第二十九話 知り合う


 何から話すべきなのか、この三日間、私はずっと考えようとしていた。




 私が彼女の世話を他の者に任せて自宅に居た理由は、退職や引越しの準備をする必要があったからではない。


 数十年ぶりに口にした血は、私の身体に大きな変化をもたらした。その力を、制御出来ずに彼女を傷つけてしまったり、怯えさせてしまう事を恐れたのである。


 フェンやタバサ達が自然と膝を折らずには居られないほど、私から感じられるエネルギーは圧倒的なものだったらしい。(それも何故か喜ばれたが。)私自身もそれは感じており、最初はずっと落ち着かないままだった。


 家でじっと、身体の中に感じるエネルギーの奔流が収まるのを待つことは出来無かった。後から考えれば少し恥ずかしく思えるが、無意味に霧に姿を変え、空をあちこち飛び回ったりしていたのだ。


 海を越え山を越え、人の気配の無い大自然の果てにその身を置き、ただ身体が発するがままに力を放出した。生産性の欠片も無いただのエネルギーの浪費だったが、その時の私には必要な事だった。人が近くに居ない事は分かっていたが、野生動物達には多大な迷惑を掛けたに違いない。


 因みにこのお陰で、装着品を付けたまま移動するコツを掴んだ。……事前に失敗しておいて本当に良かったと思っている。




 星空の下で、見たことのない景色の中に身を置いて、考えを整理しようとして失敗し、私はただ、思い出していた。



 を、土砂降りの雨の中で保護した日の事を。



 獣医から、引き取った日の事を。


 初めて、彼女の食事を手作りした日の事を。


 高級ステーキを分け合って食べた日の事。ドッグランに連れて行った日の事。国立公園へ、ハイキングに連れて行った日の事。


 彼女の笑顔を見たくて、犬用のメニューのあるカフェまで遠出したり、ペット用品店に連れて行き、おもちゃやベッドを直接選ばせたこともあった。


 散歩の際に彼女の汚れを気にしなくて良いように、トリマーに頼むのでは無く自分でシャンプーを行う事を決めた事。彼女は協力的だったが、終わった後に何故だか家中を走り回って私を困惑させた。ラグに身体を擦り付けて尻尾を振りまくる様子に、私は大笑いをしたものだった。




 一度だけ、彼女に会いたいと言った同僚達の為に、休日に彼女を病院に連れて行った事もあった。


 私は、彼らの頼みを聞いたというよりも、彼女を自慢したかったのだと思う。案の定、彼女はあっという間に休憩中の看護師や医師達を虜にしてしまった。その上、散歩中の患者達にも愛想を振りまいて、彼らにひと時の癒しを提供していた。


「彼女はセラピー犬になれるわね。」


 と、人懐っこい彼女の気性を褒めて同僚のひとりが言った。


「全くだ。私が忙しくて難しいけどね。」


 彼女は、セラピー犬としては完璧な適性を持っていたに違いない。しかし病院やケアハウスを回るセラピー犬になるには、ハンドラーと共にトレーニングを受け、資格試験に合格しなければならない。医者である私では、その時間はとれないだろう。他の人間に任せればそれも可能だったかもしれないが、それは私の気が引けた。


 彼女には、私だけのセラピー犬でいて欲しかったと言うのが、本音だったかも知れない。




 彼女と過ごした特別な日々を思い起こして、それでもやはり思考が戻って来るのは、毎日の何気ない瞬間の記憶だった。


 ドアを開ける時の、彼女の弾けんばかりのあの笑顔。千切れそうに振られる尻尾。ご飯が待ちきれなくて、何度も口の周りを舐める癖。私が彼女には与えられない物を食べている時に、必ず調査に来る習慣。食べられないと分かっていても、万一の可能性に備えて、彼女はそこから離れなかった。


