第六章 八日目と……
第三十二話 お別れ
私が実家を出てアメリカの大学に入学したとき、フェンは同い年の青年を装って、同じ大学に入学して来た。まだ日差しの強い、夏の終わりのことだった。
「……ここまでする必要は無くないか……?」
「何のことです?」
如何にも大量生産向けのデザインの木造りの椅子に跨って、私は不貞腐れていた。その横で、フェンは二つのベッドに挟まれた狭い空間に溢れるラゲッジケースをテキパキと処理している。
「この事だ!わざわざ同室にするなんて、お前私を幾つだと思っている?」
「確か御歳18歳であられましたか?ようよう私の10分の1と言ったところですかねぇ。」
「お前との比率なんて聞いてない!私はもう子供じゃないと言っているんだ!どうしてお前と同じ部屋で見張られなきゃいけないんだ!!」
大学の学生寮とは言え、生まれ育った屋敷からも、比較的そこに近かった一族の寄宿学校からも離れての、初めての『人間社会』。その新しい生活への期待に、私は少なからず心を躍らせていたのだ。だと言うのに、幼少から私の面倒を見ていたこの男が一緒では、私の大学生活が台無しである。
如何にも不満げに言う私の態度などどこ吹く風か、フェンはしれっと言い返して来た。
「言っときますけど偶然ですよ?願書を出した時期が同じだったからたまたま、でしょう。私だって四六時中貴方の側にいて呆れ続けるのは疲れるんですよ?」
「どう言う意味だ!?」
「あ、因みに、念の為言っときますが貴方自分の荷物の荷解きは自分でしてくださいよ?まさか18にもなって、整理整頓も出来ないとか無いですよね?ルームメイトが居るんですから、少しは気を使ってくださいよ?あ、あと掃除は当番制ですからね?床は掃除機と、あとバスルームは……」
つらつらと続く彼の小言に、私はぐったりと項垂れて頭を抱えたのだった。
偶然だったのは本当のようだが、私の新生活が台無しになった事に変わりは無い。私は、当てつけとばかりに彼を無視し続けた。
同じクラスに彼がいれば出来るだけ離れて座り、食事も別々、勉強もなるべく図書館を使った。就寝のために部屋に戻る時以外は、彼と顔を合わせることはほとんど無かった。
「お前ルームメイトに冷たいよな。あいつ何かしたの。」
廊下ですれ違っても挨拶すらしない私を見て、親しくなった友人は笑い半分で私に聞いて来た。私は素知らぬふりを貫いた。
「別に。合わないやつの一人や二人、居るだろう。」
私は、これ見よがしに人間たちと交友を深めて行った。私は早めの卒業を視野に単位を多めに取りつつも、学友達と共に学生らしい生活を謳歌していたのだ。
医者になろうとすれば、四年かけて良い成績で修士を取得後、大学院に入学して卒業する必要がある。しかし私は幼少期から個人的に勉強に励んだお陰で、同年代の級友達よりはかなり知識と学習速度に余裕があった。それなりの時間は勉強して過ごしながらも、余暇の時間は気の合う友人達と様々なアクティビティに繰り出していた。
パーティーに参加したり、ボーリングに行ったり、ライブを聴きに行ったり。夏はキャンプに行って釣りや湖への飛び込み、海に行ってサーフィンやビーチバレーをし、冬はスキーに行った。シーズンにはフットボールの試合を観戦し、時にはガールフレンドを作ったり、仲間と殴り合いの喧嘩をしたりした。
学年ごとに寮が決められていたため、進級して寮を移動した時にフェンとは別室になった。私は見せつけるように友人やガールフレンドを部屋に呼び、また、彼らの部屋に入り浸った。
この頃の私は、もう二度と一族と関わりを持つ事は無いのでは、とすら考えていた。
半吸血鬼がその特質に目覚めるのは、一般的には身体が成長しきった頃だと言われていた。20歳になっても一向にその兆候の現れない私は、自分は運良くただの人間のままなのだろうと、楽観的に考えていたのだ。
