10/23 端緒①
ごうごう、と掃除機が目の前で唸る。
僕は、それをさっと足元へ引くように動かした。
さっ、さっ、と何本か線を引くように、軽やかに。
これは最後の仕上げだから、手早く済ませる事が重要だ。
だけど、もちろんやり残しがあってはいけない。
僕は隙のない手つきで、きっちりと作業を進めていく。
最近はロボット掃除機なんて物も流行っているようだけれど、僕はそれに頼らず、自力で掃除をするようにしている。
掃除機に頼っているという見方もあるけれど、まぁ、それはそれ。
『掃除がいつの間にか終わっていた』部屋で暮らすのは、何というか、落ち着かないんだ。
それに——何と言っても、これから恋人がうちに来る。
少なくとも今日は自分で掃除しておきたい、と思うのは当然だろう。
僕は掃除機を止めて身をかがめ、床の状態をチェックする。
……うん、完璧だ。
埃一つ見当たらない。
部屋が綺麗になるということは、心も綺麗になるということ。
これで、安心して灯絵を部屋へ迎えられる。
僕は窓を開けて、スマートフォンを手に取った。
時間は、14時45分。
うん、時間もちょうど良い。
僕は液晶画面を操作して、スケジュールアプリを開く。
えっと、この後の予定は……。
『15時に、灯絵がこの部屋を訪ねてくる。
その後、灯絵が持ってきてくれる荷物を片付けたりしながら、しばらく歓談。
16時半くらいから、灯絵が料理を始める予定。
18時から本格的なパーティーに入る。
その後、皿洗い等の片付けまで済ませる。
22時からはフリータイム(意味深)。
そして、ちょうど24時。
二人一緒に、僕の二十歳の誕生日を迎える。』
アプリには、そんな予定が記されていた。
……というか、何だ(意味深)って。
どうも、このスケジュールを書いた時の僕は、大変浮かれていたらしい。
まぁ——それはともかく、だ。
読んでの通り、僕の誕生日は今日じゃない。
10月24日。
明日である。
つまり、誕生日の前日なのに誕生日パーティーを行う、ということだ。
これを提案したのは、灯絵だった。
当初、理由を訊いてみたところ、
「イエス・キリストの誕生日だって、前日のクリスマスイヴに祝うでしょ」
「それと同じだよ」
という答えが返ってきた。
……なお、その理論は大きな誤解であり、
「キリスト教の暦では、日没からは次の日付って考えてたみたいだよ」
「その考えだと、イヴの夜は既にクリスマス当日ってことになる」
「だから、ちゃんと当日に祝ってるんだよ」
そう教えてあげたところ、灯絵は呆気に取られた顔をした。
その後、急に俯いて、しばらく考え込んだ末に——
「それとこれとは話が別だよ」
「けーくんと一緒に、日付が誕生日に変わる瞬間を迎えたいの」
「一番におめでとうって言いたいんだもん」
と、晴れやかな笑顔で言い切った。
……うん、断れるわけがない。
挙句に、
「……それじゃだめ?」
という、上目遣いの駄目押しまで食らっては、尚更だ。
あの可愛さを守る為なら、誕生日パーティーの日付なんて些細なこと。
そんな思い出し笑いをしながら、僕はスマートフォンを机の上に置いて、ソファに腰を下ろした。
後は、15分後に灯絵が来るのを待つだけだ。
「……楽しみだな」
今日は、灯絵のビーフシチューが食べられる。
それだけで胸が弾む。
灯絵のビーフシチューは絶品で、正直お金を取れるレベルなんだ。
ただ、灯絵の必殺料理(スペシャリテ)だからという理由で、こういったパーティー等の特別な日にしか作ってくれない。
今まで何度もお家デートを重ねて、色んな料理を食べさせてもらったけれど、ビーフシチューは数えるほどしか口にしたことがなかった。
それが食べられるとなれば、気持ちが昂るのは仕方ないだろう。
「……ん?」
——と。
その時、先程置いたスマートフォンが振動を始めた。
メールだろうか、と思ったけれど、違う。
着信だ。
「衣典?」
液晶画面に表示されているのは『神庭 衣典』の四文字。
昨日、一緒に食事をしたばかりの相手だった。
今日は灯絵と誕生日パーティーだということも知っているはず。
なのに、このタイミングで?
それでも、気心の知れた相手からの着信だ。
僕は何気なく、スマートフォンを手に取った。
「もしもし?」
「……計斗か?」
「うん。珍しいね、衣典から電話なんて」
衣典とは学校で直接会うことが多く、電話で話すことはあまりない。
何かあったのか、と続けようとした。
だけど、そんな僕の言葉を一切待たず、衣典はどこか押し殺した声で続けた。
「今、一人か?」
「うん。一人だよ」
「灯絵は?」
「まだ来てない。3時にうちに来る予定なんだ」
「…………そう、か」
「何で、そんなことを聞くの?」
「…………」
僕の質問に対して、握り拳のような沈黙が返ってくる。
これも珍しいことだ。
衣典はいつもクールで、頭の回転も早くて。
こんな会話を叩き斬るような黙り方をすることは、滅多にないのに。
「衣典?」
それがあまりに長く続いた。
だからもう一度、何かあったのか、と訊こうとした。
だけどその前に、握り拳が口を開いた。
「……………………計斗、落ち着いて聞いてくれ」
その声は、抜身の刀のように真っ直ぐで——
ぞっとするほど、冷たかった。
「灯絵が、交通事故に遭ったかもしれない」
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