プロローグ:死んだケーキと彼女(後編)
「……」
一瞬ためらう。
だけど、食べないという選択肢はない。
「……あーん」
僕は、差し出されるそれに噛みついた。
噛むたび、味のないふわふわした感触だけが、口に広がっていく。
その気持ち悪さをごまかすように、言う。
「おいおい、あーんは恥ずかしいだろ」
「付き合いたてのカップルじゃないんだから」
「いいじゃない、あたし達はアホップルなんだから」
「付き合って何年だろうと関係ないよ?」
「……いつも思うけど、何でバカップルじゃなくてアホップル?」
「バカよりアホの方が可愛げがあるもん」
「アホウドリだって、バカドリって呼ばれたら怒るでしょ?」
「それと同じだよ」
「それとこれとは違うと思うぞ」
「もう。細かいことは気にしないの」
「とにかくあたし達はアホップル。それじゃダメなの?」
彼女は、 少しすねたような顔で覗き込んできた。
甘える時の、僕にしか見せない、可愛い仕種。
だけど、僕はつい、ぎくりとしてしまう。
その目がひどく綺麗で、透き通っていてーー
心の奥まで覗き込まれているように感じるから。
「あっ……」
だから僕は、彼女の身体を抱き寄せた。
ドライアイスみたいに冷たい、その身体を。
「こ、こら」
少しだけ腕をつっぱって、抵抗する灯絵。
だけど、僕はその抵抗ごとぎゅっと抱きしめた。
だんだん弱まっていく抵抗と、華奢な肩幅。
それに、彼女のドライアイスみたいな冷たさが、服越しに僕の肌を刺してくる。
「(……はは)」
つい、笑ってしまった。
あぁ、やっぱりこれは、彼女じゃない。
そんなドライアイスのような確信と、
「だ、だめだってば……」
どうしてこれは彼女じゃないんだ?
という、どうしようもない熱い怒りの間を行き来しながら。
その腕の中、彼女は弱りきった声をあげる。
「ごまかすなぁ……」
「ごまかしてなんかないよ」
「嘘つき」
「こうされたらあたしが何も言えなくなるの、知ってるくせに……」
うん、知ってる。
だから、抱きしめたんだ。
「けーくん、ずるい」
うん、僕はずるい。
こんなの、ただ逃げてるだけだって、わかってるのに。
「ごめんな」
「ごめん、なんて思ってないくせに」
「思ってるよ」
「思ってないもん」
「……どうしたら信じてくれる?」
「じゃあ、好きって言って」
「好きだ」
「大好きって言って」
「大好きだよ」
「愛してるって言って」
「……愛してる」
「結婚しよう、って言って」
「結婚しよ……って、それはまだ早くないか」
「えへへ。1割は冗談だよ」
「それ、9割は本気ってことじゃん」
「当たり前だよ。3年も付き合ってるのに、少しも考えたことないの?」
「……そりゃ、あるけどさ」
「でしょ?」
そう。
確かに昔は、漠然とそんなことを考えていた。
だけど、今はもう、考えていない。
考えちゃいけないんだ。
そんな罪悪感にまみれた、最低の軽口を交わしてから、
「……えへへ」
彼女はぎゅっと、強い力で抱きしめ返してきた。
僕の胸に頭を押しつけるようにして。
だから、僕もさらに力を込めた。
ドライアイスを潰すみたいに、強く、強く。
できることなら、続く言葉もそうやって潰してしまいたかった。
だけど、それが叶わない望みだともわかっていた。
だって——きっとそれを言うために、彼女はまだここにいるんだから。
「けーくん」
「ん?」
そして彼女の口は、
「お誕生日、ありがとう」
「生まれてきてくれて、ありがとう」
「あたしと出会ってくれて、ありがとう」
「あたしと愛し合ってくれて、ありがとう」
想像通りの、一点の汚れもない言葉を紡ぎ出す。
僕を愛しく思う彼女からの、祝福の言葉だった。
「…………」
嬉しくないわけじゃない。
こんなになってまで僕の誕生日を祝ってくれる、その気持ちは素直にありがたいと思う。
だけど、
「…………」
『ありがたい』の後に『迷惑』という言葉が貼りついている。
どうしても、それを剥がすことができない。
――だって、僕の誕生日は、3ヶ月も前に終わっているから。
彼女が祝っている、今日という日。
もちろん、彼女にとっては1回目。
だけど、僕にとっては50回目の――
20歳の誕生日なんだ。
「ありがとう」
だけど、僕はお礼を言った。
言わなければいけなかった。
「ありがとう、灯絵」
わかってる。
こんな日々を続けても意味がないことは。
「……愛してる」
だけど、だったらどうすればいい?
何が、君の一番の望みなんだ?
「僕もだよ」
どうすれば、君は成仏してくれる?
僕の前から消えてくれる?
わからない。
わからないまま――
「んっ……」
僕達は、きっと、世界一冷たいキスをした。
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