第三十話 おとうさん


「あの時は……」


 そこでクリスティーナは言葉を止めてしまった。少し俯いた彼女の表情は、髪で隠れて私からは見えない。


 私は、固唾を飲んで待った。


「怖かったんです……。」

「怖い?」


 クリスティーナはこくんと頷いた。


「……あのまま元の生活に戻っても、それまでの二ヶ月間は消えないでしょう?また犬になってしまうかも知れないし、それがもし誰かにバレたら大騒ぎになってしまうし……それに、犬になってしまったなんて、誰に相談したら良いか分からなくて。」

「そうだね……。」

「母も亡くなったばかりだったし……私、不安だったんです。」


 クリスティーナは、すい、と顔を上げて、真っ直ぐに私を見て言った。


「あの時、電話をかけたのは私です。」


 ハニーが消えた翌日の無言電話。やはりあの時の電話の相手はクリスティーナだったのだ。予想通りの申告に、私はただ頷いた。


「本当は、あの時に伝えようと思ったんです……。」


 クリスティーナはまた、俯いてしまった。


「でもやっぱり怖くて……もし、信じてもらえなかったらって。」


 あの時の彼女が、私が半吸血鬼である事を知る由は無かった。彼女の怯えは当然である。


 私は、項垂れる様にして彼女の頭に自分のそれを乗せた。


 ––––––あぁ、やはり今回の事は、私さえしっかりしていれば……


「それに……」


 彼女の話は終わっていないようだった。




「ドクターの事、傷付けたく無かったんです。」




 自分の身体が、びくりと一瞬震えたのが分かった。




居なくなってしまって、ドクター、凄く心配してくれていたでしょう?……本当の事は言えなかったけど、でも、犬の姿で居られるなら、ドクターの側に居たいって思ったんです。」


 私はクリスティーナを抱き寄せ、両手で彼女の背中を囲った。そうしたのは、彼女の事がいじらしかったからなのか、それともあの時の自分の惨めな様子を恥じたからなのか。それとも、そうせずには居られないほど、胸が痛かったからなのか。多分、その全てだろう。


 彼女は続ける。


「誰にも話せないけど、ドクターは犬である私を受け入れてくれて、知ってくれたから……私は、自分が犬の姿に変わってしまったってとことから、目を背けたくなかったんです。どうしてこうなったのか、ちゃんと向き合って、ちゃんと知りたかった。だから、犬である私を大切にしてくれた、ドクターの側に居たかったんです。」


 胸が痛かった。


 彼女は、話せないなりに、私を頼ってくれたのだ。


 私は、ほんの少しだけ、救われた気持ちになっていた。


 だが、胸の痛みの理由はそれだけでは無いような気もした。


 胸の中でクリスティーナが少し笑う。


「私、時々人の姿になって抜け出していたんですよ?気が付きました?」

「そうみたいだね。書斎の奥で、ボストンバッグを見つけた。あれは君の物だろう?」


 つい先日、引っ越し作業の際に、私は物置になってしまっていた書斎の奥で見覚えの無いバッグを見つけていた。中には女性用の衣類が少しだけ入っていたので、私のものでは無い事は確実である。彼女が外に出る時に必要な物を入れておくのに使っていたのだろう。


 見れば書斎の窓の鍵は開いており、シャッターも内側の留め具は外されていて、彼女がそこから出入りしていたことは明らかだった。恐らく、裏から庭の隅を通って通りに出ていたのだろう。道理で表の監視カメラには引っかからないはずだ。


「……母は、保険に入っていたんです。だから、家の維持費は心配する事は無くて。でもたまに郵便物を整理したり、掃除をしたりしに帰っていたんです。ふふ、ドクターのお家、凄く近くてびっくりしました。」

「ああ、僕もだよ。警察が、君の事を調べていたのは知っていた?」

「えぇ?……一度、うちに来てお話をした事はありましたけど……」

「その後も、不在な事が多いから不審に思って調べていたらしいんだよ。」

「そ、そうだったんですね……もしかして、ジェフが相談したのかなぁ……あ、ジェフって友人なんですけど、家も近くて、小さい時から仲が良くて。何度か問い詰められたんですけど、勿論教えてなかったから……」