開放的な大学での生活の中で、私はその快適な日常が当たり前なのだと信じるようになった。
きっと私は血を欲することなど一生無く、友人達と共に普通の人間として生きていく。大学を卒業し、医師の資格を取り、何処かの病院に勤め、結婚して子供を育て、老後は穏やかに過ごし、家族に見守られて最後を迎える。
まるで、吸血鬼の一族に生まれたことなど、嘘のように。
そうなればいいと、願っていたのだ。
そして、変化は突然現れた。
ある日、大学の寮で狂乱者による障害事件が起こった。
遠くから悲鳴を聞いて私と友人達が駆けつけた時、犯人は既に勇敢な寮生達に取り押さえられ、辺りには人集りが出来ていた。
ざわめきの中で、私の視線は床に散った血痕と、倒れたまま救急車を待つ負傷者に釘付けになった。
無造作に散らばる小さな赤い点。
まだ乾いておらず、僅かに光を照り返している。
負傷者と、その傷の応急処置を試みている者達の服と手には、鮮やかな赤色がかすれて広がっていた。
血。
––––––ああ、良かった。あいつ、怪我はそこまで酷くは無さそうだ……怖い事だ。酒を飲み過ぎた馬鹿か、それとも薬をやってたやつか?それとも何かされた仕返しか?あいつ、何処かで見たことあるぞ。確か一般教養のクラスで……それにしても取り押さえたやつは偉い。ああ、フットボールチームの……これであいつは更にモテるはず––––––
そんな事を頭の片隅で考えながら、私は自分の身体に起こっている変化に混乱していた。
ごくりと、喉が鳴った。
そんな。
嘘だ。
嫌だ。
「おい、ルイス?」
隣にいた友人が、ぐいと私の肩を引いた。
「どうしたんだよ、お前。なんか、震えてねぇ?」
「あ……」
「うおっ!?なんだよその汗。具合悪りぃのか?」
私の顔を見て、驚いたようにそう言った彼。
その首筋に視線が吸い寄せられた。
私は彼を突き飛ばして、走り出した。
「おいルイス!?」
呼び止める声を後ろに聞きながら、私は走る速度を変えなかった。そして寮を飛び出す。
––––––嫌だ。
そう心の中で叫びながら、私は走り続けた。
肺が痛くなるほど走り続けた。
とにかく、あの場所から離れたかった。
そして、誰も私を知らない場所に行きたかった。
誰にも、私の変化を見て欲しく無かった。
変わりつつある自分を、認めたく無かった。
走る事で、その変化から投げられればいいと願った。
何が変わるのか、何が変わらないのか、分からないことが恐ろしかった。
幼い頃のあの悪夢から追われているような気がして、私は逃げ続けた。
広大な大学の敷地を出て、市街地に入り、歩くのと変わらない速度でしか足が動かなくなっても、私は止まらなかった。
気がつくと、視界の中央に、赤毛の男の顔があった。その背後には、見慣れた寮の天井がある。
フェンの顔を見たのは久し振りだと、ぼんやりと思う。実際、彼には数ヶ月会って居なかった。そして声をかけようとして、掠れた喉から音が出ない事にも気が付いた。身体も動かなかった。
私が横たわっているのは自分の部屋のベッドだ。きっと倒れるまで走り続けてフェンに回収されたのだろうと、回らない頭で考える。
また途切れかけている意識を留めるように、フェンが口を開いた。
「全く、手間を取らせて……何もあんな所まで行かなくてもいいでしょう?只でさえ私は、太陽が出ているうちに動いていると力を吸われるんですからね?」
フェンはそう言いながら、私の横に何かを置いて、何やら作業をしていた。私の視界は霞み、何をしているのかはっきりとは見えない。
「私のところに真っ直ぐに来てくだされば良いものを……全く、何のために私がいるのやら。さ、坊ちゃん、これを飲んで。」
––––––飲む?