 そして、ソファーに横になって共に過ごす時間。


 彼女は、私が撫でる手を止めると、冷たい鼻で私の顎を突いてもっととねだった。


 伸びをして、何度も私の上から転げ落ちそうになった。


 夢を見ていたのか、寝たまま足をピクピクさせたり、自分の吠え声で驚いて飛び起きた事もあった。


 彼女のふわふわの毛並み。柔らかい手触り。心地よい重さ。毛皮越しに伝わる熱。


 冷たく湿った鼻。


 優しく垂れた瞼。


 短く揃った睫毛。




 紅茶色の瞳。




 その色が、クリスティーナの瞳と重なる。


 睫毛の色と、髪の色も。




 私を見上げる時の、あの笑顔も。




 ほんの微かに香っていた、あの匂いも。




 毎晩過ごしたソファーでの寛ぎの時間は、毎回私がハニーに起こされて幕を閉じていた。


 彼女は、知っていたのだ。


 いつ私が床に着くべきなのかを。




 人用のトイレを、当たり前のように使った。


 きちんと使用後は電気まで消した。


 人用の食べ物でなければ、口にしなかった。


 私には決して、飛び付かなかった。




 ハニーは、クリスティーナだった。




 その事を、どう受け止めていいのか分からないままだった。


 そして、何から話すべきなのかも分からないまま、それでもこれ以上彼女を待たせるわけにも行かずに、私はホテルの最上階のスイートで、彼女と対面していた。






「正直、何から話すべきか分からないままなんだ……」


 私は、率直な本音を口にした。彼女を前にして、取り繕うのは無意味な気がしたのだ。


 私は、人にあらざる者でありながら、同類を狩る者だった。


 彼女は、人間でもあった。


 お互い、一番大きいであろう秘密を共有したところなのである。


「君が……人でもあったなんて、夢にも思わなかったよ。」

「ドクター……」

「全く、呆れたものだよね。ヒントになる事は、沢山あったのに。僕がもっと早く気づいていれば君は––––––」

「ドクター。」


 幾分強い口調で、クリスティーナが私の言葉を遮った。見れば、彼女の顔にはほんの少しだけ、苦痛の表情が浮かんでいた。途端に、私の心臓が悲鳴をあげる。


「ごめんなさい……」


 そう言って、彼女は俯いてしまった。


 一体どこに彼女が謝罪しなければいけない要素があったのか分からず、私は固まってしまう。


「クリスティーナ?」

「……何度も、言おうとしたんです。」


 彼女の両手は、膝の上で固く握られていた。その拳が、微かに震えている。


「でも怖くて……信じてもらえないんじゃ無いかって、そう思ったら怖くて、言えなかったんです。ごめんなさい……」

「!!」


 金色の髪の隙間から、透明な雫が落ちたのを見て、私は反射的に腰を上げた。彼女が泣いている事を確信して、私はローテーブルを周り、彼女の隣に腰掛けた。そして、彼女の肩を両手で抱き寄せる。


 ふわりと、あの芳香が私を包む。それは、今の私の理性を脅かす事はなく、ただ快いだけだった。そしてそれすら意味を成さない。今はただ、彼女の涙が辛かった。


「クリスティーナ、君が謝る必要なんて無いんだよ。」

「でも……」

「私は、もっと早く気が付けるだったんだ。」



 そうだ、謝るべきなのはむしろ––––––



 知らず、彼女を抱く腕に力がこもった。


 彼女が微かに呻いて、私は慌てて力を緩め、彼女を解放する。


「だから、僕に謝る必要なんて無いんだ。いいね?」


 顔を覗き込めば、彼女は眉をハの字に寄せていた。その様子がハニーの時の彼女そのもので、私は思わず小さく吹き出してしまった。


 困惑する彼女の濡れた頬を指で拭ってから、私は彼女を胸に抱き直した。ソファーでハニーを抱きしめた様に、優しく。そして、彼女の髪を何度も撫でる。


「僕は、いつも君に伝えられたらと思っていたんだ。」


 私は、彼女の髪を撫でる手を止めずに言った。


「僕が……どれだけ君を……君にどれだけ感謝しているかを。」

「……感謝?」


 クリスティーナが、私の胸元で小さく聞き返した。彼女の頭に、こつりと自分の頭を預ける。細い髪と薄い頭皮の下にある硬い頭骨の感触は、ハニーの時と変わらない。私からすれば折れてしまいそうに細い骨格も、しなやかな身体も。伝わってくる体温も。


「君は、僕を救ってくれたから……僕は、君に会えて、本当によかった。ありがとう、。」


 ひくりと、腕の中の身体が跳ねる。


 それから、細かい震えが伝わって来た。


 私は彼女が落ち着くまでずっと、腕の中から彼女を離さずに、髪を撫でる手を止めなかった。



 止めてしまえば、彼女はもっととねだるはずだったから。


 ◇◇◇



「僕が君を見つけたのは、君のお母さんの葬儀の一週間後だね?」


 隣り合って座り、肩を抱く私の胸に寄りかかったまま、クリスティーナは頷いた。私がダニーに貰った情報は、正しかったらしい。お互いの体温を感じていることが、私も彼女も落ち着くようで、私は少し嬉しかった。


「あの日、何が起こったんだい?」

「……私にも、実はよく分からないんです。私は、前日と同じように母の遺品を整理していて……私、大学に通っていたんですけど、母が急に亡くなったので休学をして、実家に戻っていたんです。」

「……事故だったと、聞いているよ。」

「はい。トラックの交通事故に、巻き込まれて……」


 そこで、彼女は言葉を詰まらせてしまった。私は、彼女を急かすことはせずに、その肩をさすった。不在の間に、別れも伝えられず突然大切な人を、それも母子家庭の母親を無くすのはどんなにか無念だっただろう。


「……それで、私はあの日ゴミを出しに外に出て……それで、あの人を道路の向こうに見かけたんです。帽子を被っていたんですけど、でも式に来ていたあの人だって、私分かって……匂いがしたんです。でも、どうしてそんな事が分かるのか、私分からなくて……匂いで人の事が分かるなんて……とにかくあの人を追いかけようとしたんですけど、そこから先は、私、記憶が無いんです。」

