10/22 偶然で無圭角な計画⑩

「………………」


あとは、二人の間に言葉はなかった。

時間だけがじっくりと流れた。

立ち止まったまま。

見つめあったまま。

そうして、しばらく経った頃——

灯絵の瞳は、みるみるうちに透き通っていった。

透明さは、やがて涙という形を成して。

それが零れる前に、灯絵は不器用な手つきで目尻を拭った。


「ねえ、」

「どうして、けーくんはいつも、あたしの欲しい言葉をくれるの?」

「……ううん」

「あたしの欲しい言葉、と言うより……」

「あたしに足りない言葉、なんだと思う」

「あたしの不安や悩みを、吹き飛ばしてくれる、魔法の言葉」

「でも、あたしの頭じゃ思いつかない言葉」


こんなに訥々と語る灯絵を見るのは、初めてかもしれない。

だけど、僕を見つめるその顔は、いつもよりずっと晴れやかに見えて。


「そう」

「初めて会った時から、そうだったよね」

「あたしが何を言っても、馬鹿にしたりしなくて」

「いつも、あたしに合わせた返事をしてくれて」

「あたしのことを理解してくれて、許してくれて」

「あたしの想像に、収まりきらなくて……」


一つ一つ、数えるように呟くと——

ぱあっ、と。

あの時と同じ、花火が咲いたような笑顔を浮かべて。


「——愛してる」


心からそう言っているのが一目で分かる。

そんな、純粋で真っ直ぐな言葉だった。


「僕も、愛してるよ」


だから、僕も心を込めてそう言った。

一瞬、灯絵が頷いたように見えた。

絡まったままの視線。

そうしてさっきまでより長くて、温かい沈黙が流れた。

……うん。

何というか。

これは、良い雰囲気、というやつじゃないだろうか?

世の中には三種類の沈黙がある、と僕は思う。

一つ目。何かしなければいけない沈黙。

いわゆる気まずい沈黙のことで、これは何とかして消さないといけない。

二つ目。何もしなくてもいい沈黙。

これは逆に、気まずくない沈黙のことだ。

そして、三つ目。何をしてもいい沈黙。

二つ目以上に良い雰囲気の時に生まれる沈黙で。

例えば——キスをしても許される、ということだ。

今は、その三つ目の沈黙だと思う。 

だって、目の前の表情。

雲のようにふわっと、僕の服に絡む髪。

少し紅潮したままのきめ細やかな頬。

拭ってもなお深く潤んだ、伏し目がちな瞳。

その人柄を表すように分厚い唇。

薄く引かれたリップクリームのせいか、艶々と光っていて。

色気というものが目に見えるなら、まさにこんな形なんだろう。

これを見て、平然としていられる人間がいるだろうか?

どくん。

どくん。

どくん。

心臓が跳ねる。

人前ではあるけれど、今ならきっと許されると思う。

僕は、ゆっくりと灯絵の唇に、唇を重ね——


「……………………」


ようとした、その時。

灯絵は不意に、僕の腕から自分の腕をほどいた。

とん、

  とん、

    とん、

と、小鳥のようなステップで少し前を行く。

…………あ、あれ?


「灯絵?」


「送ってくれて、ありがとう」

「ここまででいいよ」


そう言って、振り向く。


「けーくんへの愛しさが溢れちゃって、止まらないの」

「これ以上一緒にいたら、絶対キスしちゃうから」

「今日はここでお別れ」


「……別にいいのに。キスしても」


「もう。キスしちゃったらそれだけじゃ済まなくなるの、分かってるくせに」


「……それも込みで、っていうのは駄目?」


「駄目。そういうのは、明日に取っておきたいの」

「明日、今日の分もいっぱいキスしよ?」


照れながら言うその顔は、世界一可愛いと呼べる程尊くて、惚れ惚れして。

それ以上は何も言えなかった。

ただ、正直に言おう。

……残念である。

ものすごく、残念である。

『別にいいのに』なんて、我ながらよく言えたものだ。

結局は僕がキスしたいだけで。

明日は明日、今日は今日でキスしても良いのでは? という未練が浮かぶ。

だけど、先程までの甘く愛しい雰囲気はすっかり解けてしまっていた。

僕は渋々、持っていた食材を灯絵に渡す。

その重みがどこか名残惜しいと感じたのは、灯絵との時間への想いそのものだろう。

灯絵はそれをぎゅっと受け止めて、笑った。


「ありがとね」

「じゃあ、明日は予定通り3時に行くね」

「ケーキもプレゼントも用意してるから、楽しみにしててね」


「ありがとう」

「手料理も楽しみにしてるよ」


「えへへ、ビーフシチューは、あたしの必殺料理スペシャリテだからね〜」

「必ず殺しちゃうんだからっ」


人差し指と親指を直角に立てて、ばぁん、と銃を撃つ仕草をする。

……何だろう、この可愛い生き物は?

明日、料理で殺されるまでもなく、既に僕のハートには風穴が開いていて、死にそうだ。

そんな僕の胸中を知ってか知らずか、灯絵はふにゃふにゃと柔らかく手を振った。

僕も手を振り返す。


「じゃあ、また明日ね」


「……うん。また明日」
















***




何故、僕はこの時、無理にでもキスをしなかったのか?

後になって僕は、暗澹たる想いでこの日のことを振り返る。

曲がり道の向こうへ消えていく灯絵を引き止めていれば。

自分の衝動に正直になって、キスしていれば。

その後、強引にうちへ連れ帰って、その続きを始めていれば。

そうして、もう遅いから、とでも宥めて、僕の部屋に泊めていれば——

いや、それが叶わなかったとしても、せめて食材を渡さなければ。

次の日、仕込みの為に早めに来てもらっていれば。

……あの道を通る時間が少しでもずれれば、それで良かった。

だけど、事故はもう起こってしまった。

取り返しがつかない、とは解っている。

それでも、僕は考えずにはいられない。

『もし、あの事故が起こらなければ』。

そんなどうしようもない仮定を繰り返しては——

何度も、何度も、後悔することになるんだ。

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