口の中に何かを入れられたかと思うと、口内に恐ろしく味の濃い液体が広がった。
瞬間、意識を何かにがつんと殴られたような衝撃を感じ、唾液が滝のように溢れ出た。
私はそれをフェンの手から引ったくった。最後の一滴まで残すまいと、夢中で啜った。
舌と口内の表皮全て、鼻腔と、そして脳髄までもが、その甘美な芳香に満たされる。その刺激に、全身が震えた。待ち望んでいたものを、歓迎するかのように。
旨いなどという言葉では、形容できなかった。私がそれまで口にしたどんなものよりも、それは素晴らしかった。まるで、液体から直接快感が身体に染み入るような感覚だった。いくら飲んでも足りない、もっともっとと、全身がまたその刺激に満たされるのを欲しているようだった。
「坊ちゃん、」
すぐ横で、フェンの声が聞こえた。見れば、視界を覆う黒い影の向こうに、俯いた私を覗き込む少し不安げな表情の顔があった。
「大丈夫ですか?最初は刺激が強くて辛いでしょう。それとももっと欲しいですか?あまり飲みすぎても良くないですから、最初は少しずつがいいんですが……」
飲む。
今のは―――
私は、彼を思いきり突き飛ばした。
同じくらいの体格であるはずの彼の身体は、驚くほど軽く、部屋の端まで吹っ飛んで行った。
彼が壁にぶつかって立てた盛大な音を気にも留めず、私は手に持っていたシリンジを放り出して指を喉の奥に突っ込んでえずいた。
「ぼ、坊ちゃん!?」
よろよろと立ち上がってやってきたフェンに、私は吐くのを止めて怒鳴りつけた。
「触るな!!」
彼は、驚愕の表情で凍り付いた。
「俺に触るな!!二度と触るな!!」
「坊ちゃん……?」
「うるさい!!俺は、吸血鬼になんてなりたくなかったんだ!!あんな……あんなおぞましい存在に……畜生!!」
「坊ちゃん……」
「黙れ!!大嫌いだ!!吸血鬼なんて……おまえも、おまえが仕えるあの鉄仮面も……!!」
私を見下ろすフェンの顔から驚きは去り、残ったのは憐憫の表情。私はふらふらと立ち上がった。それを支えようとするフェンの腕を振り払って、私はまた叫んだ。
「出ていけ!!目障りなんだよ!!お前も、お前のその髪の色も!!」
私は、もう彼のほうを見なかった。
少しして、足音とドアを開ける音、そして閉じる音がした。
私は静かになった部屋でひとり、何度も何度も唾を吐き口を拭い、口の中にまとわりつくあの味を消そうとしていた。
落ち着くと、私はすぐさま大学の受付に行った。他の大学への編入手続きをするためだった。そして私は友人やガールフレンドには一切事情を告げず、黙ってそこを去った。彼らとはそれっきり会ったことは無い。
私がプライベートでの人との関りを絶ったのは、それからだった。
フェンだけは、私の意図には反してそれからも私の周りにとどまった。それからというもの、私に会うときは必ず帽子を被って。何年たっても慣れないのか、私の前で何度も外したり被ったりを繰り返しながら。
「『使者』?」
新しい大学で、愛想のない人間として人物像を確立したころ、フェンは私のもとに初めて父からの封書を持って来た。
「ええ。一族の一員としてのあなたの使命です。世の秩序を守るための。」
私を『管理者』の『使者』として、フェンと共に定められた地区を管轄することを命ずる内容の文書を読みながら、私は顔をしかめた。
「まずは一通りの能力をチェックさせてもらいますが、まぁ恐らく貴方は腕力に極振りでしょうね。不本意だとは思いますが、これがあなたの運命です。前向きに受け止めて……」
「止めないぞ。」
手紙をくしゃりと丸めながら、私はそう言った。
「医者になるのは止めない。いいさ。手伝えばいいんだろう?やってやるさ。だがそれ以外で私の人生に口を出すなよ?」
そうやって、私の使者としての務めは始まった。
無事大学を卒業してから医学部に入り、専門科目の受講が始まり、やがて実技が始まった。
私は、自己の欲求は血液の匂いよりも視覚的刺激により煽られることを徐々に学んでいった。しかし幸か不幸か、わたしのその反応は、自他ともに認める異常なまでの興味と集中力となって私の医学的知識と技術に貢献することとなった。結果、私は血液に翻弄されながらも外科を目指すという、皮肉な選択を取ることとなる。
