一章 2—1

 2



「じゃあね。ユキ。おやすみ」

「おやすみ。またね」


 相乗りしてきたタクシーから、ハルナが自宅前で降りる。


 ユキも、そこで降りた。ユキの実家は、すぐ近くだ。酔いざましに歩けば、ちょうどいい。

 そう思っていたのだが……ハルナが手をふって家のなかに入ると、急に寒気を感じた。


(なに、この寒さ。夏なのに)


 わけもなく全身の毛が逆立つ。

 見なれたはずの近所の景色。

 なぜ、こんなに不安な気持ちになるんだろう?


 ユキは、ことさら陽気をよそおった。鼻歌まじりに歩く。

 こんなことなら、家の前までタクシーで横付けすればよかった。だが、もうタクシーは見えない。夜の町に完全に一人だ。


 しだいに鼻歌も消え、急ぎ足になる。

 ビクビクしながら、競歩みたいに歩いていく。


 やっと実家の明かりが見えた。さすがに、ほっとした。もうすぐ、あの光のなかに帰れる。


 安心すると、周囲を見るゆとりができた。となりの塀の上に猫が、うずくまっている。


 やっぱりウワサなんかアテにならない。町じゅうの猫が消えたなんて、ウソっぱちだ。ちゃんと、ここにいる。


 そう思いながら、すれちがいざまに、チラリと猫を見た。その瞬間、ぞッと背筋が凍る。


 それは猫ではなかった。

 はっきりとはわからない。が、何かが違う。頭部と体のバランスとか、大きさとか、ぜんたいのふんいき。

 ひとめ見て、猫ではないとわかった。


 ユキは立ちすくんだ。

 それは起きあがり、四つ足で塀の上を歩きだす。ユキの頭のすぐよこを、音もなく通りすぎていく。

 数分のあいだ、ユキは動くことができなかった。


 今のは、なんだったんだろう?

 夢? まぼろし?

 そう。酔ってたから。きっとそうだ……。


 そんなことがあったせいだろう。

 その夜、ユキは夢を見た。


 まっくらやみだ。何も見えない。

 闇のなかに、何かがいた。

 低い、おしつぶしたような声がする。

 初めは、ただのうめき声だと思っていた。でも、言葉のようだ。声が割れて、よく聞きとれない。


(誰? なにを言ってるの?)


 話すことはできなかった。金縛りにかかってる。というより、自分の体が闇に溶けて消えてしまったみたいだ。動くことも、声をだすこともできない。


(誰? どこにいるの?)


 すると、暗闇のなかに、白いものが二つ浮かびあがった。目だ。獣の目。黒目の部分が金色に光ってる。

 それも、おどろくほど近くに。

 ユキのすぐ目の前に、それはいた。


 悲鳴をあげようとした。

 あいかわらず、声は出ない。


 それが、ユキの手をつかんだ。

 獣のはずなのに、それはユキの手を両手で握った。


 そして、激痛。

 噛まれたのだ。


 ユキの腕をかみながら、それはユキを見あげた。両目が、いつのまにか人間のものになっていた。にやっと笑う白い歯が見えた。


 ユキは失神したと思う。

 気がつくと、朝になっていた。

 体が重い。おまけに生あたたかいものが顔じゅうをなめまわしている。


 まだ夢の続きを見ているのか?


 恐怖にすくみながら、気合で起きあがる。

 くーん、くーんと、何かが鳴いた。

 見れば、お腹の上に乗ってるのは、愛犬の豆柴だ。豆柴の豆太郎。


「マメぇー。おまえか。ビックリさせないでよ」


 ドアがあいてたらしい。すきまから入ってきたのだ。


「あんた、また、あたしの顔、なめまわしたね? あんたのせいで、変な夢、見ちゃったじゃない」


 豆太郎は理解してるのか、嬉しそうにシッポをふりまくってる。

 ユキは愛犬をベッドの下におろし、立ちあがった。

 今日からは取材だ。いじめグループをかたっぱしから当たってみよう。それに、あのイジメられていた少年。


 ユキは中学の卒業アルバムをひっぱりだした。ユキたちはAクラス。となりのBクラスが玉館たち。

 おぼえのある顔をさがし、名前を確認する。すでに死んだという石川。萩野。写真で見ると、たしかに玉館の取り巻きだった連中だ。


(とすると、残りは、あと三人)


 あの夜、あの場所にいたイジメグループは、玉館をよせて五人。

 ユキたちを追ってきた柴田。あと一人は……綾瀬。


 最後に、イジメられていた少年をさがした。こがらで顔立ちは整っていた。いかにも気が弱そうに見えた。

 その少年はBクラスの端っこに写っていた。気のせいか、みんなが少年をさけているような。


(……戸神とがみ玲一れいいちか)


 卒業アルバムには住所や連絡先は載ってない。が、小学のときクラスメートだった鈴木トオヤが、戸神のうしろに写っていた。トオヤなら、アユムがけっこう親しい。アユムに聞けば、トオヤの住所はわかる。


 Tシャツとジーパンに着替えながら、アユムに電話をかけた。


「おはよ。昨日の取材の件で、鈴木くんと話したいんだけど。鈴木トオヤくん。友達だったよね?」

「おまえ……なんで朝から、そんな元気なんだ」


 アユムの声は二日酔いっぽい。


「あんたこそ、あいかわらず、お酒弱いね。住所か電話番号わかる?」

「……トオヤんちなら、案内してやるよ。車で迎えに行く」


「そっか。小学校の先生は夏休みか。助かる!」

「夏休みって言っても、プール当番とか、部活動とか、いろいろあるんだぞ。教師に夏休みはないんだ」


「今日はヒマなんでしょ?」

「そうだけど。二十分後な。駅前まで来れるか?」

「わかった」


 二十分というと、急いで化粧しなければ。

 ユキは、あわてて荷物をまとめる。

 そのとき、ハッと気づいた。

 そうだ。もう一人、オマケがいた。それで、また電話だ。


「おはよう。矢沼くん。出るの遅いよ」

「あ、今ね。パン屋さんなんですよ。黒猫キッチンっていう駅前のお店。パン屋でキッチンは珍しいなって」

「そこはね。おじさんが亡くなるまでは食堂だった——って、そんなことはいいの。二十分後までに、A町の駅前に来て。遅れたら置いてくから、いい?」

「またァ? 理不尽」


 ブツブツ言うのは無視して、電話を切った。


 階段をかけおりると、豆太郎がつきしたがってくる。


「お母さん。マメ。わたしの部屋に入ってたよ。ドアのたてつけ悪いんじゃない?」

「あら、おはよ。マメちゃんは、あんたが好きなのよ。しかたないじゃない。早く、ごはん食べて。片付けたら、お母さん、出るから」


 母はまだ玉館スーパーでレジを打ってる。弟が大学卒業するまで続けるつもりらしい。


「ああ、もう食べてる時間ない。パス!」

「あいかわらずなんだから。いつも早めに起きなさいって言ってるでしょ?」

「はいはい。ごめん。行ってきます!」


 いつもの実家の風景。平凡で平穏なやりとり。これからも、ずっと、こんな日々が続いていくと思っていた……。

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