第二十二話 追い駆ける

 十ヶ月前にハニーが失踪してから、私は大家を説得して、それなりの侵入対策を自宅に施していた。


 玄関の鍵は、今までの単純なシリンダー錠からマグネット機能の付帯したディンプルキーに変えた。これでピッキングはされにくくなる。窓にはもう一つの鍵と防犯ブザーを取り付けた。そして家の正面の窓と玄関が見える位置には、監視カメラも設置してある。


 本当なら窓の外に鉄格子でも嵌めてしまいたかったが、将来の貸し出し時に見た目が良くないと困ると大家がごねたために断念した。勿論、費用はその全てを私が負担している。


 他に侵入ができるサイズの窓は寝室と書斎にあったが、こちらには内側からしか開けられないシャッターを取り付けさせてもらった。日中私がいない時には光が全く入らなくなるが、必要となれば外壁を傷付けずに取り外せるし、正面からは見えないということで許可してもらった。鉄格子ほど厳重ではないが、侵入する難易度は格段に上がるはずである。


 それなのに––––––




 ハニーが居ないだと?


 私は、思わずクリスティーナの方を振り向いた。



 彼女は私が解放したその場所で、不安げにこちらを見ている。



 何故、どうして、十ヶ月前に彼女を攫ったのはクリスティーナでは無かったのか?それとも他に仲間が……


 ぐるぐると、纏まらない思考が頭を回る。


『ヴィットーさん?』

「あ、ええと……ほ、本当なのか、ハニーが居ないって。」

『だからさっきからそう言ってるじゃん。今一緒に居ないの?じゃあどこに行っちゃったんだろう?ヴィットーさんの部屋も見ちゃったけど、居なかったよ?』


 私の間抜けな反応に、呆れたように電話口のミッチが答えた。




 ミッチは自宅の前の通りの反対側、三軒隣の家に住む子供だ。散歩の時に時折顔を合わせ子供で、彼ら一家も犬を飼っていることから、挨拶を交わすくらいには親しくなっていた。ハニーが一度失踪していることも知っている。


 私は今朝彼の自宅に電話をかけ、専業主婦であるミッチの母親に、可能であればハニーに夕食をやっておいて貰えないだろうかと聞いたのだ。外出するが、帰りが遅くなるかもしれないからと。


 同じ事を以前一度だけ、学会への出席の為に出張した時に頼んだことがあった。お互いの家を訪ねるほどは親しくはないが、彼らは私が職場以外で頼れる数少ない人間たちなのである。


『勿論よ!任せてちょうだい!私かミッチがあげておくわ。以前と同じように、冷凍したのを解凍すれば良いのかしら?』


 自身もボーダーコリーの雌を溺愛している婦人は、二つ返事で引き受けてくれた。その電話の後、私はスペアキーを渡しに行ったのだ。




 いつもはどんなに遅くなっても、ハニーには出来る限り私自身が夕食を与えていた。


 そう何度も彼らに頼るのが心苦しいこともあったが、やはり自分が与えたかったのである。彼女が美味しそうに食べるのを眺めたり、食事を共にするのは私にとってもひと時の幸福だったのだ。成犬であれば1日1食で良い所を朝と夕の2食与えるようになったのも、仕事で遅くなった時に空腹になりすぎないようにする為であった。


 そんな中今回彼らに依頼したのは、間違い無く罪悪感からだった。


 いつでもハニーを最優先してきた私だが、今回は夕食の時間帯に出かける事になってしまったのである。しかも、目的は他の人物に会う為。あまり懸念することではないのだろうが、昨晩の彼女の反応も相まって、私は恐らく必要以上に気を揉んでいたに違いない。




 だが、頼んでおいて正解だった。


 少なくとも、彼女の失踪にいち早く気づくことが出来たのだ。




『ねぇどうする?ヴィットーさん?』

「か、鍵は、鍵は開いていたのか。窓は。」

『玄関の鍵?閉まってたと思うよ。カチャッて音がしたし……窓は……みんな……閉まってると思うけど……』


 彼の質問に取り合わずに被せた私の質問に、だんだんと不安を滲ませながらミッチは答えた。私の取り乱しようから、侵入者がいたかもしれないという私の疑いを察知したのだろう。


 彼のその反応で、私は逆に多少の平静を取り戻した。


「いいかいミッチ、そのまま家を出るんだ。何もしなくていい。鍵は締め直して、自宅に戻るんだ。私は近くにいるから、すぐに戻る。家にお母さんはいるね?」

『う、うん、いるよ。』

「家に着いたらもう一度電話して。いいね?」

『うん、わかったよ……』


 彼がそう答えたのを聞いて、私は電話を切った。




「ドクター、あの……」


 見れば、すぐ側にクリスティーナがいた。どこか辛そうな表情で、私を見上げている。


 あの強い匂いが、また私を包む。だが––––––


「すまない。私は行かなければ。」


 私は毅然として言った。身を翻して玄関に向かう。私の一部は確かに、この場所から離れられる事に安堵していた。


「ドクター!!私は……」

「ハニーが居なくなったんだ。探しに行かなければいけない。」


 私の袖を掴んだクリスティーナに、私は正面から向き直って言った。




「彼女は……、彼女は私の大切な……とても大切な存在なんだ。」




 どうしてか、彼女を犬だと公言する事には抵抗があった。


 いつだってそうだ。彼女は、私にとっては単なるペットなどでは無いのだ。


 いつでも一人ぼっちだった、人間になりきれない私にとっては。




 私は震える彼女の瞳から視線を外し、踵を返して玄関から飛び出した。私の袖を握っていた彼女の手は、力無く振りほどかれる。私に纏わりついていた甘い匂いは、少しひんやりとした外気に掻き消された。


