第二十八話 やっと会えた

「え!?……あの……ちょっ……」


 ドア越しに呼びかけた後、返って来たのは入室の許諾ではなく、戸惑いの声だった。それから忙しなく室内を動く音と、誰かとの囁き声での会話。かちゃかちゃと陶器がぶつかる音もする。


「ご、ごめんなさい、ちょっと待って!!」


 そう言われて、私はドアにかけようとして止まっていた手を引っ込めた。ドアの向こうで数人が忙しそうに動き回る気配を感じながら、じっと待つ。意味も無く顔を触ったり、重心の乗る足を踏み替えたりしながら。


 実際の時間より長く感じたであろう数十秒の後、目の前の扉が開いた。




 扉を開けてくれたのは、私が実家から呼び寄せたメイド兼護衛だった。扉の横で並んで礼をしている二人も同じである。すれ違う事もなくここに来てしまったが、ホテル前とエレベーター前で見張りをしている男二人も同様だ。


 数日前に数十年ぶりに再会した時は、全員に号泣され大変な思いをしたが、今日は落ち着いているようで胸を撫で下ろした。本当はもっと大勢に来てもらいたかったが、乗り物など使わずひとっ飛びでここに来れる人員は限られていたのだ。


「過保護過ぎますよ……」


 とフェンに呆れられたが冗談じゃ無い。これではどう考えても少な過ぎである。




 部屋に入ってすぐの、ソファーとテーブルの応接セットの横に、クリスティーナが立って居た。




 てっきり彼女はベッドに横になっていると思っていた私は虚をつかれた。この三日間で心の準備は充分出来ていた筈なのに、彼女を視界に収めた瞬間に心臓が跳ねる。


 彼女は寝巻きではなく、ピンクのふんわりとしたトップと、白いセンタープレスのズボンを履いていた。頰の血色は良く、体調が良いと言うのは本当のようだ。


 見開いた大きな瞳と視線が合って、今度は胸が締め付けられたような感覚を覚える。


 私達は、そのまま数秒間、何も言わずに見つめ合っていた。ああ、どうして彼女と会うときはいつでも……




 動かない私の後ろでフェンの盛大な咳払いが聞こえて、私はようやく戒めから解かれる。つられるように自分も喉を鳴らしてから、私はやっと、彼女に声をかけた。


「こんにちは、クリスティーナ。気分はどうかな?」


 潤んだ瞳を細めて、彼女は微笑んだ。


「……元気です。もうすっかり。……ドクターのお陰です。」


 その様子が今にも泣き出しそうに見えて、私の胸はまた締め付けられたのだった。


 ◇◇◇



 勧められるままにソファーに腰掛けると、クリスティーナは自らコーヒーを淹れる準備を始めた。さっさと退出してしまったメイド達を呼び戻そうとした私に、彼女は声をかける。


「あのっ……いいんです!私がタバサさんに、自分で淹れたいってお願いしたんです。」


 タバサとは、私がクリスティーナの世話を頼んだメイドのひとりの名前だ。


「この前淹れたときは、飲んで貰えなかったから……淹れるなら私がやりたいって、言ったんです。」


 照れ臭そうに言う彼女に、私は言葉を無くす。


 私は座り直して、ただコーヒーが淹れ終わるのを待った。




 電子ケトルで湯を沸かし、豆を挽いて、ドリッパーにセットしたフィルターに粉を入れる。湧いた湯で、先にポットとカップを温める。コーヒーの粉に湯を少しずつ注いで、ドリップが終わるのを待つ。


 その短い作業の合間にも、クリスティーナはよく喋った。


「私、じっと寝てられなくて……タバサさん達にも怒られちゃって。でも退屈だろうって、色々気を使ってもらっちゃって……髪をセットしてもらったり、お化粧教えてもらったりしたんですよ。私、あんまり上手じゃ無かったから。」

「そうか……こんな所に閉じ込めてしまう形になってしまって、すまなかったね。」

「いいえ!そんな……皆さん本当によくしてくれて……そうだ、この服もわざわざ用意してもらっちゃったんです。自宅にあるものでいいって言ったんですけど、折角だからって。」

