決壊②

気づいたら、頬をほんのわずかに、涙が伝っていた。

だけど、それを拭うことはなかった。

頭の中に溢れる、数々の思い出と向き合うので精一杯だったんだ。

そう。

押し込めていた記憶と同時に、今はすっかり、意識が戻ってしまった。

灯絵と出会って。

付き合い始めて。

一緒に受験勉強をして。

同じ大学に通うようになって。

大きな喧嘩もなく、僕達の付き合いは続いて。

そして——

僕の誕生日パーティーに来る途中、彼女は、交通事故で亡くなったこと。

その告別式に参列したこと。

全部、覚えている。

全部、思い出せる。

そして、記憶はだんだん細かい所へと。

優しい印象を与える垂れ目。

全体的に細いフォルムの鼻や眉。

桜の花びらみたいにぷっくり膨らんだ唇。

白いキャンバスみたいな肌。

かすれ気味の声をそっと僕の耳に通すような、ゆっくりとした喋り方も。

顔をふにゃっと歪めて、小さな八重歯をちろりと覗かせるその笑い方も。

色の薄い猫っ毛が、風になびいて一つずつ絡まっていく様子も。

繋いだ手から確かに伝わる、少し人より高めの身体の温もりも。

全部、覚えている。

嫌気が差すほどに、全部、思い出せる。


『……えへへ』


……そして、幸せではち切れそうなその笑顔が、目に浮かべば浮かぶほど。

恋しくて、恋しくて、仕方なくなる。

もう一度、灯絵に会いたくてたまらなくなる。

どうして、彼女がここにいないんだろう?

どうして、彼女が事故に遭ったんだろう?

どうして、彼女が死ななくちゃいけなかったんだろう?

意味がないと分かっていても、思考は溢れて、止まらない。

 

『お前だけはそんなことを言っちゃ駄目なんだって、どうして分からないんだよ……!』


その時、ふと、衣典の叫びを思い出した。

灯絵と出会わなければ良かった、という僕の呟きに激昂した彼女の、魂の言葉だ。

……衣典には、悪いと思う。

だけど、今も、出会わなければ良かった、と考えてしまう。

じくじくと、じくじくと。

胸の奥で血を流し続けるような、こんな痛みを味わうくらいなら。

灯絵と出会わないか、灯絵が死なないか。

そのどちらかなら良かったのに、と、どうしても願ってしまう。


「灯絵……」


その呼びかけも、もう何度目だろうか?

不発すると分かり切った呪文のように。

意識こそ戻っていても、気力は未だに湧かないままで。

全てが億劫で、だけど未だに浮かぶ名前をうわ言のように繰り返すだけで。


「……灯絵……」


僕は、その名前をいつまでも呼び続けていた。




***




それから、どれくらい経っただろうか。


「………………ん」


不意に鳴ったドアベルに、意識が揺り起こされた。

さっきまでと変わらない姿勢で蹲っている自分。

——また、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。

今度の眠りは浅かったのか、思考はすぐに戻ってきた。

だけど、起き上がってドアの方へ向かう気力はなかった。

再び、浮かぶ思考に身を委ねようとした時。

……もう一度、ドアベルが鳴る。

夕星、だろうか?

元々、友達は少ない方だ。

ましてや、ここを訪ねてくる人なんて、夕星くらいしか思いつかない。

あるいは、咲ちゃんと二人でやって来るかのどちらかだ。

だけど、それなら余計に出迎えようとは思わなかった。


「(頼むから……放っておいてくれ)」


もう、本当に色んなことがあって。

失った物が多すぎて。

今は思い出に浸るだけで、いっぱいいっぱいなんだ。

夕星なら、知ってるだろ。

今は、一人でいたいんだ。

余計なお節介は、しないでくれ。

心の中で、そう呼びかけた時——。


「あれ?」


不意に、知った声が、ドアから微かに漏れ聞こえてきた。


「おーい、けーくん。いないのー?」


——え?

僕は、弾かれたように身体を起こした。

その声は、夕星じゃなかった。

咲ちゃんでもなかった。

……聞き間違いだろうか?

それは、一番あり得ない声。

とても懐かしくて——二度と聞くことのないはずの声だった。


「けー、くーん」


こんこん、と。

ノックの音と共に、声が部屋に投げ込まれる。

……聞き間違いじゃない。

紛れもない、あの声だ。

それに、僕のことをけーくんと呼ぶのは、一人だけ。

心臓が、破けそうに鳴り始める。

……いや、でも、何で?

彼女がここに来るはずがないのに——

だけど、混乱する頭とは裏腹に、僕の身体は反射的に立ち上がった。

そして、すごい勢いで、ドアの方へ走り出していた。

ついさっきまで頭を独占していた顔を、もう一度強く強く思い浮かべながら。

鍵を開けるのももどかしくて。

叩きつけるように、ドアを開ける。


「わ。びっくりした」


そこにいたのは。


「もう。いたなら返事してよね、心配するじゃない」


赤浦灯絵。

死んでしまったはずの——僕の恋人だった。

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