキー。ジャッキー? どこにいるのかな?」


 けっきょく、室内にはいなかった。


「ジャッキーのやつ、見つからんのかね? おかしいな。こっちは、ちゃんと見つかったよ。これが蜂巣から預かってたものだ」


 風呂敷包みを渡される。


「あ、どうも。じゃあ、坂上さんに渡しときますね」


「本来なら私が渡すべきなんだがね。なにぶん、坂上さんとは二十年も音信不通でね。蜂巣の葬式が最後かな。リヒトくんは、まだ小さかったが、元気にしてたかな?」


「元気。元気。今、すっごいデカイです。でも、ちょっと怪しいんすよね。ユキさんは気づいてなかったみたいだけど。最初に会ったとき、話がかみあってなかった。ああっ、いくらイケメンだからって、ユキさんが男の顔に、まどわされる女だったとは! 僕が守ってあげなくちゃ。あの人、しっかりしてるようで、どっか抜けてるから」


 リヒトの着てた、ウッカリしっかりTシャツは、ユキにこそ、ふさわしいと、矢沼は思う。

 ユキのほうは、バカにしてる後輩に、こんなふうに思われてるとは、夢にも思うまい。バレたら激怒しそうだ。


 桝前田が笑う。が、玄関ドアを見て、急に青ざめた。


「しまった!」

「どうしたんすか?」

「これだ。これ」


 桝前田が示したのは、玄関の猫用入口。


「ガムテープがやぶれてる。ここから出ていったんだ。ジャッキー」

「なんで、こんなのあるんすか?」

「ちょっと前まで猫もいたんだよ。とつぜん、いなくなって。しょうがないから、ジャッキーが逃げださないよう、ガムテープでふさいでたんだが」


「それって外に行っちゃったってことじゃないすか。どうするんすか? 奥さんに叱られません?」

「怒るだろうな。それも、すごく。まあ、門や柵を越えられるわけない。庭にいるよ。きっと。ちょっと探してくる」


「手伝いましょうか?」

「いや、大丈夫。エサで誘えば出てくるはず。君、さきに風呂使っていいよ」

「あざーす」


 遠慮なく、風呂場に直行する。荷物を脱衣所に置き、浴室に入った。


 シャワーを使いだすと、周囲の音が聞こえない。


 すりガラスの窓の外は裏庭のようだ。外灯に照らされて、ジャッキーをさがす桝前田の影が、何度もよぎっていく。


 シャンプーしながら、なにげなく、それを見ていた。


 ふと、矢沼は妙な感じをおぼえた。

 さっき窓の外をよぎった影、白っぽい服を着てたような。

 いや、白は桝前田も白いシャツだ。でも、さっき見た影は、もっと全体が白くて、長袖……もしくは、着物だったような?


 そう思っていると、また影がよぎった。


 ゆっくり、ゆっくり。

 異常なのろさで、すりガラスの向こうを歩いていく。


 わけもなく、矢沼は、ふるえがついた。

 あわてて脱衣所に逃げこむ。

 待ちかまえたように、脱衣所のガラスドアの前に人が立っていた。

 矢沼は尻もちついて、しゃがみこんだ。


 すると——


「ジャッキーのやつ、どこにもおらんよ。こまったもんだ。女房に百叩きにされる」


 桝前田だ。

 ほっとすると同時に、ゾッとした。

 じゃあ、たったいま、窓の外を歩いてたのは、誰だろう?


「マスさん——」


 ふるえながら、ガラスドアに手をかけようとした。が、矢沼の手はそこで止まる。


 ガラスドアの向こうで、桝前田が、わあッと叫んだ。


「な、なんで……おまえは、死んだはずじゃ……」


 つぶやきにかさなり、獣のうなり声が聞こえた。


 桝前田が廊下にすわりこむ。

 その足を何者かがつかんだ。

 桝前田の姿は、一瞬で矢沼の視界から消えた。何かに引きずられ、廊下の上をすべっていった。


 そして、絶叫が数分、続く。


 矢沼は動けなかった。

 そのまま、失神した。

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