「そう……とても良く似合っているよ。」

「……有難うございます……ふふ。皆さん、ドクターとは昔からのお知り合いなんですよね。私、色々お話聞いちゃいました。ドクターの子供の頃の話とか……フェンさんにも。」



 私は、思わず自分の手の中に顔を埋めた。



 彼女に不便がないように世話をしてくれたのは褒めるべきことだが、勝手に私の話をするのは頂けない。あの四人には、後で良く言って聞かせる必要がある。特にフェン。あいつは何を彼女に吹き込んだんだ。絶対に余計な事を教えてるに違いない。後で問い詰めなければ。


「私、嬉しくて……」


 クリスティーナの呟きに、私は顔を上げた。


「ドクターの事を知れるのが嬉しくて……沢山聞いちゃったんです。だから、皆さんにはどうか、怒らないであげてくださいね?」


 そう小首を傾げて懇願されては、私はイエスと答える事しか出来なかった。


 しかしフェンに関しては別だ。あいつには後できちんと話を聞く。絶対に。






 彼女を前にして、私はもう以前のような飢えを感じてはいなかった。




 私は、三日前に彼女の血を口にした。




 たった一度のそれは、しかし私の数十年分の渇きを潤すには十分だったらしい。私は、今までに無いほど穏やかな気持ちで彼女と対面して––––––


 いるはずだった。


 実際は、彼女の甘い芳香に飢えを刺激されない事以外は、以前と同じく落ち着かない気分で彼女と向き合っている。まずは診察を行うつもりでいたので、確かにいきなりもてなされている事に対して戸惑ってはいるのはあるが。


 ––––––どういう事だ。何故こんなにそわそわするんだ。吸血欲求は収まったんじゃないのか。気を失っていた彼女を運んだ時はこんなじゃ無かったのに。確かに甘い匂いはするが、別に渇きは感じないし……


「どうぞ。」


 忙しない思考を追っていた私の前に、クリスティーナがトレーからソーサーごとカップを取って置いた。


「あ、ああ、有難う……」


 ふわりと香ばしい匂いが舞う。久し振りに嗅ぐ匂いだった。


 この三日間、私は何も口にしていなかった。


 その間、全く腹が減らなかったからだ。どれほど耐えられるものかと、興味本位で私は限界を試す事にしたのだが、結果、今の今まで水すら必要としないままだった。全く我慢をせずに、である。


 私は吸血鬼にとっての血族という存在の重大さを、改めて思い知った。それは、現代の医学や化学では説明し得ず、不可思議で絶対的な力を持つものだったのだ。




 カップを手に取って、熱い液体を湯気と共に啜る。酸味が強く快い芳香が鼻腔を満たす。その香りも口内を刺す苦味も、たった数日ぶりに味わったそれはとても新鮮に感じられた。


「美味しいよ、とても。……有難う、クリスティーナ。」


 私が言うと、トレーを抱えたまま立っていたクリスティーナは嬉しそうに微笑んで、私の向かいに腰かけた。そして自身も同じカップを手に取って啜る。紅茶が好きだと言っていた彼女が私と同じコーヒーを飲んでいる事に、何故だかまた、胸が締め付けられる感覚を覚えた。




「……髭を、剃られたんですね。」


 ポツリと、クリスティーナが呟いた。


 その言葉に、再度カップを口元に痩せようとしていた手をピタリと止めた。血の気が引いて行くのを感じる。私は、自分の容姿が変わっていた事と、その説明を彼女にする事をすっかりと忘れていた事にようやく気付いたのだ。


