10/22 睡笑の夜、非睡の朝③

と、それはともかく。


「まあね。おかげさまで」


僕は、改めて衣典に向き直る。


「僕らを引き合わせてくれた衣典には、本当に感謝して——」


「はいはい」

「そういうのはいいから、灯絵を探してやれ」

「講義終わったみたいだから、そろそろ出てくるぞ?」


僕の言葉を遮って、しっしっ、と手を振る衣典。

その言葉に、辺りを見回す。

気づいたら、エントランスにいる学生の数がさっきより増えていた。

時間は、12:15過ぎ。

中央棟からは、講義を終えた学生達がぱらぱらと溢れ出している。

僕は、視線を巡らせる。


「(……灯絵)」


その中に、彼女の姿を認めた。

こちらにはまだ気づいていないみたいで。

人波にまぎれて、ゆっくり中央棟から出てくる。

両の眉をハの字に伏せて。

ふにゃっと、少し崩れた笑顔を浮かべて。

ほんのり赤い頬に手を添えて。

はた目には、ただの照れ笑いにしか見えない。

……だけど、僕は知っている。


「(やっぱり……)」


あれは、灯絵がテンパっている時の表情なんだ。

それも——かなりのレベルでテンパっている時の。


「(来てよかった)」


これ以上、あんな顔はさせたくない。

少し大きめに手を振ってみる。

もしかしたら、気づかないかもしれない、とも思った。

だけど、彼女は存外早く、その手に気づいた。

目が合う。

2、3秒見つめ合った後。


「——————」


ぱあっ、と。

零れるように、灯絵は笑った。

夢の中と同じように。

その顔のまま、ちょこちょこと、小走りに駆けてくる。

……あっ、こけ…………かけた。


「(だ、大丈夫か……?)」


千鳥と言うべきか、ペンギンと言うべきか。

とにかく、そんな危なっかしい足取りで近づいてくる。

三歩。

二歩。

一歩。

そして——


「けーくんっ」


えいっ、とばかりに。

残り1メートルのところから、僕の胸めがけて飛び込んできた。


「おっと」


とすっ、という柔い音とともに、抱き止める。

衝撃は、思ったよりずっと軽くて。

それにプラスするように、ぐりぐり、とおでこを押しつけてくる。

ジャケットの両胸の部分を、指でちょこんと摘んで。

その真ん中にぐりぐりと、何度も、何度も。

しばらくそうした後、彼女は少しだけおでこを離した。

そして、上目遣いで僕を見る。


「けーくん大丈夫!?」

「寝坊って、ほんと? ほんとに大丈夫?!」


まだテンパっているんだろう。

いつもよりずっと早口だ。

安心させようと、できるだけ優しく答える。


「大丈夫、ほんとに寝坊しただけ」

「心配かけてごめんな」


「嘘だぁ、けーくんが寝坊なんて今まで一度もなかったのに!」

「実は体調悪かったりしない? 気づかないうちに疲れがたまってることない?!」


「……ぷっ」


隣で衣典が噴き出すのが聞こえた。

それもそうだろう。

灯絵の発言は、さっき僕が予想したリアクションそのままだ。


「ほんっと仲良いよな、お前ら」

「どんだけ通じ合ってるんだよ」


「えっ……衣典?」


灯絵は、その体勢のまま、首だけを衣典の方へ向けた。

そして、驚いた顔をする。


「あれ、珍しいね。今日の講義は学部棟じゃないの?」


そう。

衣典と僕らは学部が違う。

大学が相当広いこともあって、講義の内容によっては丸一日顔を合わせないこともよくある。

今日——土曜日は、その会わない方のはずだった。


「今日は臨時休講になったんだよ」

「だから、大学ぶらついてた」


「そっかぁ」


灯絵は、そっと僕の胸から手を離した。

その胸に、少しだけ名残惜しさが残る。

このまま、親友の方へ行って挨拶するんだ、と思ったから。

だけど、違った。

その手は、するりと僕の左右へと伸びて——


「ちょ、灯絵?」


ぎゅーっ、と。

びっくりするほど強い力で、抱きついてきた。

正面からまっすぐに。

一切ためらうことなく。

呆気にとられた様子の衣典へ、僕の胸に顔を埋めたまま灯絵は叫ぶ。


「衣典ごめんね、ちょっと待ってて!」


「ん?」


「そう、1分! 1分だけ待ってて!」

「今日の分をチャージするから!」


「……あ、ああ」


何の分を? と聞く様子はない。

というか、見ればわかるってことだろう。

また呆れた顔に戻って、衣典は肩をすくめた。

僕は、改めて腕の中の灯絵の様子を探る。

僕の腰の辺りに回された、華奢な腕。

強く抱きしめているはずなのに、なぜかその力は宝物を扱うみたいに繊細に感じる。

そんな優しい心配りが灯絵らしくて、嬉しくなった。

……ただ、一つだけ問題があるとすれば。

僕の理性をちくちくと苛める存在が存在すること。

つまり、この体勢だと必然的に押し当てられるものが、二つもある訳で。


「その、なんだ」

「灯絵、当たってるぞ」


「当たるよ。当たっちゃうよ」

「抱きついてるんだもん、しょうがないよ」


「……あ、はい」


言葉少なな僕の指摘を、灯絵は一切動じることなくきっぱりとはねのける。

そして、胸の中、すっかり落ち着きを取り戻した声で問いかけた。


「——けーくん」


「はい」


「ほんとに大丈夫?」


「うん、ほんとに大丈夫」


「……心配、したんだからね」


「ごめん」


「今までデートにも一度も遅刻したことないけーくんだもん。心配しちゃうよ」


「だよな」


「だから、これからは頻繁に寝坊してね」


「わかっ……え?」

「そこは、もう寝坊しないでね、って言うところじゃないか?」


「今日みたいに、ごくたまに寝坊されたら心配しちゃうもん」

「人間、風邪も引くし眠い時だってあるもん」

「時々寝坊するくらいでちょうどいいよ?」


「……そんなもんかな」


——そう。

これが僕の彼女、赤浦灯絵だ。

テンパると途端にポンコツになって。

僕と比べて、少しゆるっとしていて。

どこか他人とズレている発言をする時がある。

だけど。

灯絵は顔を上げる。

僕と目が合う。

そして——ふにゃっ、といたずらっぽく笑った。


「そんなもんです」


「(可愛いよなぁ……)」


面倒見が良く、世話焼きで優しいところが。

大切なものを大切と言い、本当に大切にする真っ直ぐなところが。

いつでも、本当に楽しそうに笑っている無邪気なところが——

何よりの、灯絵の魅力だと思う。

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