二章 3—1

 3



 その目は、まっすぐ、ユキを見ていた。

 数瞬のあいだ、見つめあっていた。

 アイツだ。

 夢のなかで見た、獣の目。


 ユキは悲鳴をあげた。なんとか逃げだそうとする。が、呪縛されたように体が動かない。

 アイツは、そんなユキを見て、笑った。


「どうしたんですか? ユキさん」


 矢沼がたずねてくる。

 ユキは天井を指さすのが精一杯だ。

 ユキの悲鳴を聞いて、リヒトが帰ってきた。


「何かあったのか?」


 ユキは、また天井を示す。

 しかし、リヒトが来てくれて、気がゆるんだ。一瞬、気が遠くなる。次に天井板のすきまをふりかえったときには、あの目は消えていた。


 リヒトが押し入れに入り、天井板をはずす。そこから頭をつっこんで、屋根裏を見まわした。


「べつに変わったことはないな」

「でも、今、そこに誰かいたのよ。誰かの目が、こっちを見てた」


 リヒトは充分、屋根裏をながめたのち、首をひっこめる。

「誰もいないよ。見間違いじゃないかな?」


 見間違いなんかじゃなかった。でも、そう言われれば、反論もできない。


「もう出よう」と、リヒトが言ってくれたので、ほっとする。


 リヒトは玄関のカギを中から閉めた。


「なにしてるの?」

「ここの戸、古いやつで、中からしかカギかけられないんだ」


 金具をねじこむ式だから、それはまあ、しかたない。

 それにしても、リヒトが出口に指定したのは、風呂場の小さな窓だ。位置が高い。浴槽をふみだいに、リヒトに支えてもらって外に出る。

 矢沼も女の子みたいにキャアキャア言いながら、リヒトにひっぱりだしてもらった。


「よく考えたら、君らは玄関から出しとけばよかったんだよな。おれだけ、ここから出て」

「なんか、泥棒みたい」

「悪い。悪い」

「さっき、外、誰かいたの?」

「無人だった。ただ、あるものが残ってたけどね」

「あるもの?」


 家屋のよこを通り、玄関前へ行く。

 そこでリヒトは、あるものを示した。

 巨大な獣の足跡が、くっきり残っている。熊だろうか。とにかく大きい。

 この家に来たときには気づかなかった。こんなに大きな足跡があれば、いくらなんでも気づいたはずだ。


「さっき、なんで気づかなかったんだろう」

「なかったよ。まわりに人の足跡がないか調べてから入った」 と、リヒト。

「じゃあ、さっきの物音ね。何か、外にいたんだ」


 矢沼が顔をひきつらせる。

「きっと、村人が土佐犬の散歩させてたんですよ」

「土佐犬にしてもデカすぎる気がするけどね」


 言いながら、リヒトは家屋をふりあおいだ。つられて、ユキも見あげる。


「あんなところに窓がある」


 窓というより通風孔だ。屋根裏の位置にある。暗くて、なかのようすは見えない。

 でも、そういえば、あの窓から飛びおりれば、ちょうど足跡のあたりが真下になる……。


 いや、そんなはずはない。

 あれほど大きな足跡を残すものが、あんな小さな窓を出入りできるはずがない。


「行こう」


 リヒトがユキの手をひいて歩きだす。

 リヒトがいてくれて、ほんとによかった。そうじゃなければ、とっくにユキは泣きだしていた。


(この人といると、もろくなるなあ。甘えられるのって、こんなに気持ちいいんだ)


 竹やぶに囲まれた細道をぬけ、中学校に続く坂道まで戻ってきた。やっと異次元から生還してきたような心地がする。


「どっか落ちついたとこで、さっきの手紙をしらべてみよう」


 リヒトは言うが、この村には喫茶店もファミレスもない。


「そこの中学校は? 夏休みだし、誰もいないんじゃない?」


 というわけで、坂をあがっていった。

 古い校舎は、あのころと、まったく変わってない。子どもの姿はなかった。花壇のヒマワリが、それを手入れする存在を想像させるだけだ。


 木洩れ陽のさすケヤキの根元に、リヒトはすわった。ボストンバッグをひらき、手紙をとりだす。


 ユキはたずねてみた。

「誰の住所が知りたいの?」


 リヒトは答えない。かわりに手紙のたばを半分、渡してきた。


「呪いに関係ありそうなこと書かれてないか、しらべて」

「え? わたしが読んでいいの?」

「君ならいいよ」


 ドキドキするようなセリフを、さらりと言ってくる。ユキがそのセリフをかみしめていると、矢沼が割りこんできた。


「僕はどうしたらいいんですか?」


 遊んでもらいたくて、必死で気をひこうとする豆太郎みたいだ。


「君もオマケで読んでいいよ」


 それで、三人で手紙を読んだ。


 ほとんどは、リヒトの母へ送られてきたものだ。親戚や友人との時節のあいさつや近況報告。

 ところが、ある年代で、急に同じ差出人からの手紙が増えた。 蜂巣拓斗はちすたくとという男だ。



『律子さま。風もすっかり春めきました。そちらは、さぞ花の見ごろでしょう。おかわりありませんか? あなたと話していると、時の経つのを忘れてしまいます。近日中に、また、うかがいます。あの桜並木を二人で歩きたいものです』


『先日、あなたがくださったお手紙、大変、興味があります。そちらの里には古い慣習がたくさん残っているのですね。以前、話してくださった旅人の話も面白かった。いずれ詳しく聞かせてください』


『近ごろは週末が待ち遠しく、落ちつかない日々をすごしています。いっそ、そちらの里に移り住みたいとすら思います。が、学生の身では、そうも行かず……』



 といった内容だ。


 何通か読んで、だいたいの事情はわかった。

 蜂巣は民俗学に興味を持つ東京の学生。休日には地方へ出向き、古い伝承を集めていた。

 F村でリヒトの母、律子に会い、親交が始まった。親交は恋愛へ発展。息子が生まれ、二人は結婚する。大学を卒業した蜂巣はF村に移り住んだ。


「こっちのは、ほとんどラブレターだ。肝心なことは書いてなかった」


 リヒトはそう言って、手紙をバッグにしまった。


「こっちも。でも、民俗学に関心があったんでしょ。この村にまつわる伝承も調べてたはず。リヒトくんのお父さん」

「資料か覚え書きでも残ってないかな。もう一度、家のなか調べるしかないか」


 また、あの家に行くのかと思うと、気が滅入る。天井裏の視線を思いだし、ユキはゾッとする。


「まさか、行くの? 調べられるとこは、調べたよ?」

「あとは床下と天井裏くらいかな」

「やめたほうが、よくない? さっき、ほんとに見たんだよ。わたし……」


 すると、横から、矢沼が口をはさむ。

「あのぉ、もしかしたら、この人が何か知ってるんじゃ?」


 矢沼は手にした手紙を扇のように、ひろげる。


「蜂巣さんの友達なんだけど。S市の郷土研究家みたいです」


 リヒトが手紙をうばって、たしかめる。


桝前田実近ますまえださねちか。武将の名前みたいだな。ほんとだ。同じ趣味の仲間だったんだ。この人なら、当時のこと知ってるな——よしよし。お手柄」

「よしよしって、バカにしてるんですか? 僕は子どもじゃないぞ」

「いい反応するなあ。よしよし」

「だから、よしよしって、やめてくださいよぉ」

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