 彼女からしたら、全くの別人を目の前にしているようなものだろう。それを––––––


「お髭も素敵だったけど、無いのも素敵ですね。」


 彼女がそう言うのを聞いて、私は思わず彼女の顔を見た。相変わらずの微笑みと、目が合った。息が詰まった気がしたが、私は何とか言葉を絞り出した。


「……っ、び、びっくりしただろう。いきなり見た目が変わってしまって……」

「……ちょっとだけ……でも、確かにドクターの匂いですから。」


 匂い。そうか、人狼としての能力––––––


「ずっと、一緒にいたんですもの。ドクターがどんな姿になっても、私の鼻は誤魔化せませんよ?」

「……そうか。」


 自分の鼻を人差し指で弾いて、戯けて言う彼女につられ、私も少し、微笑んで見せた。


 ◆◆◆



 私は、ログハウスから帰宅して直ぐに、狼男に関する詳しい情報を私にも共有するようにフェンに頼んでいた。


「犬のお嬢さんの事もあるのに、全く人使いの荒い……」


 と愚痴りつつも、手早く書類を準備したのだから彼は流石である。


 加えて、クリスティーナに関する情報もまとめるよう頼んでいた。しかし、こちらに関する情報の多くを届けてくれたのは州警察だった。一年前からの失踪に関連して、彼らの方が既に彼女の事を多く調べていたからだ。




 昨日の昼間、私は予測していなかったドアベルの音を聞き、怪訝に思いながらも玄関のドアを開けた。立っていたのは、相変わらず不機嫌そうに見えるツリ目のダニーだ。


「……例の物、持ってきたぞ。」


 彼はぶっきらぼうにそう言って、大きな茶封筒を私に差し出したのだった。




 彼をリビングに招き入れ、私は彼だけにコーヒーを作ってローテブルに置く。


「ゲイブはどうしている?」

「……まだ病院にいる。命には別状は無いがな。」

「復帰はいつ頃に?」

「まだ分からんが、長く見積もって一月だそうだ。」

「なら良かった。彼は若いから、そう長くはかからないと思ってはいたんだ。」


 立ったまま、私は彼が持ってきてくれた茶封筒を開ける。中には、いくつかの透明なファイルに分けられたレターサイズの書類が入っていた。一番上に、ダニーとゲイブがここを訪れた時に見せてくれた、クリスティーナの写真が留められている。


「引っ越すのか。」


 ダニーの言葉に、私は手を止める。見れば、彼はグランドピアノの横に纏められたいくつかの段ボール箱を見つめていた。


「……この見た目に成ってしまったんでな。今までの仕事は続ける訳には行かなくなった。まぁどちらにしろ、数年おきには移動する生活なんだ。少し早まっただけさ。」


 そう言いながら、私は段ボール箱の山から目を逸らした。


 その一つからはみ出る、犬の散歩用のリードを見ていたくなかったからだ。




 この家に戻って、早速移動の準備を始めて、まず真っ先に私が行ったのは、ハニーに関わる物品を纏める事だった。


 ハニーはクリスティーナだった。


 彼女がハニーの姿のまま私と暮らしていた理由に関しては、いくつか確認しなければいけない事がある。しかし、ここに戻って来ることは、きっともう二度と無い。


 二度と使用者が戻らない事が分かっている物を、そのままにしておく事は出来なかった。それを見ていれば、私は未練がましく、いつまでも会えない事を嘆き続けるだろうから。


 それでも、それらを処分するかどうかに関しては、私はまだ決心をつけられずにいた。




「済まなかったな。」


 ダニーがポツリと言った。


「言われの無い疑いをかけてしまって。」


 あながち、彼らの疑いは外れてはいなかったが。狼男の件にも、クリスティーナの件にも、私は関わっていた訳なのだから。


「いいさ。あんた達も、災難だったな。」


 彼らはあの夜、私の行き先を予測してあのログハウスに辿り着いた。そしてあの誘拐及び強姦未遂犯と私に鉢合わせる。ゲイブは運悪く銃弾を腹に受け、ダニーは危うく、狼男に噛み殺されるところだった。間違いなく、私に関わらなければ被る事の無かった災難である。


 因みに、あの時直ぐにやって来たパトカーは、あの男に攫われた女性を救出するために寄越された物だったらしい。行方不明になってすぐに親族から警察に連絡が行き、以前から彼女に絡んでいた男性は直ぐに犯人と疑われた。犯行に使った車も父親のものだったらしく、あっという間に足取りが分かってしまったという事だった。


