第二十五話 やめて
彼女の言葉に、時が止まったようだった。
狼男も、私たちの目の前で凍り付いたように動かない。ぽた、ぽた、と、私が与えたのであろう傷から伝う血が、床に跡をつけていく。
クリスティーナは、デリンジャーを構える私の腕の袖を片手でぎゅうと掴み、別の手で中途半端に身に纏ったシーツの胸元を抑えている。そして正面から狼男を見据えていた。
––––––『父さん』だと?
聞き慣れも、言い慣れもしないその言葉に、私の思考が止まる。先ほどからの衝撃の連続に、回答を貰えない疑問が浮かんでは沈んでいった。
––––––こいつがクリスティーナの親?だが彼女は『血族』で……そうだ、彼女はハニーでもあって……この狼男は、『血族』と何か関係が?
私は混乱の最中、はたとフェンとのある会話を思い出した。
◆◆◆
私は、約一年半前にこの地へ移動するように指示を受けた。『管理者』から直々に、である。
『使者』として勤め始めてからというもの、私は数年単位で各地を転々とする生活を強いられていた。そうして何人かの『使者』が各地域を周り、それぞれの場所に住む『人にあらざる者』達を治めていたのだ。
それでも各所で医者として働けるよう何とか転職先を探したり、時には父の側仕え達に根回しを頼んで、何度か名前も変えながら今までやって来た。
私は、伝令を持って来たフェンに聞いた。
「なぜ今回は場所が違うんだ?」
不満があった訳では無い。引っ越しなど既に慣れっこだった。単純に疑問だったのである。
「順番通りなら、次は隣の州だろう?何故北に逸れる?」
「……とある標的が居るらしいのですよ。」
「とある標的?」
「ええ。お
「最優先……」
「ご希望であれば、背景からご説明しますが?」
医者との二足の草鞋をこなさなければならない私は、『使者』としての勤めに、精神的な労力を割くのを拒んでいた。フェンには、『標的』の捕縛理由などの詳しい背景は伝えないでくれと頼んである。
会話は、当然そこで打ち切られたのだった。
◆◆◆
もしこの狼男が本当にクリスティーナの父親だとするのなら、こいつは『血族』と何かしらの関わりを持ったに違いない。
いや、ほぼ確実に、その一族の女性と関わりを持ったのだ。
よりにもよって、吸血鬼にとっての生命線とも言える、『血族』の女性と。
当然それは、吸血鬼を束ねる存在でもある『管理者』の逆鱗に触れたに違いない。少なくとも、純粋な腕力であれば一族屈指の、嫡男でもある私を直接討伐に充てがうほどには、彼はこの男を問題視していたのだから。
厳重に保護されている一族と一体どんな流れで繋がりを持ったのかは知らないが、それが穏やかなものであったと願わずにはいられない。
––––––あの時、もっと詳しく聞いていれば。
そうすれば、
もしかしたら、
可能性は、とても低かったかもしれないが……
私は、ハニーがただの犬などでは無く、クリスティーナであったことにもっと早く気付いたのではないか。
じくりと身体の中に沸きつつあるのは間違い無く、後悔と自責の念だった。
––––––一年だ。一年も、私は彼女を……
「……父さんなんでしょう?」
クリスティーナが、狼男に語りかけた。
「母さんのお葬式に来ていたわよね?私、母さんの持っていた写真を見たのよ。遺品の中にあって……あなたが私のお父さんなんでしょう?」
––––––彼女は、父親とは面識が無いまま育ったのか。
クリスティーナは約一年前に母親を失くしたのだと、ダニー達が言っていたのを思い出した。あの憔悴ぶりにはそれが関わっていたのかと、私の元に来たばかりのハニーを思い出す。
私は緊張を解かないまま、狼男の様子を伺うった。彼は動かない。理性の無い瞳を開いたまま、魂を抜かれたように突っ立っているだけだ。
「姿が変わってても分かるわ。匂いでわかるのよ……。うううん、その姿だからこそ……私の姿が変わったのも、鼻が効くようになったのも、あなたの娘だからなんでしょう?そうなんでしょう!?」
反応を示さない狼男に痺れを切らしたのか、クリスティーナは半ば泣き叫ぶように訴えた。
––––––無駄だ。こいつは完全に『堕ち』ていて……だが動きは止まった……まさかまだ理性が……
「父さん……」
クリスティーナの絞り出す悲痛な声に、私の胸の方が締め付けられる思いだった。
少しの沈黙の後に、狼男の身体がひくん、と動いた。
私は目を見張る。
ひくん、ひくひくん、ひくん……
『グッ、グッグッ、グッ……』
痙攣するような身体の動きに合わせて、彼の喉の奥からくぐもった呻きが漏れる。
まるで、笑っているように。
そして、見てわかるほど大きく息を吸ってから、吐いた。
『……ヴァがな゛むずめェ゛……』
私は、その吐息に乗せて発せられた音に、今度こそこれ以上開かないほどに目を見開いた。
––––––喋った、だと?