 見知らぬ男の名前に、途端に私の胸の辺りがざわめいた。随分と打ち解けられたと思ったのに、何故だかまた、落ち着かない気分になる。


「彼に相談しようとは思わなかった?」


 そんな質問が不安を解消するとも思え無いのに、気が付けば口をついて出ていた。


「彼は……ふふ、ちょっと頼りないから。それに、」


 クリスティーナが、腕でぐいと私の胸を押した。私は、腕の拘束を解いて彼女を解放する。鼻と鼻が付くほど近いところに、彼女の顔があった。




「話すなら、ドクターが最初って決めてましたから。」




 紅茶色の透明な瞳が、微笑んでいた。


 口角のきゅうと上がった桜色のくちびるの間から、つるりとした歯が覗く。




 不意に、その硬さを確かめたいという、可笑しな欲求に駆られた。




 ハニーの歯の掃除を、獣医には任せずに自分でした事があった。指にガーゼのようなものを巻き、歯の表面を磨くタイプのものだ。


 彼女は嫌がりながらも、辛抱強く口の中で私の指が蠢くのに耐えていた。尖った牙でうっかり私の指を噛み挟んでしまわないように必死に口を開きながらも、舌は反射的に動いて私の指を追い出そうとしていた。




 ハニーの歯は陶器のように硬くて、口蓋はデコボコして濡れていた。


 クリスティーナは?




 私が手を伸ばしてしまう前に、不意に、視界を彼女の髪が閉ざした。


 私の目の前には、彼女のつむじがある。


「でも、あんな理由だったなんて……」


 絞り出すようなクリスティーナの声に、私は一瞬、彼女が何を話しているのか理解するのが遅れてしまった。


「……私、知らなかったんです。父親のこと。」


 父親。その言葉で、彼女がログハウスでの狼男とのやり取りの事を言っているのだと気付く。



(バカな娘)

(そいつを食い殺してくれるのを、待っていたんだ)

(ずっと待っていたのに、この役立たずめ)



 私は、一番伝えなくてはならなかった事を思い出した。


「母は、教えてくれなかったんです。父のこと。聞いても答えてくれなかったし、でもその度に辛そうだったから、私も聞かなくなって……でも、まさか、あんな……あんなひとだったなんて……」

「クリスティーナ。」


 震え出したクリスティーナの肩を掴んで、身体を離す。彼女はまた、泣いていた。


「ドクターと出会ったのが、あんな理由だったなんて……」


 クリスティーナの表情が、くしゃりと歪む。


「クリスティーナ、違う。違うんだ。」


 私は、嗚咽を漏らしながら沈みそうになった彼女を揺すり起こした。違うと言われて戸惑った表情の彼女の瞳は、溢れる涙でキラキラ輝いていた。その美しさは、今は私を焦らせるばかりだった。




「あれは、彼が言ったのは、本心じゃない。」



 私はそう断言した。




 理性も無いはずの、堕ちた狼男が、実の娘にぶつけた残酷な言葉。


 あれは間違い無く、父親が、愛する娘に贈った言葉だった。




 フェンがくれた情報から分かった、狼男の真意。話す順番は分からずとも、それが、私が彼女に伝えなければならない一番大切な事だと言うことは、分かっていた。


「彼が君を僕の元に置いて行ったのは、決して、僕を食い殺すのを期待していたからじゃ無い。」


 私は、まだ訝しげに眉を寄せたままの彼女を見つめて力強く言った。


「いいかい?人狼の習性は、生まれつき凶暴なわけじゃない。ましてや君は、純粋な人狼では無くハーフなんだ。おまけにその力に目覚めたてだった君に、本気で僕を食い殺すことを期待していたなんて、考えられないんだよ。」


 私は、彼女の横に深く座り直し、少し屈んで視線を彼女と合わせた。彼女の肩に片手を置いたまま、もう片手で彼女の手を握って。


 私は、彼女の誤解を解こうと必死だった。


「人狼が……堕ちる、と僕たちは言っているけれども、理性を失って人を襲うようになってしまう時はね、何かをきっかけにして、少しずつ中毒症状のように自分を失っていくんだ……。僕は、フェンがくれた記録から君のお父さんの足取りをよく調べた。彼の場合、最初に事件を起こしたのは……相手が軽い怪我を負った事件だけど、これは君が生まれる前に起こっている。」