 今回の事は、あの女性が精神的な部分はともあれ、身体的な被害を受ける前にあの男を止める事が出来た事が、唯一の幸運である。同じように、ダニーとゲイブが考えていてくれる事を願うばかりだった。




 ダニーはおそらく、突然ログハウスに現れて、二階に駆け上がるハニーを見ただろう。そして、突然現れたクリスティーナの姿も見ている。


 いつのまにか居なくなっている犬の姿と、急に姿を現した女性。狼男。コウモリに姿を変える男……



 そして何より、彼はあの場で私の変異を目撃した、の存在である。



 彼は恐らく、今では『人にあらざる者』の存在を疑わない、数少ない人間の一人になっている筈だ。だが––––––



「もし望むなら、私は貴方の記憶を消す事ができる。」



 私の言葉に、ダニーは幾分見開いた目で私を見た。


 以前は出来ない事だった。だが、今なら可能であると、何故だか確信があった。


「……特にあんたは恐ろしい思いをしただろう。あの事は、誰にも口外出来ない。しても誰も信じない。そんな経験を、一人で抱えて生きるのは過酷だ。それに……」


 この場にたった一人で来た事すら、賞賛に値する行いだと私には思えた。


「こんな奴らがウロウロしていることを知りつつ、知らん顔して生きるのも辛いだろう。」



 全てが終わったあの時、彼は腰を抜かしてぶるぶると震えていた。



 この世の物では無い物を見るような目で、私を見て。



 そんな彼を非難するつもりは、私には微塵も無かった。


 私に起こった変化は、私自身ですら怖気付くようなものだったのだから。


 今ではコツを掴んで意図的に抑える事の出来ているエネルギーは、あの時は制御出来ずに解放したままになっていた。それを、吸血鬼でも狼男でも無い、ただの人間である彼は直接浴びたのだ。


 あの時気を失わずにいた事だけでも、彼の精神力は立派な物である。




「俺にしてみればだな、」


 ダニーは言った。


「あんな体験を忘れてしまう事の方が恐ろしいように感じるよ。……いや、そもそも忘れられるとは到底思えない。強烈すぎてな。何よりあれは、上司の指示を無視して後輩を危険な目に合わせた俺への、罰と教訓なんだよ。世の中には、俺が出しゃばるべきじゃない事もあるんだとな。忘れるわけにはいかん。」


 ダニーは、私と視線を合わせてから続ける。


「安心しろよ。俺だって、この件を言いふらすほど馬鹿じゃない。流石にあんたらに不都合な事をするような命知らずじゃないんだ。それに……」


 ガシガシと頭をかいてから、彼はまた続けた。


「首を突っ込むべきじゃない事に首を突っ込むような、俺みたいな馬鹿がまた居たら、誰かが止めなきゃいけないだろう?」


 私は、少し笑って返した。


「違いない。」


 ◆◆◆



 ダニーの持って来てくれた書類と、フェンの用意した資料の情報とを照らし合わせて、私はそれまでの推測を少しずつ確かなものとして行った。


 そして今、それらをクリスティーナと共有し、彼女の真意も明らかにし、彼女のこれからを考えるために私はこの場所に来ていた。


「……三日も、待たせてしまってすまなかったね。今日は、君に全てを話そう。君自身の事も、私たちの事も。それから、出来れば君の事も聞かせて欲しい。一年前のあの日に、一体何があったのかも。」




 一年前の、あの土砂降りの雨の日。あの日は、間違い無く私にとってのさいわいの始まりだった。


 だが、彼女にとってはもしかしたら違ったのかもしれない。


 そうだとすれば、私は今まで生きてきた中で一番の後悔を感じる事になる。


 それでも––––––




 私が手に入れた筈の、あの温もりはきっともう戻って来ない。


 それでも、彼女にとっての最善を見つけ、それを与える事で、私は彼女に恩を返したかった。


 私を孤独から救ってくれた、せめてもの恩返しに。





 そして、彼女から大切なものを奪ってしまった罪を、償う為に。



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