軋轢③

翻訳家になりたい、と灯絵は言っていた。

世界と世界を繋ぐその仕事を実現するために、まずは4ヶ国語を話せるようになるんだ、と意気込んでいた。

絵本作家にもなりたい、と灯絵は言っていた。

翻訳の仕事の傍ら、オリジナルの絵本を書いて海外で出版したい、と語った後、浮気症だなんて思わないでね、と舌を見せた。

お嫁さんにもなりたい、と灯絵は言っていた。

もちろんけーくんのお嫁さんだよ、と言って、照れ臭そうに僕のお腹をつつきながら、子供は何人欲しい? と訊いてくれた。

そこには、灯絵の将来設計があって。

他愛のない、ささやかな物だけれど。

可能性という有限の中、それは確かに存在していた。

それは、充分にあり得た未来だったんだ。

だけど、灯絵の存在そのものが損なわれた今。

何もかもが、ふつりと途絶えてしまった。

もしも、僕が灯絵と出会わなければ。

もしも、僕が灯絵の世界に存在しなければ。

僕の誕生日を祝うために起きた、あの事故の可能性をゼロにしてしまえば——。

翻訳家には、なれたかもしれない。

絵本作家にも、なれたかもしれない。

僕ではない誰かのお嫁さんになら、なれたかもしれない。

可能性は、ほんの少しだけ形を変えるけど。

灯絵さえ生きていれば、別の未来が灯絵を待っていたんだろう。

そんな想いは、ぼとっと零れて。

目の前でじわじわと悲鳴を上げるアスファルトの上、血みたいに粘ついている。


「おい、計斗——」


夕星が、何か言おうとした。

多分、僕の言葉を咎めようとしたんだろう。

だけど、夕星の続ける言葉を待つことなく、不意に後ろから肩を掴まれた。

その手は、ぐいっと荒々しく、僕の身体を夕星の前から引き剥がす。

あまりの勢いに、よろけながら後ろを向いた僕の胸ぐらを、その手は痛いほど強く掴んだ。


「……衣典センパイ?」


そう。

それは、衣典だった。

僕らと同じ、黒い服を身につけて。

どうしてここに? という疑問が一瞬浮かぶ。

でも、そうだ。

よく考えれば、灯絵の葬式に、衣典が参列しないはずがない。

さっきまで僕の後ろでずっと黙っていたから、気づかなかっただけ。

そんな僕の一瞬の思考をよそに。

衣典は今、初めて口を開こうとしていた。


「……んっだよ、それ」


それは、今まで聞いたことのないほど冷たい声だった。

いつものクールな衣典とは違う。

背筋に鋭く刺さるその声は、コールドと訳すのが相応しいだろうな、なんて、どうでもいいことを考えたりした。

——そして、その刹那。


「………………ぐっ」


ぐるん、と世界が回転して。

鈍い音と共に、背中にしたたかな痛みが走った。

白々しくも青々と広がる空を真っ直ぐに見つめながら、状況が読めずに呆然とする。

……少しして、倒れた僕の上に今なおしゃがみ込もうとする衣典の姿が見えた。

そのことで、衣典に突き飛ばされて倒れたんだ、とようやく気づいた。

彼女の左手が僕のネクタイへ伸びて、ぐいっ、と強く引っ張られる。

ぐう、という音が僕の口から溢れた。


「おい、衣典サン——」


「今、なんつった、お前」


衣典はぼそっと呟いた。

止めに入ろうとした夕星も、その言葉でぴたっと動きを止めた。

引っ張られて上体だけを起こしたままの僕を、衣典は憎しみを込めた目で見つめる。


「出会わなければ良かった?」

「なあ、おい」

「それは、僕への当てつけか?」

「お前ら二人を引き合わせた僕が悪いのか?」

「あの日、屋上へ二人を呼んで、出会うきっかけを作った、僕が悪かったのか?」


言われて初めて、罪悪感がほんのりと浮かんだ。

そう。

僕と灯絵が出会ったのは、共通の友達だった衣典に紹介されたからだ。

出会わなければ良かった、という言葉は、衣典が悪い、と詰っていることに他ならない。

ただ、そんなつもりで言ったわけじゃなかった。

衣典がいると思わなかったし、そもそも衣典に配慮するだけの余裕がなかっただけだ。

そう言おうとした。

だけど、できなかった。

衣典の憎しみの目から、涙が一斉に湧き出したから。

それは幾筋にも、幾筋にも別れて、重力のまま頬を伝い落ちる。


「違うだろ」


どんっ、と、衣典の右拳が僕の胸を殴った。

だけど、痛みは感じない。

むしろ弱々しさすら感じる、静かな拳だ。


「なあ、計斗」

「あの死に顔を見て、何も感じなかったのか?」


一言一言呟く毎に、拳は降り続ける。

どんっ、どんっと、何度も何度も。

弱々しさを湛えたまま。

声は掠れ、千切れそうで。

だけど、衣典は俯くことなく、訥々と続けた。


「お前がいたから、あんな風に笑えてたんだ」

「お前と付き合ってた三年、灯絵は幸せだった」

「親友の僕にも、ノロケ話こそすれ、愚痴の一つすら言ったことがない」

「ただの一度もだ」

「最期まで、お前の誕生日を祝うことだけを考えて」

「最期まで、お前との未来だけを考えて」

「だから、あんな顔で死んでたんだ」

「あんな顔で、死んでいけたんだ」

「それを、出会わなければ良かった?」


そこまで言うと、衣典は拳を止めた。

そして。

その代わりとばかりに、衣典は僕に叩きつけるように、叫んだ。


「お前だけはそんなことを言っちゃ駄目なんだって、どうして分からないんだよ……!」

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