回想:同じ方を見ていた。(前編)
***
「……うん、正解。じゃあ、ここらで一旦休憩にしようか」
「……あぅー」
僕の言葉と同時に、灯絵は机に突っ伏した。
「お疲れ様」
「あぅー……」
「……大丈夫?」
「あぅー」
……どうやら、語彙力が迷子になっているようだ。
でも、付き合い始めてもう1年余り。
ニュアンスで、灯絵の言いたいことが何となく分かるようになってきた。
多分、今のは『だいじょばないよぉ』と言っているんだろう。
「ははは、本当に数学が苦手なんだね」
「あぅー、笑い事じゃないよぉ……」
「あたし、数学はほんとにだめなの」
灯絵は、すねたような目をこちらに向けて、ぼやく。
——高校3年の夏休み。
僕達は、来たる受験に向けて、二人で勉強会を開いていた。
そう言うと真面目で健全な高校生、という風に聞こえるかもしれないけれど……実際にはそんなことは全くなくて。
夏休みの間も、大好きな恋人に会いたい。
だけど、勉強もしなくちゃいけない。
なら両方やっちゃえばいい、と——それだけの話だった。
幸いにも、僕の苦手科目は、英語。
灯絵の苦手科目は、数学。
お互いの苦手科目を教え合う、という大義名分が成り立つんだ。
「(それにしても……)」
少しだけ、辺りを見回す。
「(これが、灯絵の部屋……)」
さっきまでは勉強に集中していたけれど。
一息ついたからか、急に意識があちこちへ散らばる。
前には、コルクボードに留められた写真。
その脇のラックには、可愛い色合いのノートや、今日使う予定の参考書が挿さっている。
後ろの本棚では、教科書や小説・絵本等が、サイズごとにきちんと並べられていて。
女の子には少し大きめのベッドの上に、テディベアがこちらを見守る形でちょこんと座っていた。
「(……可愛らしい部屋だよなぁ)」
そして、ほんのりと——バニラみたいな甘い香りが、極め付けとばかりに鼻をくすぐる。
香水だろうか?
それとも、アロマ?
「(女の子の部屋って……みんなこんな感じなのかな)」
どちらにしても、男の僕にとっては未知の世界で。
つい、鼓動が早くなっていく。
そして、彷徨う視線は灯絵自身にも。
ピンクで可愛い半袖のワンピースから覗く、白く華奢な腕。
赤いシュシュに分かたれたツインテールが、渦を巻いて灯絵の背中に広がっている。
「(……何だろう)」
服装がいつもと違うせいなのか。
灯絵が、やけに可愛く見える。
……いや。
これは、可愛いというより。
色気、かも知れない。
リップがわずかに塗られて艶々とした唇に。
僕の目は、強く吸い寄せられて——
「——そもそも、何さ。三角関数って」
「あたしの人生のどこに役立つって言うのさ」
その時。
目の前の灯絵から、ジト目とジト声のセットが投げられた。
勘づかれたわけではない、と思う。
だけど、その声で、ふと我に返った。
「(……いかんいかん)」
確かに、下心で始まった勉強会ではある。
でも、それはまずい。
果てしなく、まずい。
ひそかなムラっ気を必死で振り払いながら、僕は努めて平静に答える。
「世の中の全ての物は細かく振動している、って考え方があるんだよ」
「その振動の周波数を計算するのに、三角関数が本当に役に立つんだ」
「振動工学や量子力学を学ぶのにも、必要になってくるんだよ」
「……あぅー」
「あ……ごめん」
また語彙力が旅に出てしまったらしい。
頭がショートしている今の灯絵に、難しい言葉は駄目だ。
この後のやる気が出るように、分かりやすく三角関数の魅力を伝えなければ。
少し考える。
「……具体的には、地図を作る時の測量なんかに使われてるらしいよ」
「……あたしの人生には、縁がなさそうだぁ」
「あと、ゲームのプログラミングにも役立つし」
「そうなんだー……プログラマーさんえらい、がんばって……」
「カラオケの精密採点では、三角関数を使って音程を算出するらしい」
「……あたしは歌うだけだから関係ないもん」
「……画像を圧縮するツールとしても使われてるんだって」
「上に同じく~」
「……………………」
起き上がってくる気配は全くない。
何というか……灯絵って、数学を前にすると、こんなにポンコツになるのか。
勉強を一緒にやったことがあまりないから、知らなかった。
可愛——じゃなかった。他に何かないか。
「……ほら、サインとかコサイン、タンジェントって英語だよね」
「灯絵、英語は大得意だろ」
「数学じゃなくて英語だと思えば、ちょっとは興味が湧かないかな?」
「それは違うよ」
「そもそも、数字は英語じゃなくてアラビア語だもん」
「アラビア語はまだ勉強してないからわからないもん」
……それはただの屁理屈では?
と思ったけれど、こらえる。
そもそも、屁理屈を言い出したのは自分だ。
えっと、他には……。
「で、でも、灯絵は数学が苦手な割に、お金の計算が早いよね」
「コツさえ掴んだら、すぐに出来るようになると思う」
「お金のやりくりは、ただの算数だよ」
「あたしが苦手なのは、数学なの」
……駄目だ、強敵すぎる。
今の灯絵から、やる気を引き出せる気がしない。
しばし、沈黙が下りる。
うん、ここは話題を変えよう。
無理にやる気を出させるより、今は気分転換に専念した方がいい。
今更だけど、そう思ったんだ。
もう一度、辺りを見回す。
話のタネを探すために。
——だけど。
この沈黙を先に破いたのは、灯絵だった。
「……謎々です」
それは、久しぶりに灯絵から聞く言葉。
「あたしは、どうして数学を勉強しないといけないのでしょう?」
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