誰も寝てはならぬ④

「きゅう、」

「はち、」


カウントダウンだ。

何のかなんて、訊くまでもなかった。


「なな、」

「ろく、」


少し尖らせた唇が、ゆっくりと動いて。

その様子は、数を手繰り寄せているようにも見える。


「ごお、」

「よん、」


腕の中、煌めく二つの瞳は星みたいで。

そのど真ん中に、僕の顔を捉えて離さない。


「「さん、」」

「「にい、」」


いつしか、僕も一緒にカウントをし始めていた。

灯絵はそんな僕に、ひどく嬉しそうに笑ってみせる。


「「いち、」」


そうして、二人で最後の数を唱えた後。

灯絵は改めて、息を吸い込んで——


「……けーくん」

「お誕生日、ありがとう」

「生まれてきてくれて、ありがとう」

「あたしと出会ってくれて、ありがとう」

「あたしと愛し合ってくれて、ありがとう」


この瞬間、『二十歳の誕生日』を迎えた僕を、灯絵は強く抱き寄せる。

用意していた祝福の言葉を、一つ一つ丁寧に、伝えてくれる。

嬉しさと、少しのくすぐったさが沸き上がる。

それにしても……普通は『おめでとう』だろう。

『お誕生日ありがとう』だなんて、初めて聞いた。

だけど、その方が灯絵らしい気もする。

大切な人が生まれてきてくれたことに感謝すること。

それこそが灯絵にとっての、心からの愛情表現なんだ。


「僕こそ、ありがとう」


だから、僕も笑ってお礼を言う。


「僕と出会ってくれて、ありがとう」

「いつも傍で僕に笑いかけてくれて、ありがとう」

「僕を気遣って、優しく見守ってくれて、ありがとう」

「僕の人生に彩りを与えてくれて、ありがとう」

「こうして誕生日を祝ってくれて、ありがとう」

「これまでも……そして、これからも」

「僕と愛し合ってくれて、ありがとう」


灯絵は目線を上げて、僕の言葉をじっくりと聞いていた。

そして……ふわっ、と。

不意に、その顔に笑顔が浮かんだ。

それは、呆れるほどに綺麗で。

ただただ、どうしようもなく綺麗で。

それを見て、伝わった、と思った。

僕がずっと言いたかったこと。

あの日、言えなくて、後悔していたこと。

その全てが。


「……えへへ」


灯絵は、僕の胸にそっと顔をすり寄せてくる。


「あたし、けーくんを好きになって、本当に良かった」


淡い色の灯絵の頭が、ちょうど目の前に来る。

それは、僕の左腕に絡みつく形で少し渦巻いていた。

僕は髪に手櫛を入れて、梳かしてやろうとした。

そして、僕もだよ、と言おうとした。

灯絵を好きになって良かった、と。

だけど——その時だった。




すうっ、と。




彼女の身体はみるみるうちに透き通っていった。

夏の雨が砂に染み込むように、さりげなく。

元々薄くなっていた色素が、さらに抜けていくような感覚だった。

そして——


「……………………え?」


最初、何が起こったのか分からなかった。

ただ、呆然とするしかなかった。

左腕に感じていた確かな重みと、ドライアイスのような冷たい感覚は、すっかりなくなっていて。

灯絵の腰を抱いていた右腕は、今や空白を抱いている。

くいくい、と何度か動かしてみても、宙を掻くだけ。

それで、ようやく気づく。

灯絵は——消えてしまったんだ。

跡形もなく。

……いや。

気づいたら、僕は跳ね起きていた。

そして、テーブルの方を見る。


「…………ない」


そう。

少しばかり残っていたケーキと、ビーフシチュー。

灯絵が持ってきて、用意してくれたもの。

それら全てが——綺麗さっぱり消えてしまっていた。

食器は、テーブルの上にある。

さっきまでと全く同じ、食べかけた状態のまま並んでいる。

なのに、中身は空っぽだ。

汚れもほとんどない。

それは、料理の存在そのものが失われてしまったかのようで。

いや——それだけじゃない。

玄関に並んでいた靴も。

かかっていた上着も。

見渡す限り、灯絵のいた痕跡は、どこにも残っていなかった。


「……何、で」


言ってから、自分の言葉を白々しいと感じる。

何でもなにもない。

心当たりならあるじゃないか。

灯絵は、幽霊なんだ。

服も。

靴も。

料理でさえも。

だったら、いつか消えてしまうかもなんて、最初から解っていたことだった。


「終わった……のか?」


理屈は分からない。

だけど、見回しても彼女はもうどこにもいない。

灯絵が消えてしまったのは、どうしようもない事実だった。

夢のような時間は、もうおしまい。

そういうことなんだろう。

今日一日を振り返る。

彼女を不安にさせたり、格好悪いところを見せたり。

少し失敗した部分もある。

だけど、言いたかったことは、ちゃんと言えた。

最後の思い出だって作ることができた。

失敗も、やがて大切な思い出になる。

灯絵だって、そう言うだろう。

……なのに。

なのに——

胸に残ったこの気持ちは、何だろう?


「……灯絵」


口から、その名前があふれる。


「灯絵」


何度も。


「灯絵」


何度も。


「灯絵……」


何度でも。

呪文のように、溢れ続ける。

夢から覚めた後のゆるやかな気だるさと。

何かが欠落した痕をなぞった時の鈍い痛みと。

この部屋ですら収まりきらないほどの、広大な虚しさと。

他にも、形にならない数々の想い。

それらがぐちゃぐちゃに混ざった胸を、強く強く抑えながら……

涙のように溢れるその名前を、僕はずっとずっと呼び続けていた。

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