第三十一話 ドクターの決意

 私は、泣き疲れてしまったクリスティーナに少しの休憩を提案した。


 彼女を抱き上げて寝室に向かい、承諾をもらってからドアを開けた。ベッドに彼女を横たえて、その端に腰をかける。彼女が昨晩も使ったのであろうベッドからは、あの甘い匂いが強く香った。それはもう理性を奪うことは無かったが、それでもそれが快い感覚である事は変わらなかった。


 不安げに、クリスティーナが私の袖をつかんだ。その手を取って、微笑んで伝える。


「大丈夫だ。どこにも行かないから。君が眠るまでここにいるよ。」


 腫れてしまった瞼と頬が痛々しくて、私は別の手を伸ばしてそれを撫でた。クリスティーナは目を細めて、繋いだ手をきゅうと握って引き寄せると、それに寄り添うようにブランケットの中の身体を丸めた。彼女の吐く息が、私の指をくすぐった。


「ドクター……あの時のこと、ごめんなさい……」


 そうクリスティーナがそう呟いたのが聞こえた。私は、いつのことだかすぐには思い出せなかった。


「あの日、夜明けにドクターが返ってきたとき……私、おかしかったでしょう?」

「……あぁ。」


 彼女の父親を最初に捕まえようとして失敗した日だということに気づいて、私は思わず声を上げた。私が、ハニーに拒絶されたと思ってとても落ち込んだ朝のことだ。



「私ね、あの時少しだけ、ドクターのことを疑ったんです。」



 私の手を握る力がほんの少し強くなった。私は同じだけ握り返して、親指で彼女の指の付け根をさすり、彼女の次の言葉を待った。


「私、時々抜け出して、自分の家に帰っていて……それは、また父さんが戻ってくるかもしれないって思ってたのもあったんです。……母さんの残したお金もあったから、探偵にも頼もうかとも思っていて、でも……もし見つかっても、何を話せばいいのかわからなくて、何となく怖くて出来なかったんです。

 それで、あの日、父さんの匂いがドクターからした時、私、どうしてドクターとあの人が繋がるのかわからなくて……」


 当然だ。あの時のハニーは、私が『使者』として働いていたことも知らなければ、自分の父親が狼男だということも知らなかったのだ。『人にあらざる者』の存在など、映画の中でしか知らなかっただろう。急に現れるフェンに警戒しては居たが、彼が人間では無いことは理解していなかったに違いない。


「私、自分が犬の姿になったのは、父さんが私に何かをしたからじゃないかって思っていたんです……。それでね、あの時、もしかしたらドクターが、父さんと仲間だったんじゃないかって思って……」


 クリスティーナの声は、そこで一度途切れてしまった。それから彼女の肩が震え、掠れたような声が絞り出される。


「ごめんなさい……」


 私は握った手を軽く揺すって、別の手で彼女の頭を撫でた。


「いいんだよ、クリスティーナ。僕は気にしていないから。」




 彼女の疑いは納得の出来るものだった。あの時の彼女は自分の血に交じる人狼の特性も、私がなぜ彼女の父親と出会う理由があるのかも、全く知り得なかった。そのうえ私との出会いは、父親により仕組まれたものではなく、全くの偶然だと思っていたのだ。それが突然、私が彼の匂いを強くさせた状態で現れれば、混乱するのは当たり前だろう。


「そうか……それで、君はあの日病院まで追って来たんだね?」

「……もしかしたら、またドクターが父さんに会うんじゃないかって思ったんです。それに、もしかしたら病院の患者さんとして父さんが居たんじゃないかって、思いついて……。

 でもドクターとお話する機会が出来て、そんなわけないって思えたんです。ドクターが私を陥れるようなことを、するはずがないって。」


 あの時、初めて会ったクリスティーナを相手に、ハニーのことを語った事を思い出す。どうやら私は、彼女に潔白を納得させられるほどには彼女の拒絶を気に病んで見えたらしい。実際そうだったわけだが。少し、耳が熱くなった気がした。


 ふふ、と、涙で濡れた瞳のまま、クリスティーナが笑った。


「私、夢だったんです。ドクターとお話しするの。」


 ふわりと、彼女に握られている私の手の指が、彼女の唇に触れる。


「いつも、人の姿でお話できたらいいのにって、思っていたんです……」

「だからあの時、デートに誘ってくれたのかい?」


 私の言葉に、クリスティーナはブランケットを引き上げて顔を隠してしまった。だが握った手は未だ解放されていない。


「……私ったら!あの時は、ほんとに嬉しくて……ああもう、私ったら凄いはしゃいでましたよね?恥ずかしい……」


 ブランケット越しに聞こえるくぐもった声に、私は少し笑ってしまった。それから、あの時彼女が出してくれたブラックのコーヒーを思い出す。私のために準備してくれたという、特別な品。あの時は、口をつけずに去ってしまった。せっかく買ったサーモンも、特製のチーズも。


