ミニチュア・エタニティ④

そう思ったら、涙がもう一筋、僕の頬を伝った。

何かの名残のように。

灯絵は慌てて、それも掬おうとして。

必然的に、その指先がまた、頬に触れた。

温かい涙。

冷たい指先。

もしかしたら、これもコントラストと呼ぶんだろうか。

だとすると、これはきっと——『生』と『死』のコントラストなんだろう。

これまで目を背けてきた。

できるだけ考えないようにしていた。

だけど、目の前に突きつけられたのは、紛れもない現実で。

全ては『実体のない』物。

もう、死んでいるんだ。

灯絵自身も。

きっと、料理でさえも。

だから、体温もないし、味もしない。

何だろう。

目の前にいるはずの灯絵が、すごく遠く感じる。

さっき感じたばかりの喜びや、連帯感。

『生きていた頃のままだ』という感覚。

それらが、まるで嘘だったかのように。

……いや。

逆に、その優しい想いが『あった』からこそ、余計に遠く感じるのかもしれなかった。


「~~もう。何で泣くのさぁ」


途方に暮れたような声。

それで、我に返る。

目の前で、行方を失くしたように宙を泳ぐ手。

その向こうには、少し崩れた笑顔。

頬の辺りが、照れたように紅潮していて。

両の目は、真っ直ぐに僕を見つめている。


「もしかして、あたしのシチュー、美味しくなかった……?」

「調味料、間違えちゃった?」


おっかなびっくり、という表現が似合う口調で、灯絵は訊いてくる。

この表情は、見覚えがあった。

そう。

『かなりのレベルでテンパっている』時の表情だ。

灯絵が死んでしまう前の日。

講義に遅刻した僕を迎えた時の顔と、そっくり同じで。

それを見て、僕は、ようやく少しだけ冷静になれた。


「(……何を迷っているんだよ)」


突然の事で、一瞬忘れていた。

確かに、彼女は死んでいるかもしれない。

でも、それが何だ?

『彼女が幽霊なのか、幻覚なのかも』。

『灯絵がここにいる理由さえ、どうでも良い』。

ついさっきそう誓ったのは、他ならぬ僕自身じゃないか。

どんな形であれ、灯絵はここを訪ねてくれた。

僕の誕生日を祝いに来てくれた。

だったら、その願いを叶えようと思った。

今日一日だけは、灯絵と二人で幸せな時間を過ごすと決めたんだ。

こんな事で、揺らぐな。


「……いや」


ゴシゴシ、と、少し乱暴に頬を拭った。

そして、できるだけ優しい言葉を探す。


「しばらく灯絵のシチューを食べてなかったから、びっくりしただけだよ」


ちゃんと笑えている、と思う。

できるだけ自然に、嘘っぽくならないように。

自分にそう言い聞かせながら、僕は笑顔を重ねる。


「灯絵は僕に良く料理をしてくれるけど、シチューはあんまり作ってくれないだろ」

「必殺料理(スペシャリテ)だから、って」

「何回も同じ物を作るとありがたみが薄れる、って言ってさ」


口がペラペラと喋る。

複雑な想いは胸に閉じ込めて。

全ては、灯絵にちゃんと笑って欲しいから。

安心して欲しいと思ったんだ。


「だからかな」

「久しぶりに食べられた嬉しさと、すごくすごく美味しいって気持ちが相まって、一瞬訳がわからなくなったんだ」


ふと、灯絵は深く俯いてしまった。

髪に隠れて、表情が分からなくなる。

その髪越しに、僕は謝ろうとした。


「とにかく、灯絵が心配するような事は何もないよ」

「心配かけて、ごめ——」


「嘘っ」


ぴしゃり、と。

雷のような言葉が、部屋に轟く。

一瞬、全てが動きを止めた。


「(今の……灯絵の声?)」


……驚いた。

灯絵が、こんなに強い口調で他の人を疑う言葉を発するのは、初めて聞いたから。

だけど、一番びっくりしたのは灯絵自身のようで。

喉を押さえて、信じられないといった表情を見せる。

そして——その表情は、目の前でみるみる歪んでいった。

それは、鳥肌が立つほど苦しそうなものだった。

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