 クリスティーナは、初めて聞くであろう父親の話をじっと聞いていた。


「彼は……君のお父さんは、その後も手配されてしまう決定的な事件に及ぶまでに何度か荒事に関わっている。だけど……君の生まれた時期とその前後は長い間、その記録がないんだよ。」


 私は、困惑したままの彼女の瞳を覗き込むようにして言った。どうか、伝わるといいと願いながら。


「僕は、彼はやり直そうとしていたんじゃないかと思っているんだ。」


 クリスティーナは更に眉を寄せて、視線を下げて泳がせてしまった。その仕草に滲むのは、懐疑だ。娘を利用しようとしていた男に、家族への情などあったのかと。


 私は、縋るように言葉を続けた。


「きっと、君のお母さんと恋に落ちて……もちろん、僕の想像でしか無いけれども。もしかしたら、君のお母さんが彼の事情を知っていた可能性もあるかもしれない。でも、なにかきっかけがあってまた事件を起こしそうになってしまって……。きっと、君たちの側にいるのは危険だと思って離れたんだよ。君たちを傷つけたくなかったんだと、僕は思う。」


 クリスティーナは、深く俯いたままだ。その肩が、少しだけ震えている。


 実際、彼は努力したのだろう。しかし、一度その欲求に負けてヒトの味を知ってしまった純血の人狼には、ヒトの社会では生きる上で誘惑が多すぎたのだ。何かをきっかけに我を忘れ、再び罪を犯しかけたに違いない。きっとその理性があるうちにと、母親とクリスティーナから離れたのだろう。


「彼が君のお母さんの死を知ったのは、きっと君たちを心配して、いつも遠くから様子を伺っていたから……そして、せめてひと目でも会えればとやって来た。クリスティーナ、僕は、君が最初に犬の姿になってしまったのは君がお父さんと近づいて、その血が何かしらの反応を起こしたからじゃないかと考えているんだ。きっとお父さんも驚いただろうね。」


 彼女は最初に犬の姿になってしまうまで、人狼の性質とは無縁のまま生きてきたようだった。恐らく、私の吸血鬼としての特性がそうだったように、ある日突然それが目覚めたのだろう。そして、姿を変えた彼女が狼ではなく犬の姿をしていたのは、彼女が純血ではなく人狼だからに違いない。それがゴールデンレトリーバーという犬種に瓜二つだったのは、全くの偶然だったというわけだ。


 クリスティーナは、俯いたまま動かなかった。本当にそうだろうかと、考えているのかもしれない。それとも、母親を失ったばかりの時に、急に姿が変わってしまったときの不安や混乱を思い出したのだろうか。


 グスン、と鼻を啜る音がした。


 私は頭を更に沈めて、彼女の顔を覗き込んだ。潤んだ瞳と、涙に濡れたまつげと頬に、心臓が締め付けられたように傷む。感情の高ぶりからか、彼女の唇はかすかに震えていた。


 私は優しく言い聞かせるように、言葉を続けた。


「人狼っていうのはね、とても鼻が効くんだ。君の様子を伺いに行っていたのだからもちろん、近くに住んでいた僕の存在にも、気がついていた。クリスティーナ、僕はね、『人にあらざる者』達の秩序を守るために、『管理者』という存在が送った『使者』なんだ。」


 初めて聞く言葉に、クリスティーナが顔を上げる。彼女に安心して欲しくて、私はゆっくりと言葉を紡いだ。


「だけど腕力が強いばかりで、自分の気配や存在を隠すのは得意じゃなかったんだよ。だから捜査はいつも、それが得意なフェンに任せっぱなしだった。彼は霧やコウモリに姿を変えられるし、気配を消すのが上手いからね。」


 吸血鬼にも色々と得手不得手があるのだと知ってか、クリスティーナの泣き顔にほんの少しだけ微笑みが浮かぶ。その様子に、私の緊張は僅かに和らいだ。


 そして願う。伝われば良いと。


「だから、君のお父さんは、僕の存在を知っていた。そして……彼は僕に、君をんだと思うんだ。」


 クリスティーナの目が、僅かに見開かれた。


 私は続ける。


「……きっと、意図せず変身してしまった君が、困らないように……『使者』である僕であれば、正しく君を導ける。彼はきっと、そう思ったんだろう。……クリスティーナ、君のお父さんはね、僕が引っ越して来たと知っていて、この地域から離れようとしなかった。きっと、君の事を案じていたんだと思うんだよ。もしかしたら、わざと捕まろうとすらしていたのかもしれない。少なくとも、理性のあるうちでは……それでも、少しでも長く君の側に居たかった。だから何度も争って……そう思うんだ。」