 ブランケットからはみ出た彼女の頭を撫でながら、私は静かに言った。


「恥ずかしがる必要なんてないよ、クリスティーナ。僕も一緒だ。ずっと、話せたらいいと思っていた……。」

「……私、ドクターの側に居るの、嬉しくて……居心地がよくて……気が付いたら……一年も……」


 幾分落ち着いた彼女の言葉は、切れ切れに聞こえてきた。きっともう、彼女の意識は睡魔に絡み取られているのだろう。ブランケットを少し押すと、彼女の閉じた目がはみ出して見えた。私はかがんで、そのこめかみに口づけを落とす。


「少しお休み、クリスティーナ。タバサには、夕食の時間になったら起こすように伝えておくよ。」


 クリスティーナは、わずかに頷いたように見えた。




 あまり時間をおかずに、規則正しい寝息が聞こえて来る。もしかしたら、昨晩もゆっくり眠れなかったのかもしれない。


 父親のあの言葉は、多少なりともこの数日彼女の心を蝕んでいたに違いない。もっと早く真実を伝えに来られたら良かったのにと、私は自身の身体の変化を恨んだ。しかし、これで彼女の憂いは少しは晴れたはずだ。少なくとも、彼女が私のもとへやってきた理由に関しては。




 彼女は母親を不慮の事故で突然失い、父親に意図せず出会ったかと思えば、突然身体に変化が起こり、こともあろうに犬の姿になってしまった。何とか人の姿に戻れたはいいものの、元の生活には戻れずに私の所へ帰ってきた。そして、一年もその真実を知らずに居た。


 母親の件は仕方がないにしろ、クリスティーナが私の元に来てからの困難は、本当なら私が即座に解決してやれるものだった。


 そう、であったならば、いとも簡単に。




 今の私には、彼女が普通の人間では無い事はだった。


 文字通り、なのである。




 血を口にした事による私の能力の変化は、私に普通の人間とそうで無い存在の、目視による判別を可能にした。今の私であれば、人か人にあらざる者かは一目見るだけで簡単に判断することが可能だった。今やどんな人外も、私の前でその存在を偽る事は出来なくなったのである。


 どんな風に違うかと言われても、上手く説明は出来ない。ただ、解るのだ。例えばフェンとダニーでは、受ける印象が全く違うのである。今までこれ程明らかな違いに気づかなかったのが、不思議なくらいであった。


 まだあの日からハニーの姿は目にしていないが、今の私であれば、少なくとも違和感くらいは感じるだろう。そうであれば私はそれなりの対処をしただろうし、彼女はもっと早く、人らしい生活に戻れたはずだ。


 一年間も、雌のゴールデンレトリーバーのふりをして暮らす必要は無かったのだ。




 父親の事も、もっと早く解決出来たはずだった。




 彼女が人の姿になれれば直ぐに私に相談出来ただろう。いや、そもそも彼女が犬の姿になってしまう前に、事はおさめられたかも知れない。


 今の私であれば、フェンよりも簡単に標的を見つけられるはずだ。


 この街に来た時点で彼が何処に居るかを特定するのも、さほど難しい事では無かっただろう。そして、生きたまま捕縛することも––––––




 私は握られていた手をゆっくりと解いてから、穏やかに眠るクリスティーナの首元のブランケットをそっと下げた。ふわりと柔らかい、ピンク色のトップの襟元を少しだけずらす。




 彼女の鎖骨の片方には、斜めに走る薄ピンク色の傷跡があった。


 それは、胸の中央を走り、反対側の乳房まで届いているはずだった。




 彼女の傷はどういう訳か、あの出来事の直後には既にほぼ完全に塞がっていた。たった数日後の今は、かさぶたすら残っていない。


 人狼としての驚異的な回復力の強さを、彼女も持ち合わせていたのだろう。その後は外的処置は全く必要なかったが、酷く衰弱していたため、点滴の為に医師を呼んだ。先ほどの会話で、彼女は人型になる時に空腹が激しくなると言っていた。恐らく、体型の変異と傷の回復で、力を使い果たしてしまっていたに違いない。


 それでも薄く傷跡が残ってしまうほど、彼女の受けた損傷は大きかった。




 まだ傷が開いたままだったそこを、自分の舌がなぞったのだという事実に、あの時の強烈な味覚による快感の記憶と、それを覆い尽くすほどの吐き気を伴った嫌悪感が同時に湧き上がった。


 さっ、と彼女の襟とブランケットを戻す。そうした私の手は震えていた。


 その震えは禁断症状では無く、純粋な、吸血行為に対する嫌悪によるものだった。




 あの時、私は彼女の血による視覚的、嗅覚的刺激で、遂に理性を失った。


 そして、瀕死の彼女の生き血を啜った。




 あの、抗えない程の快楽。


 それに脳髄まで侵されて、溢れ出たエネルギーに酔ったまま、私は––––––






 不意に、遠くでノックの音が聞こえた。スイートルームの入り口から、誰かが入って来ようとしているのだろう。私はクリスティーナのブランケットをもう一度掛け直して、そっと立ち上がった。


