ミニチュア・エタニティ⑨

フォークの切っ先では、真っ赤なイチゴがケーキごとふるふると揺れている。

瑞々しい、と言うのがふさわしい見た目だ。


「……あーん」


魅かれるように、僕はそれを口に入れた。

ふわふわして柔らかいスポンジ。

さらっと溶けるようなクリームの極上の舌触り。

噛むごとに、果肉の弾ける感触が口の中で広がって。

たっぷり含まれた水分が、僕の喉に沁み込んで、潤してくれる。

この食感だけで、美味しいと分かるほどの代物だった。

……だけど。


「どう?」


「……うん。やっぱり、味はしないみたいだ」


「そっかぁ……」


そう。

このケーキも実体がないんだから、当たり前だ。

それでも、味が分からないのが本当に残念でならない。


「これって、あそこのケーキ屋のやつだろ?」


「うん。イチゴ爆弾ケーキだよ」

「けーくん、前食べたいって言ってたでしょ」


何故なら、これは、大学近くの商店街にある有名なケーキ店の、一番人気の商品なんだ。

イチゴがふんだんに載っていることから『イチゴ爆弾』などと呼ばれている。

イチゴもショートケーキも好きな僕は、ぜひ一度食べてみたいと思っていた。


「これ、高かっただろ」


「けーくんの誕生日だからね。奮発しちゃった」


「……なら尚更、味わいたかったな。タイミング悪いなぁ」


「まぁまぁ、また今度買えばいいよ。ケーキは逃げないからね」


ケーキ『は』逃げない。

その言葉に、少しだけ胸がちくっとする。


「……そうだな」


でも、それも一瞬の事。

気を取り直して、僕は灯絵にお願いする事にした。


「じゃあ、悪いんだけど、残りのケーキは灯絵が食べてくれないか?」

「味が分からない僕が食べるのももったいないし」


「そっ、それは駄目だよ」


——思いのほか強い口調で返ってきたので、少し驚く。

灯絵は甘い物が大好きなはずなのに。


「……何で?」


ぽろっと出た僕の疑問に、灯絵の目が泳ぐ。

ぐるぐると、回遊魚のように。

そして、数秒ほどして、


「ほ、ほら、言ったでしょ。あたしの気持ちがもっと伝わるおまじないだって」

「またあーんってしたげるから、食べて欲しいなー、なんて」


「それなら、シチューを食べさせて欲しいな」

「お手製のシチューの方が絶対、灯絵の気持ちがこもってるだろ?」

「せっかくなら、そっちを食べたい」


「ううっ……な、なら栄養!」

「栄養は摂った方が良いってさっき言ったでしょ」

「ケーキの栄養も摂っとかないと、ね?」


「……それもシチューで良くないか?」

「シチューの方が絶対、栄養はあると思うんだけど……」


「……あ、あうぅ」


言い負かそうとした訳ではないけれど、ついに灯絵は頭を抱えてしまった。

そのめろめろな様子を見ていると、何だか申し訳なくなってくる。


「そ、そこまでして食べろとは言わないけど……」

「何か、他にケーキを食べられない理由があるの?」


助け舟を出したつもりだった。

けれど、灯絵は俯いて黙り込む。

——まずいことを言っただろうか?

そんな考えが浮かぶのと、灯絵がぼそっと呟くのは、ほぼ同時だった。


「……体重」


「え?」


ばっ、と顔を上げて僕をジト目で見やる。

その顔は、イチゴに負けないくらい真っ赤だ。


「だから、体重だってば」

「今日、来る前に体重を測ったら、3キロ増えちゃってたの」

「それで、今日は甘い物は少し控えようかな、って」


そういえば、夕星達と食事に行った時、僕が食べきれなかった誕生日パフェを一緒に平らげてもらった覚えがある。

あれがとどめになったのかもしれない。

悪い事したかな、と罪悪感が頭をよぎる。


「(……あれ、でも)」


僕はテーブルの上を見渡す。

僕の前の皿に、一つ。

灯絵の左手の皿に、一つ。

ケーキは、二つある。


「……なら、自分の分も買ってきたのは?」


「ケーキは二つ予約してたから」

「だから、あたしの分のケーキも、けーくんに食べてもらうつもりだったの」


「……あーん、で?」


「あーん、で」


ばつが悪そうに上目遣いをする灯絵。

しばらく見つめ合った後。


「…………あはは」


「も、もう。笑わないでよ」


「ごめんごめん。灯絵があまりに可愛くてさ」


「……………………あーん」


それ以上何も言わないで、と言わんばかりに、僕の口にフォークを押し込んでくる。

もはや開き直ったのか、やっぱりそれはケーキだった。

だけど、心中は色々複雑らしい。

灯絵は、怒っているのか恥ずかしいのか嬉しいんだか、良く分からないような顔をしていた。

その表情が、あまりに可愛くて。

どうしようもないほど可愛くて——


「あっ……」


気が付いたら、僕は、彼女の身体を抱き寄せていた。

ドライアイスみたいに冷たい、その身体を。


「こ、こら」


少しだけ腕をつっぱって、抵抗する灯絵。

だけど、僕はその抵抗ごとぎゅっと抱きしめた。

だんだん弱まっていく抵抗と、華奢な肩幅。

それに、彼女のドライアイスみたいな冷たさが、服越しに僕の肌を刺してくる。


「だ、だめだってば……」


冷たさは、じわじわと僕を蝕んでいく。

この手も。

この心も。

灯絵は間違いなく死んでいる、って。

そんなドライアイスのような現実を突きつけてくる。


「(……………………だけど)」


その現実と同じくらい確実に、僕は灯絵を想っている。

心から。

今、こんなに冷たい感覚に晒されていても、胸の奥はじんわり温かかった。

ご飯を食べたら、心があったかくなる。

その通りかもしれない。

あるいは、数々の灯絵の優しさが、胸で息づいているのかもしれない。

いや——その全てだろうか。


「ごまかすなぁ……」

「こうされたらあたしが何も言えなくなるの、知って……」


「灯絵」


「え?」


弱々しく呟く灯絵の言葉を遮って、僕は言った。


「愛してる」


「………………」


「愛してる、灯絵」


僕の方から愛を言葉にするのは、初めてかもしれない。

やっと言えた、と思う。

あの日、彼女を喪って。

今日一日、彼女と一緒にいて。

どうしても伝えたかった。

僕を許し、僕を支え、僕を救ってくれた彼女に、最大限の感謝を込めて。


「……うん」


そして、それが伝わったのか。

灯絵は、僕の腕の中で、これ以上ないほど優しく微笑んだ。


「あたしも……」


見つめ合う。

唇の先から、息が溢れる。

微笑みを交わすことも忘れて。

二人の距離がゼロに近づく。

近づいていく。

そして、


「んっ……」


僕達は、きっと、世界一冷たくて。

世界一幸せなキスをした——。

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