第五章 五日目から七日目
第二十七話 ……もう来たの!?
私が医者を目指したのは、自分が吸血鬼の血を引いている事を自覚してすぐだった。
母を亡くして程なく、高い熱を出して寝込んだことがあった。
当然医師が呼ばれ私の診察にあたった。その時のメイドとの会話で、医者とは人の病気を治すために働く職業なのだと知る。
私が吸血鬼と言う言葉を知ったのは、その後だった。
私たちの一族には当たり前過ぎて、その単語が会話に出る機会は殆ど無い。初めてその言葉を聞いたのは、新しい家庭教師と初めて顔を合わせた時だ。
彼は床に傅き、恭しく言った。
「お初にお目にかかります、ルイス様。偉大なる『管理者』……そして純潔かつ最強の吸血鬼、その御子息殿––––––」
分からない単語をいくつも並べられ、私はきょとんとしていた。
「ごしそくどの?」
「男の子供、と言う意味ですよ。」
「きゅうけつき、は?」
「……私たち一族の呼び名です、ルイス様。」
家庭教師はゆっくりと、丁寧に、一族のことを私に教えてくれた。一つの科目として、その後長い長い期間をかけて。
『血族』を母に持つ私は、半吸血鬼として覚醒すれば血を求めるようになる。そうならない可能性も勿論あったが、自分も将来は、父と同じように血を必要とするようになる可能性があった。
それを知った時、私は震え上がった。
そして、医者であればその病気を治せるのでは無いか、と考えたのだ。
「私達の血脈は、病気ではありませんよ、ルイス様。ですから医者にも治せないのです。」
私の質問から、その家庭教師は私が自身の吸血鬼としての血脈を恐れている事を察していたかもしれない。優しく諭すように家庭教師は説明したが、私は納得がいかなかった。
––––––どうして治せないのだろう?とても難しいからだろうか?だから誰もまだ成し遂げたことがないのだろうか?
ならば……
治せる医者がいなければ、自分が治せるようになればいい。
そうだ、一生懸命勉強をすれば、医者になれると聞いた。ならばもっと勉強をすれば、もっと良い医者になれるに違いない––––––
幼い私は、そう考えたのだ。
次代の『管理者』としての教育を施さんとする周りの意図など露知らず、私は医者になるのだという強い意志を着々と育てていった。
成長して、自分を取り囲む世界を理解して行くに従って、どうやら吸血鬼と言う存在が病気では無いらしい事を、私は徐々に理解して行った。
それでもその宿命から免れる方法を見つける事は、諦める事が出来なかった。
––––––人間と吸血鬼は何が違うんだ?どうやって吸血鬼は生まれた?何があの恐ろしい惨状を引き起こすんだ?身体の部位だろうか?脳か?内臓か?何かを取り除けば、血を必要としなくなるだろうか?それとも何かを足せば?––––––
私は意地でも、血を啜るような存在にはなりたく無かったのである。
人間と吸血鬼の身体とその仕組み、そしてその違いに強い興味を持った私は、昼夜屋敷の図書室で医学書を読み漁った。
一族の者達が通う寄宿学校の卒業を間近に控えた頃、私は父との面会を余儀なくされた。その後人間の大学に通う前に、一度顔を合わせる事は必須だと言われていたのだ。
「医学部?」
豪奢な装飾が施された談話室で、金縁のソファーに座った『管理者』は、私の宣言の後に怪訝そうに呟いた。
入り口付近に立った私には、背を向けたままで。
私は、それまで父と二人きりになる事は極力避けていた。もともと彼は多忙な身であり、姿を見ることすら珍しかった。それに加えて幼い頃は、私が彼を恐れていたのが誰の目にも明らかだったからか、それとも本人にも避けられていたからなのか、公式な場以外で彼と同じ空間にいるような事にはならなかった。物心ついてからは、勉強が忙しいからと口実を作って出来る限り彼の前に立つ機会は減らすようにしていた。都合のいい事に、次代の管理者候補が勉学に励む姿勢は歓迎され、それを邪魔しようとする者は居なかった。
だからそれまで直接言葉を交わした機会など数えるだけしか思い出せず、いずれも二言三言で終わるようなものだった。