 彼は強かった。禁断症状で万全の状態ではなかったとは言え、一族の間でも飛び抜けた実力を持つはずの私と渡り合った。


 私が、彼と対峙していた時に感じた違和感は、これだったのだ。彼の心は、誰か大切な者の側に居るために必死だった。堕ちた人狼としての欲求だけに支配されていたのなら、彼はその原始的な本能で自分より強い力を察して恐れ、『管理者』の支配の届く範囲からは逃げ出そうとしていたはずだ。


「あの時、彼が君にひどい事を言ったのは……本当はね、あそこまで堕ちた人狼が喋れるはずは無かったんだ。それでもあんな事を言ってのけたのは……きっと……わざと君を突き放そうとしたんだと、僕は思う……」



 クリスティーナの父親が犯した罪は、許されるものではなかった。


 投降したとしても極刑は免れなかっただろう。血肉を食らうのが人狼の本能に組み込まれているものだとしても、それが人間に対して暴走してしまった個体を、『管理者』である私の父親が捉えるだけにとどめ置くはずがない。そんなことを許せば、もともとある人間との確執を更に深めてしまう。私の父が、それを選ぶはずがなかった。


 それは、彼も十分理解していたに違いない。それでも、娘の側を離れなかった。


 人の姿を捨てて暴れ狂う最中に、突然現れた実の娘を前にして、彼は何を考えたか。人食いに堕ちた自分を見られた彼は、一体何を。



 親として慕われる資格は無いと、思ったのでは無いか。


 彼女に惜しまれる資格は無いと、そう考えたのでは無いか。



 証拠は無い。しかし彼は彼女を案じて、母親の死後に様子を伺いに来た。突然姿を変えてしまった彼女を、『使者』の元へ届けた。そしてその周辺に留まった。彼女の声で、ほんの一瞬、理性を取り戻した。


「君のお父さんは、君の事を愛していたんだよ、クリスティーナ……」


 どうか、それが彼女の中の真実となるようにと願いながら、私は言ったのだった。




 ぽつり、ぽつりと、クリスティーナの手を握る私の手に、暖かい水滴が落ちる。私は再び、彼女を抱き寄せた。彼女は力無く私に身を預け、腕の中で啜り泣き続けた。


 私は、暫く彼女の背を優しく撫でてから、そうっと彼女の肩を押しやって一度身体を離した。そしてジャケットのポケットから、一枚の写真を取り出す。写っているのは一人の男性のポートレートだ。濃い茶の髪と瞳の、壮年の男。それを彼女に見せながら言った。


「ヘンリー・ベンデール。」


 クリスティーナは鼻を啜りながら、目の前に差し出されたそれを見る。



「君のお父さんの名前だ。」



 彼女は弾けるように顔を上げて私を見た。私は、これ以上無いほど大きく見開かれ、そのまま溶けて落ちてしまいそうな瞳を見返して、できるだけ柔らかく微笑んでうなずいた。うまく笑えているといいと思いながら。


 彼女の顔がくしゃりと歪む。細まった瞳から、とめどなく透明な水が溢れて、彼女の頬を伝う。引きつって震える口元から、嗚咽がこぼれた。


 彼女はぐっと声を押し殺して写真に視線を戻すと、ゆっくりと両手でそれを受け取った。その手も震えている。彼女がまばたきをするたびにぼろぼろと涙のしずくが降って、いくつかが写真の上にぽたぽたと落ちた。


「お、とう、さ……」


 苦しそうに絞り出される声で、クリスティーナがつぶやいた。それを聞いて、私は堪らず彼女を抱き戻す。彼女はハニーの姿のときに出していたような、か細い悲鳴のような鳴き声を出して私に身を預けた。




 やがて彼女の嗚咽は慟哭に変わり、彼女は私の胸元にしがみついて泣き続けた。


 おとうさん、と、合間に何度もつぶやきながら。


 私はそんな彼女を抱きしめて、いつまでも、その背と髪をさすり続けていた。


 彼女のつむじ越しに、部屋の奥の窓を見つめて。



 重厚なカーテンに縁取られたガラスの向こうには、この地域らしい、灰色の空が広がっていた。


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