第二十六話 覚醒

 ◆◇◆


 ダニーは、異形の生き物が吹っ飛んだのを見た。


 何が起こったのかは分からない。ヴィットーが自分を救う為にその化け物に組み付いた後、そいつは暴れ出し、二人は組み合ったまま一つのベッドルームに転がり込んだ。


 その部屋の入り口に駆け寄ったところで、先にその部屋に駆け込んだ女性が奴にやられた、その直後だった。




 獣が入り口横の壁に叩きつけられ、建物全体が震えるような爆音が響いた。ダニーは反射的に身構える。


 残ったのはカラカラと木材の落ちる音だけ。ダニーがゆっくりと顔の前にかざした両腕を下げれば、壁は半壊して、扉の枠は半分に折れていた。さらさらと舞う粉塵の奥に、磔にされたように獣の身体が埋もれている。





 じゅる、と、音がした。





 水音。


 場違いな音に、ダニーは弾けるように部屋の中心に視線を戻した。




 じゅる、じゅる……





 ダニーは、自分が何を見ているのか理解出来なかった。




 部屋の明かりは、カーテンの隙間から僅かに差し込む月の明かりとパトカーのライトだけ。赤と青の光が、窓の端でちろちろと交互に踊っている。


 そんな薄暗い部屋の中央、一糸纏わぬ姿の女性の白い四肢が投げ出されていた。


 その女性の身体は、床に跪いた男の膝の上に、大切そうに抱え込まれている。




 じゅるり。




 逸らされた顎と、半分開いた口、力無くくたりと床に落ちている腕。女性の意識は無いのであろう。両目は、乱れた髪に覆われて確認出来なかった。




 じゅる。




 その女性の胸元には、遠目にも分かるほど無残な傷があった。




 じゅる、じゅ。




 片方の肩から斜めに走る数本の爪痕は、皮膚を裂き、肉をえぐって、乳房の形すら変えていた。


 そして––––––






 男は、彼女の上に身を屈め、あふれ出る血潮を、それはそれは愛おし気に舐め取っていた。


 そこには、彼と彼女以外何も存在しないかのように、無我夢中で。






 じゅる、ぴちゃ。




 ―――なんだこれは。


 それは人の目に晒されていいものではないと、ダニーの本能が必死で訴える。しかし、彼にはそれを止めることは出来なかった。理解し得ないものを見た時の混乱で、彼の身体は自由を失っていたのである。




 ふと、血を啜っていた男が動きを止めた。その身体はふるふると震えている。




 ―――はぁああああああああああああ……。




 聞こえてきたのは、男が吐き出した長い長い、切なげな溜息だった。


 それはまるで、人が一日の終わりに湯につかる時に上げるような、上質なワインを口にした時のような、悦の混じった感嘆の溜息。


 ダニーの全身に、ぞわりと怖気が走った。


 そしてその衝撃で、ダニーの混乱は解消される。


 これ以上、この行いを放っておくことは出来ない。止めなければ。こんなのはおかしい。こんなのは異常だ。こんなことが、まかり通っていいわけがない。




 人が、人の生き血を啜るなど。




 ダニーが足を踏み出して、二人に駆け寄ろうとした時だった。


 すぐ横で、がらんと木材が床に落ちる。


 ―――ヴルルルルルル……


 獣の唸り声。化け物が意識を取り戻したのだ。


 反射的に、ダニーは自分の胸元に手を伸ばす。しかしそこには自分の銃は無い。どこかで取り落としたのだ。そうでなくても弾はさっき使い切ってしまった挙句、この獣には全く効き目が無かった。


 ダニーの脳は、自衛の手段を見つけるために素早く処理を始めた。視線をめぐらし、そして、足元に銀色に光る長方立方体を見つける。ヴィットーが使っていた銃だ。


 ダニーは迷わずそれを拾い上げて、壁の中で蠢く獣に向かって構えた。銃はおかしいほどに小さいが、しっかりとした重さがある。特製のデリンジャー。ヴィットーはそう言った。あの発砲音では、打った時の衝撃は洒落にはならないだろう。ダニーはそれなりの覚悟を胸に、撃鉄を起こした。グリップを握る右手を、左手で覆って支える。


 引き金に指をかけ、今まさにそれを引こうとしたその時―――






「止めておけ……」






 部屋の中央から聞こえた囁きに、ダニーの全身がびくりと跳ねた。






 どうしてかはわからない。ダニーの全身は震えていた。


 毛が逆立ち、汗が噴き出しているのがわかる。呼吸が乱れる。身体が動かない。何か得体の知れない脅威に、本能が怯えている。自分が銃口を向けている相手も甚だ正体不明だが、何かもっと、計り知れない、自分など虫けら程度にしか見えないであろう、絶対的な何か……


 ダニーはまるで、油の切れたブリキ人形のようにぎこちない動きで、声のした方に首をめぐらせた。


 そして息を飲む。




 どういうわけか、彼の髪は伸びていた。


 黒いまっすぐな髪はカーテンのように垂れ、女性を抱えて俯いた彼の顔を隠していた。その奥に見える額は、白を通り越して青い。


 男は、女性を抱えたままゆらりと立ち上がった。腰を上げながら後ろを向くと、部屋の奥にあったベッドに歩み寄る。長い髪が、彼の背後でしなやかに揺れた。そして、男はそっと、抱えていた女性をベッドの上に横たえた。


 異様な存在感を醸し出す男のその所作に、ダニーは何故か見入ってしまっていた。




『グルルルルッ!!』


 唸り声にダニーが視線を戻せば、バキバキと音を立てて、獣がその身を壁から引き剥がしていた。全身の毛を逆立てて、部屋の奥を睨みつけている。


 その視線の先にいる男は、獣のことなど意に介していないようだった。


 さっと上着を脱ぐと、それを横たわった女性の上にかける。そして身を屈め、女性の頬に手を伸ばした。顔にかかった髪を優しくすいて、閉じたままの瞳を覗き込む。長い髪が、女性の肩口にさらりと落ちた。




『グルォオオオッ!!』


 獣が吠えて、飛び出した。ダニーなど眼中に無いように、部屋の奥にいる男を目掛けて一直線に。


 ––––––狂っている。


 ダニーの頭に浮かんだ言葉はそれだった。


 ––––––あんな奴に刃向かうなんて。




 男が、向かってくる獣の方向へ振り向いた。


 その視線の先には、ダニーもいた。






 男の双眸は、闇の中でなお輝く、二つの金色の星だった。


 ◆◇◆

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