一番最初に、彼が私の元を訪れた時のように。
だがこの時だけは勝手が違っていた。
「条件がある。」
黒いカーテンのような髪の向こうで、管理者は重々しく言った。そして、好きな大学で好きな科目を選択していい条件として、フェンを一緒に連れて行く事を挙げた。
私はそれを承諾して、卒業後、屋敷を去った。
それ以来、私は一度も生まれ育った故郷に帰っていない。
◆◆◆
「ヴィットー先生の甥っ子さん?」
顔馴染みの年配の受付員は、目をまん丸くして私に聞き返した。
「ええ、そうです。」
「あらっ、あたし天涯孤独って聞いてたけど。」
「……色々ありまして。叔父は、祖父とは絶縁状態でしたから。」
説得力があるのか甚だ疑わしい言い訳をブリテッシュ・アクセントで伝えながら、私は苦笑いを浮かべた。
私は今、ルイス・ヴィットーの甥として、かつての職場を訪れている。
「へぇ〜、そうだったのぉ〜……それにしても、ホントに甥っ子さん?ほんっとそっくりだわぁ〜……実はお子さんだったり?」
「……父と祖父は双子でしたから。」
「あらっ、そぉ〜。」
ルイス・ヴィットーは、危篤となった父に会う為にイギリスを訪れ、そこで不幸にも事故に合い重傷を負った。この先も復帰出来る見通しが立たない為、退職せざるを得ない。自宅の整理等は、アメリカで働いている甥に任せてある––––––
そんな設定で、甥である私は叔父の職場に挨拶に来ているのだ。
山奥のログハウスでの一件から、既に丸三日が経っていた。
◆◆◆
あの日、私の上着とブランケットに包まれたクリスティーナを抱えて階下に降りた時、フェンは既に人の姿に戻っていた。どさぐさに紛れて、床に散ったゲイブの血を頂戴したのだろうか。私も、どういうわけか、狼男に噛まれた腕は完治していた。
既に運び出されたのか、ゲイブの姿は無かった。あの誘拐犯と女性の姿もだ。その代わりに、後からやって来たのであろう警官数人が室内におり、その一人とフェンは向き合って話をしていた。私の姿を認めると、彼は目を見開き、凍りついたように動かなくなった。
それからふらふらと私の方へ歩み寄ると、崩れ落ちるように膝をつき、帽子を外した。
そして恭しくこうべを垂れ、震える声で囁く。
「……あぁ……我が
その言葉で、私は自分の身体に起こった変化が髪だけでは無かった事を自覚した。
彼は、今の私の姿を他の誰かと重ねたのだ。私の顔つきは今、数十年分も若返り、私が最も嫌悪する存在と瓜二つになっているに違いない。
私は唖然とした視線を送ってくる警官たちの視線を無視して部屋を横切ると、ソファーにそっと、クリスティーナを横たえた。
そして、ソファーの足元に落ちたままになっていたナイフを拾い上げる。
空いている方の手で長く伸びた髪の一房を掴み、そのすぐ上をナイフでざっ、と搔き切った。
「お前の主人は私じゃ無い。」
手放した髪が、ばさりと床に落ちる。
「私は……お前の相棒だろう?」
私は、そのまま全ての髪をザクザクと切り落としていった。
◆◆◆
「おいあんた!!」
院長に詫びの挨拶を済ませ、私の顔を見てヴィットーの親族だと認識し、声をかけて来た元同僚達から伝言を預かった後だった。正面のロビーから院外に出ようとした時に、背後から大きな声が聞こえた。
振り向けば、こちらに駆け寄ってくるのはデイブだ。
「あんただろ、ヴィットー先輩の甥っ子って。」
私の元執刀補佐である背の高い青年は、言いながら私に握手を求めてきた。
「ええ、ルイスです。初めまして。」
「あれ?確か先輩の名前って……」
「ええ、叔父と同じファーストネームなんです。ややこしいんですけど。」
「ああ、そうなんだ。いやぁしかし本当に良く似てるなぁ。」
感心したように言うデイブに、私は彼の先輩医師の甥のフリをして、彼のネームプレートをちらりと見てからヴィットー医師の伝言を伝える。
「貴方がデイブさんですね?叔父に聞いています。貴方のおかげで、とても楽しく仕事が出来ていたと。有難うと伝えて欲しいと言われていました。会えて良かった。」