「気付いたら私の庭にいた、という事か。」


 クリスティーナはまた、こくりと頷いた。私は出来るだけそっと、彼女に尋ねる。


「フェンには、色々と話を聞いたかい?」


 私の不在の間、フェンには、クリスティーナから質問があれば、簡単にでも説明をしておくようにと伝えてあった。詳しい話は私からする、とも。


「少しだけ聞きました。私の父親が、狼男だという事と、ドクターやフェンさんが吸血鬼だという事と……私も、その仲間だという事を。」


 仲間、という言い方に少し違和感を感じた。しかし、人間以外の存在が夢物語である世界で生きてきた彼女にとっては、狼男も吸血鬼も血族も、全て同じ部類に入るのだろう。


「驚いただろう?」

「ドクターが、吸血鬼だって事ですか?」

「それもあるけど……自分がその仲間だって事にも。」

「それはむしろ、安心しました。」

「安心?」

「はい。急に姿が変わってしまって、私本当に心細かったんです。一体何が起こっているのか、分からなくて……でも、そんな世界があるんだって思ったら……一人だけじゃ無いんだって思ったら……」


 私は突然、彼女をハニーの時のように、膝に抱え上げて抱き締めたい欲求に駆られた。それを必死に押し留め、彼女の肩を抱く手に力を込めるだけに留める。


 彼女は、私と共にいたこの一年間、ずっと孤独な世界にいたのだ。私という、彼女を手助けする上での最適任者が側にいたと言うのに––––––




「私、やっぱりドクターに謝らないと。」


 ぱ、と、クリスティーナはあどけない表情で、私を見上げてきた。謝る?私には当該案件が思い浮かばない。そこから、彼女は視線を泳がせてまた俯いてしまった。


「……たくさん、いたずらをしたでしょう?私……」

「……あぁ!」


 私は思い出して、少し笑った。クリスティーナは、両手で顔を覆って更に縮こまってしまった。その隙間から、ボソボソと言葉を紡ぐ。


「……ハニーの姿の時は、何というか、思考が単純になってしまって、その、自分のした事がどんな結果に繋がるかとか、身体も上手く使えないし……」

「成る程、だから証拠隠滅が上手くいかなかったと。」

「……もうっ!」


 からかう私の胸をポカリと叩いた彼女に、私は顔のにやけを抑えるのに精一杯であった。何だかよく分からない感情が、私の内側をくすぐっている。それでも彼女の話が終わっていない事は明らかなので、必死で耐える。


「ええと、とにかく、その、と、特に、ご飯のこと、私ドクターに沢山迷惑をかけてしまって……ごめんなさい、私本当に、ドッグフードだけはどうしても食べられなくて……」

「良いんだ。当然だよ。」

「最初にクリニックにいた時にちゃんと試したんですよ!?でも……うぇ、ダメです。もう、思い出しただけで……うー。」


 くるくる良く動きながら、情緒豊かに喋る彼女を見て、私はまた笑ってしまった。それを彼女を嘲笑っていると取られたく無くて、私は慌てて付け足す。


「気にし無くていいんだよ。僕は君と同じ物を食べられて嬉しかったし、楽しかったんだから。」

「……本当ですか?」

「勿論だよ。」

「……最初にこの姿に戻った時も、散らかしてしまったでしょう?」

「……最初に、と出会った時だね?」


 クリスティーナは、こくんと頷いた。


「あの時はまだ知らなかったんですけど、姿を変える時、特に犬から人の姿に戻る時は、物凄く疲れるんです。お腹も凄く空いてしまって……居ても立っても居られなくて……」

「成る程なぁ……それであの時は色々と無くなっていたのか。」

「もう私、自分でびっくりするぐらい飢えていて……あんなに一度に食べられるなんて知りませんでした!ちゃんと片付けようとしたんですよ?でも、ドクターが帰ってくる気配がして……すみませんでした……」


 気配。


 飼い犬や飼い猫が、飼い主の帰宅を察知する能力を持つという逸話を読んだ事が有るが、もしかしてハニーにもその能力があったりしたのだろうか。残念ながら一人暮らしではそれを知ることすら不可能であった。


「あの時は服も勝手に借りちゃったし……あぁもう本当にごめんなさい……」


 一瞬、その服の行方と、その姿をしっかり記憶に刻まなかった後悔について思考の一片が騒いだが、無事捩じ伏せた。




 私は、弾む会話に励まされて、一番聞きたかった事を聞くことにした。


「あの時、どうして戻って来たんだい?」


 忙しなく動いていたクリスティーナが、ぴたりと動きを止めた。




「人の姿に戻った時、そのまま人間の生活に戻ることも出来たはずだろう?なぜ、私の元に戻って来たんだい?」


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