聞き取りづらい音ではあったが、それは確かに人語だ。
私は、一度堕ちた狼男が喋ったのを聞いたこともなければ、そんな例があると伝え聞いたことも無かった。
『そい゛づヲ゛、ぐい゛ごろじでェ、くエ゛る゛のぉ゛、ま゛っでェい゛だんだぁ゛……』
狼男の言葉を聞いて、私の袖を掴んでいるクリスティーナの手がびくりと震えた。
『ずっどォ゛、ま゛っでェい゛ダのォ゛に゛、この゛ォ゛、や゛ぐたダずめ゛ェ……』
クリスティーナは身体を震わせて、首をふるふると横に振っていた。絹糸の髪が揺れ、透明な雫が散る。泣いているのだ。
私は、ようやく理解した。
一年前のあの雨の日に、私の家の前に犬の姿の彼女を打ち捨てたのは、こいつだったのだ。
使者である私の家に忍び込ませ、隙を突いて食い殺してくれるのを待っていたのだと、こいつはそう言っているのだ。
娘であるクリスティーナに。
デリンジャーを握る私の手が、ぎりと音を立てる。その照準は、奴の眉間に定められていた。
私は、やすやすと奴の頭を吹き飛ばせる距離にいた。奴が動かない今、私の弾丸は確実に奴を仕留めるだろう。
しかし、それをクリスティーナの前で行う事が出来なかったのだ。
こいつは人喰いの人狼で、娘を利用しようとしたクズで……
だが、彼女の気持ちは……?
どうするべきか、私は決めあぐねていた。狼男は、再び呻くような笑い声を漏らし始める。
タァンッ!!
と、発砲音がして、狼男の身体が揺れる。
私の銃ではない。
見れば、廊下の端で床に伏せたダニーが銃を構えていた。這って、弾道が私達に被らない場所まで移動したのだ。
––––––グルルルルル……
低い低い唸り声が、廊下に響く。狼男は、ゆっくりと首を巡らす。その視線が、ダニーを捉えた。
「!……くっ、化け物め!!」
ダニーは再び発砲した。しかし立て続けに放たれたそれは、狼男を傷つける事はなく、彼を更に苛立たせただけだった。通常の小銃と鉛玉では、強靭な狼男の皮膚を貫通することすら出来ないのだ。
『グルゥァアアアアッ!!』
「う、うあ……」
苛立ちを爆発させた狼男が、咆哮を上げてダニーに襲いかる。ダニーは動けない。
––––––くそっ!!
ダニーに銃弾を当てる訳にはいかない。私は引き金は引かずに床を蹴った。ダニーに食らいつく直前の狼男の首を、後ろから捉える事に成功する。
『グゥウウウッ……!』
「離れろっ……ダニー!!」
「ひ、ひぃっ……」
狼男の首を絞め、その鼻先にいるダニーを逃す。こいつがこのままで終わらない事は、経験から分かっている。思った通り、狼男は私を振り払おうと、めちゃくちゃに暴れ始めた。
『ガァッ!!』
ドガッ!!
「きゃぁあっ!!ドクター!!」
廊下の壁に私の身体が叩きつけられ、クリスティーナの悲鳴と呼びかけが聞こえる。私は、このまま奴の意識を奪うつもりで必死でしがみついていた。
何度も壁にぶつかり、床を転げ回る。それでも私が離れない事に気付いたのか、それとも遂に息が切れたのか、狼男は私を背に床に転がったまま、動きを止めて正攻法に出た。
首を囲う私の左腕に、奴の両手の爪が食い込む。
「ぐっ……!」
肉を裂かれ、骨を切られる痛みに、私は思わず呻き声を漏らした。鋭い獣の爪に捕えられた私の腕は、握り潰さんばかりの握力と腕力で、じわじわと引き剥がされていく。
「ぐぅうううっ!」
『カハッ!……グゥ……オオオオオッ!』
戒めを押し広げ、狼男は呼吸を取り戻す。それでも私は力を緩めなかった。何とかこのまま抑えつけなければ……どうにかして、生きたまま捕縛を……
私は、まだこの男をクリスティーナの目の前で仕留める事を躊躇っていた。どちらにしろ、握っていたはずのデリンジャーは消えている。何処かで取り落としたのだ。
突然、押し広げる力が無くなったかと思うと、左腕に激痛が走った。そして––––––
––––––ボギンッ。
硬質な音がして、全身にその衝撃が伝わる。
身体の一部が、有るべき姿から逸脱した。
その事実に、更なる激痛と共に、あの『竦み』が全身を走る。
生命の去った、呼吸の無い骸を見たときの、あの。
私の腕は狼男の顎に挟まれ、その両脇から出る手と肘は、あらぬ角度を形成していた。
––––––食いちぎられる。
それは確信だった。
それを理解した瞬間の私の頭は、妙に冷静だった。
––––––医者としては、もう働けないかもしれないな。外科医は恐らく難しい。内科に転向出来るか。何なら町医者でもいい。片腕の医者など、気味悪がられるだろうか。この歳では研究職へは無理か。それ以前に、これ以上人と関わらなくなるのは……
「ドクター!!」
視界の端に、綺麗なものが映る。
ああ、なんて……
そうだ、彼女は綺麗だ。
伝えてやりたい。
匂いなどなくても、
君は……
身に纏ったシーツが翻り、素肌が露わになったクリスティーナの手がこちらへ伸びて来た。
涙に濡れた、
その顔には、
絶望。
駄目だ。
来るな。
『グルァアアアアッ!!』
咆哮と共に、身を起こした狼男。
私の腕は解放され、視界は遮られた。
彼の腕が振り抜かれる。
狼男の後ろ姿の端から、色濃い液体を飛び散らせながら、か細い肢体が崩れ落ちていった。
ばしゃりと、床が濡れる音。
血。
満たされて行く。
痛いほどに甘美で、
濃密な、
あの熱い芳香に––––––
どくん、
と、何かが動いた。
その感覚を最後に、私の意識は身体の支配を失ったのだった。
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