「そんな!俺、あんたの叔父さんに迷惑かけてばっかだったよ。本当、勉強になったし、めちゃくちゃ世話になった。こっちこそ有難うって伝えてくれ。あと、早く元気になってくれって。そうそう、いつでも戻って来てください、とも。」
他の同僚達にも、似たような伝言を預かっていた。しかし、たった一年のこの病院での勤務で、一番長く時間を共に過ごしたのは彼だ。そんな彼に送られた言葉に、私は胸に熱いものが込み上げるような感覚を覚えた。
「しっかし残念だなぁ……先輩、絶対ここの常駐になると思ったのに。パートタイムじゃなくて。腕も良かったし……本当に残念だ……出来るなら、もっと長く一緒に働きたかったよ。」
それらは、何度も繰り返し聞いて来た言葉だった。
今までも、数年おきに来る『使者』としての指令の度に、別の場所へと引越しを繰り返す生活を繰り返して来た。その度に、医師として勤務した病院の仲間から別れの言葉を贈られた。両手いっぱいの花束や、ぎっしりと書き込まれたメッセージカードと共に。最長勤続年数は、四年に満たなかっただろう。
しかし今回は少し状況が違っている。
たったの一年で退職しなければならない無念を最初はメールで院長に伝え、それからバックオフィスの事務員と退職の手続きについて何度かやり取りをした。そして医師本人では無く、その甥として、必要な書類を持って挨拶にやって来た。
その誰一人とも、直接話す事は許されないのである。
今の私では、どう頑張っても50歳手前の壮年男子には成り済ませない。今の私の身体は、どう年上に見繕っても、誰もが二十代だと認識するであろうものなのだ。
あのログハウスでの一件で、私の身体は若返ってしまっていた。
「叔父も、随分気落ちしていたようでした。医師としての使命を果たせないのもそうですが、皆さんともっと長く、共に働きたかったと……」
「……まあでも、命があるだけ良かったよ。今後どうするかって、何か言ってたかい?」
「まだ詳しくは……研究職を探すのだとは思いますが、もしかしたら、全く別のキャリアを見つけるかも。」
「ははっ、先輩が外科医以外の仕事なんて考えられないなぁ。あのひと非社交的だし。ま、先輩が望むようになるよう祈ってるよ。あ、そうそう……」
デイブは笑って言うと、自分のポケットを探り始めた。そして見つけた紙切れに、ペンでなにやら書き始める。
「いつでも連絡してくれって言っといてくれ。あの人今まで『サークル』も交換してくれなかったんだから……って言うか、やってもいないか、ははっ。」
よく分からない単語は、彼に一度誘われたSNSとやらの名称だろう。また笑いながら彼が私に差し出した紙切れには、彼のものであろう電話番号が記されていた。その紙が、誰かから貰った名刺であるあたり非常に彼らしいと思う。
それを受け取って、私は考えた。彼と、彼の先輩のルイス・ヴィットーとしてまた会う事は、二度と無い。
それでも、電話くらいはしても良いかもしれない。彼なら、オススメのレストランをいくつも知ってるはずだ。
「伝えておきます。それでは、お忙しいところ、わざわざありがとうございました……そうそう、くれぐれも、女性に刺されないように気をつけてくださいね。」
彼は、私の言葉に一度ぎくりと顔を強張らせた後、大笑いをしながら私の腕をバンバンと叩き、あんたも元気でと言って、早足で去って行った。
私は、彼の愛情表現にもう痛みを感じない事を、少し寂しく感じたのだった。
◇◇◇
髪が伸びて、怪我が治り、青年の身体に若返った。
あのログハウスでの一件で私の体に起こった変化は、それだけではなかった。
以前でも人並外れたものだった私の身体能力と頑健さは、比べ物にならないほどに向上しているのが感じられる。今の私であれば、片手でトラックを持ち上げることも可能だろうし、昼夜問わず走り続けても、息を切らすことすらないだろう。
そして、今まで不可能であったことまで可能となっていた。
自宅に戻り、車を停めた。運転席に座ったまま時計を確認すると、午後の三時前だ。