 寝室を出て扉を閉め、応接間に行くと、タバサが置き去りにされたティーセットを片付けようとしていた。


「それはいい。まだそのままで。」


 私はそう声をかけて、再度、もといたソファーに腰掛けた。そしてカップを手に取って、半分残っている、冷めてしまったコーヒーに口をつける。


「新しくお入れしますよ?」

「いや、これでいいんだ。有難う。タバサ、夕食の前にクリスティーナを起こしてやってくれ。今は寝室で休んでいるから。」

「分かりました。まだお夕食は何が良いかお聞きしていませんでしたけど、どうしましょう?」

「……そうだな。ステーキを用意してやってくれ。焼き加減は……」


 ハニーであった時の彼女の好物を思い浮かべて、私は、クリスティーナの事を全く知らない事を思い出す。ハニーにはウェルダンのものしかあげなかった。きちんと火の通ったものしか与えないようにしていたからだ。しかし、クリスティーナの好みは、違うかもしれない。


 一年も側にいたのに、私は彼女の好きな食べ物さえ知らないのだ。私が与えたもの以外では。


「……彼女が起きたら聞いてあげてくれ……。それから、好きなデザートも。」

「かしこまりました。」


 心なしか、見覚えのある彼女より更ににこやかに、タバサは答えた。


「ご一緒されますか?」

「……いや、私は帰る。また明日来ると伝えてくれ。フェンは?」

「ここに。」


 首を反対に回せばいつの間に現れたのか、恭しく礼を取ったフェンがいた。私は、それを見てがっくりと項垂れてしまう。


「……お前、それはどうにかならないか?」

「……すみません。つい……」


 随分昔から、彼とはカジュアルな関係を築いてきた私には、彼のこんな態度には違和感しか感じない。如何にも不本意そうに答える様子から、彼の態度は彼自身にとっても不随意なものであるらしいが。


 私が生まれる前から長く父に使えていたフェンのことだ。恐らく、今の私は容姿だけで無く発する雰囲気が父親そのものなのだろう。それこそ私にとっては不本意な事実だが、その私に対して、思わず父親に対する時の癖が出てしまっているに違いない。




 気を取り直して、私はフェンに言った。




「明日、ベンデール氏の葬儀を行う。手配を頼めるか。」




「……それは、構いませんが。」

「先方にも、随分待たせてしまったからな。急いだ方が良いだろう。」


 クリスティーナの父親の身体は、処置を済ませてに繋がりのある葬儀屋に預かってもらっていたのだ。保存技術は高くなったとはいえ、この季節にこれ以上先延ばしにするのは避けたかった。


「お嬢には、もう言ったんで?」


 先ほどより幾分砕けた調子で、フェンが聞いてきた。


「まだだ。だが……きっと彼女は来るだろう。」

「話はついたんですね。」

「……そうだな。父親のことに関しては……。に関してはこれからだ。一度に全部、話すのも酷だろう。彼女に無理を強いたくない。」

「相変わらず過保護な事で……」

「何か言ったか?」

「いいえ、何でも。」


 私が睨めば、彼は素知らぬ顔で視線を逸らす。その様子に苛立ちを感じない訳でもなかったが、私には安堵の方が大きい。彼は、やはりこうでなければ。


 私は立ち上がりながら続けた。


「私は一度帰る。借家の荷物をまとめなければいけないからな。明日の朝食後に来ると、彼女には伝えてくれ。」

「了解です。ああ坊ちゃん、移動先の手配ですが、仕事に関しては手配は少しかかるようですよ。なんせ、今までの経歴は使えませんから……」

「その事だがな、」


 私の医師としての就職先に関して言及するフェンの言葉を、私は遮った。



「必要無い。」



「……坊ちゃん?」

「……必要無い。医師は辞める。」


 目を見開いて私を見ているであろうフェンの方は振り向かずに、私は小さいため息を吐きながら言った。


「二足の草鞋わらじは終わりだ。これからは、私がやるべき事だけに時間を費やす。それと……」


 フェンは何も言わない。何も言えないのかもしれない。


「……私のを定期的に手配してくれ。直接でなくていい。味も問わない。用を足せればそれで良い。ああでも、それも自分でやるべきか。今ならお前と同じように動き回れる……」

「坊ちゃん!?」

「それと、」


 私は、今度はきちんと、驚愕するフェンの方に向き直って言った。




「お前、もう帽子を被らなくて良いぞ。」




 息を飲む彼の表情に、私は少し微笑んでから、霧に姿を変えてその場を去ったのだった。

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