外科医として申し分ない素質を持っていることは自負していた。しかし使者として数年ごとに移動する生活では、ひとところに留まって専門分野を極める医師を目指すことは不可能だった。そうなるための専門家たちとの深いつながりも、求めるわけには行かなかった。結果、私は一般手術のパートタイム医師としての求人を見つけては、各地の病院を転々とする生活を送ることとなった。
それでもいいと思っていた。
吸血鬼という特質が治療できるものではないということを理解してからは、私はただ、最低限の義務だけをこなし、それでも自分が理想とした生活にできるだけしがみついて生きようとしていた。
出来るだけ、人間らしい生活を。
そうやって私は、私が果たすべき使命から、ずっと目を背け続けて生きてきたのだった。
◆◆◆
煉瓦色のタイルが覆う一室で、タバサが用意した喪服に身を包んだクリスティーナは、ゆっくりと部屋の奥に歩みを進めた。
その先には、白く大きな長方立方体の木箱がある。
彼女の父親の身体が納められている、通常より大きなサイズの棺桶だった。
獣の姿のまま息を引き取った彼は、無数の花に覆われてその中に横たわっていた。
瞼を閉じて牙を覆うように細工をした状態ではあっても、その容貌に彼女が怯えやしないかと、私は内心ハラハラしていた。
ここはこちら側と繋がりのある葬儀場のひとつだった。その小さな一室で、私とクリスティーナの世話を頼んでいた者達は黒い服に身を包み––––––フェンに関してはいつも通りだが––––––、クリスティーナと父親の最期の瞬間を見守っている。
当然、彼女の親族や友人は呼ぶ事は出来なかった。祖母は施設にいるし、彼女の友人の誰一人として、人にあらざる者の存在を知る人物は居ないのだ。勿論、その事をわざわざ知らせる訳にもいかない。
故人の血縁者に関しては不明な点が多く、残念ながら見つける事は出来なかった。人間の社会で生きる者では無い可能性もあったが、もし見つかったとしても縁は薄かっただろう。それに、彼が我々『使者』に追われる身になってしまった時点で、関わりを望む者は少なかったかも知れない。勿論、人間社会における知人は居たとしても、彼がこの姿では招き入れる事は出来なかった。
彼女は案外落ち着いているようだった。冷たくなった父親の顔を、じっと見つめている。
すい、と、クリスティーナが片手を棺桶の中に伸ばした。
細い手が、彼の頬をそっとなぞる。その毛並みに沿って、クリスティーナは何度もそれを繰り返した。
「ありがとう、お父さん……」
クリスティーナの呟きが聞こえた。
「私、あなたのお陰でドクターに会えたね……」
その言葉に、私は息を詰まらせる。胸が痛かった。
「天国で、ちゃんとかあさんと仲直りしてね。ずっと、寂しがって居たんだから……」
そう言って暫くしてから、彼女は身を屈めて、彼の額に口付けを落としたのだった。
◇◇◇
生憎の雨の中––––––この地域ではお馴染みの天気だが––––––、郊外にある霊園で、彼女の母の墓の隣に納骨を済ませた。
先に彼女に納骨場所をどうするべきか意見を聞いた時、彼女は控えめに私に言った。
「母さんの側にしてあげることは出来ますか?きっと、喜ぶと思うんです……かあさんも、恨み言なんかひとつも聞いたことが無くて……言葉にはして居なかったけど、きっと会いたかったんだと思うんです。」
それから、
「もしそうじゃなかったとしたら、私の為に、また一緒になって貰っちゃいます。」
と加えて、クリスティーナは微笑んだ。
生前、一度も彼女の前で揃わなかった二人。せめて没後は、と言う事なのだろう。
私が持つ雨傘の下、真新しいものと、僅かに変色したものとの二つの墓石の前に傅いて、クリスティーナはそれぞれに花束を供えた。そして、両手を組んで少し俯く。暫くして彼女が立ち上がった後、私達も順番にそれに倣った。
「ドクター。」
私が黙祷を終えると、クリスティーナが声をかけてきた。
「有難う御座いました、父さんのために……何から何まで……。」
「……問題無いよ。僕が出来る些細な事だ。ゆっくりお別れを言えたかい?」
「はい、ドクターのお陰です……。」
クリスティーナは、優しく微笑んでそう答えた。それからもう一度墓石へと視線をやり、またささやかに微笑んでから、ゆっくりと踵を返した。私がその肩を抱いて進み、私達は揃って墓地を後にした。
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