私は、バックミラーに片手をかけた。それを見る前に、一つ深呼吸をする。そうやって心の準備をしてから、鏡に映る自分の顔を確認した。
三日前から、何度見ても見るたびにぎくりと身体が竦んだ。
そこに映っているのは、何十年も前に見たきりのはずの、自分の父親の顔そのものだったからだ。
違うのは目の色だけ。彼の瞳は、金色と、そうでないときは青色だった。私の目は、母親譲りのヘーゼルである。毎回その自分の眼の色をじっくりと見て初めて、私は自分が自分であることを確認でき、安堵できるのだ。鏡の向こうにいるのは、父親ではないのだと。
くっきりと覚えている理由は、若い頃から自分の顔が父親によく似ていることを自覚していたからだ。長く見ていなければ記憶は霞むだろう。しかし、私は毎日鏡を見るたびに、父親がどんな顔だったかを確認させられていたようなものだった。
それが嫌でわざと眼鏡をかけたり、若いうちから髭を生やしたりしていた。やっと最近50歳間近になって顔のしわが増え、彼の面影が減ったような気がして安堵していたというのに。
私の身体に変化が起こった時、どういう仕組みなのか髭は残らず抜け落ちてしまっていた。手ごろな度無し眼鏡が手元にない今、私は父の面影と直接向かい合わざるを得ない。
バックミラーを見て、昨日美容室で整えてもらったばかりの髪を軽く梳いて直す。これから会う人物の前に立つための、準備である。ただの気休めのようなものではあるが。
それが済むと、私は両目を閉じた。
暗闇の中で、動きをイメージする。ふわ、と、浮遊感があった。
気が付けば、ついさっきまで乗っていた車を下に見ていた。運転席には誰も見えない。車だけでは無い。雲に覆われた空も、背後にあるはずの住宅の形も、正確に認識できた。自分の身体だけが、視界に無い。
また動きをイメージする。私の視点は、ぐんぐんとある方向へと移動していった。
ある場所にたどり着いた時、私はまた目を閉じた。身体の感覚が違うので、そうイメージしただけだが。
目を開いた時目の前にいたのは、この時間に人型であるのは珍しいフェンだった。また両目を大きく開いて、私を見ている。何度かぱちぱちと、瞬きをして見せた。
「……ぼ、坊ちゃん!?」
自分の声で我に返ったように、彼は慌てて頭を下げた。彼のその所作と呼称を正すのももう面倒で、私はそのまま彼の横を通り過ぎ、カーペットの感触を確かめるように進んでいった。
あの日から、彼の私に対する態度は一変してしまった。やはり私のこの容姿はやり辛いらしい。これでは、遠い昔に友人として振る舞ってくれと頼んだ頃に逆戻りだ。私の精神年齢が以前より上なのも、私と父親を重ねてしまう要因だろう。
「クリスティーナの容態は?」
「……良いようです。傷のほうも、問題は無いようで……」
突然現れた私に、彼は動揺を隠せないようだった。歯切れの悪い口調で何とか答えながら、私の後について来た。当然だ。彼のように霧になって移動するなど、今まで一度たりとも出来た試しがないのだ。今までは、私の吸血鬼としての能力は腕力だけに留まっていたのだから。
ここは、とあるホテルの最上階だった。
あのログハウスでの一件の後、私は彼女をこの場所に運び込んだ。彼女の手当てを行うためだ。大急ぎで呼んだ『人にあらざる者』の専門医には、人の世界で外科医として働く私を見て「あんたが私を呼んでどうする」と、大笑いをされた。
手当てが終わってからは彼女を家に帰らせても良かったが、世話をさせる者や護衛のことを考えると、ホテルの方が都合が良かったのだ。
『血族』であると確定した彼女を、一人にしておくわけにはいかなかったのである。
彼女がいる一室の前で、一度立ち止まる。意味もなく上着の合わせを直して、息を吐く。彼女とは、意識が戻ってからはまだ一度も顔を合わせていなかった。
意を決して、片手を上げる。重厚なドアを何度かノックした。そしてそっと、呼びかける。
「……クリスティーナ?」
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