 キッチンカウンターには切りかけのケールと、レモンと玉ねぎが転がっている。冷蔵庫には買ったばかりのサーモンと葡萄が眠っている筈だ。ダイニングテーブルのコーヒーは、一口も飲まないままだった。


 彼女に罪悪感がないわけでは無い。


 うっかりと聞いてしまった質問にも、答えが欲しかった。




 それでも、ハニーの身よりも優先出来る事などありはしないのだ。






 日が暮れて西側だけ薄く色づいた空の下、自分の車に飛び乗った時だった。


 電話がまた鳴った。


 ミッチは、随分早く自宅に駆け戻ったのだろう。


「もしもし。」


 車のエンジンをかけながら、また番号は確認せずに出る。


『坊ちゃん、今どちらです。』


 電話の相手がフェンだった事に、私は再度虚をつかれた。切羽詰まった声に、緊張が走る。


「フェン?私は……今は家の近くだ。」

『まずい事になりました。奴、キャンプ場に紛れ込みやがった。』

「……キャンプ場だと?」


 一度早とちりで連絡をしてきたフェンの報せは、今度こそまずいものだった。


 キャンプ場。つまりそこにいる人はより無防備なわけで、そこに狼男が紛れ込んだとなれば––––––


「場所は?」

『一昨日の現場から、入江を挟んだ反対側です。あの狼野郎、あの距離を泳ぎやがったらしい。』


 まさか。この地域の海は冷たい。対岸は2kmは離れている。しかし彼が言うのなら、その場所にいるのは間違い無い。


『急いで坊ちゃん!私じゃ囮になるぐらいしか出来ない!』

「フェン!」


 私の呼びかけに応える事なく、通話は途切れた。




 こんな時に––––––


 呆然とする私の手元で、また電話が振動を始める。画面を見れば、ミッチからだった。少しだけ躊躇してから通話ボタンを押す。


「……もしもし。」

『ヴィットーさん?家に着いたよ。』


 少し興奮したようなミッチの声。


「そうか……ありがとう、知らせてくれて。」


 まだ車を出せずに、私は答えた。


『……ヴィットーさん?』


 一瞬、彼らにハニーの捜索を頼もうかと考えた。しかし、侵入者がいた場合に彼らに危険が及んでは困る。


 クリスティーナの事を思い出す。彼女が血族である可能性。……もしハニーの今回の失踪に、『人にあらざる者』が関わっていたのだとしたら。


 何処かで私を見張っているだろう、ダニーとゲイブのことも思い出す。彼らに直接頼めるか……可能性は低いだろう。


『ヴィットーさん?』

「いや……何でもないよ、ミッチ。また連絡する。ありがとう。」


 そう言って、私は電話を切った。




 私が、ハニーよりも大切にしているものなどない。


 だが、既に動き出した狼男をそのままにしておけば、人命に関わる。


 フェンがもし力を使い果たしてしまったら、狼男から逃げ切れるだろうか。




 ルンルンルン……と、静寂の中でエンジンの音だけが響いた。


 薄いジャケットの下に身につけていたデリンジャーはホルスターごとクリスティーナの家に入る前に外して、助手席前のグローブボックスにしまってある。その存在が、今は恨めしかった。


「くそっ!」


 悪態を吐きながら、私は出来る限り力を制御して運転席のドアの内側を叩いた。乱雑にギア切り替えて、車を走らせる。


 一秒でも早く戻り、ハニーを探すために。


 ◇◇◇



 都合の悪い事に、フリーウェイはまだ通勤ラッシュで車が溢れていた。


 その間を縫うようにして走り、やっとの事でキャンプ場に辿り着く。深い針葉樹林の森に囲まれた小川沿いの一角は、既に闇に包まれていた。フェンの電話から、既に小一時間は経ってしまっている。


 キャンプ場の入り口のゲートは既に閉まっていた。このキャンプ場は車を乗り入れてそのままそれぞれのキャンプサイトに止められるようになっているが、ゲートの前にも小さな駐車場があった。そこに車を止め、外に出る。薄いジャケットの下には、デリンジャーを装備して。




 ゲート横にはドライブスルーで入場を管理する為の小さな小屋があった。灯りは付いていて、中にはまだ見張役の影が見える。私はこの後どうするべきか考えた。


 フェンは狼男がキャンプ場に紛れ込んだと言った。しかし、入り口の様子を見た限りでは騒ぎになっている様子は無い。フェンは、狼男を人のいるエリアから離すことに成功したのだろうか。


 今のところ、フェンの発するあの音は聞こえない。この場所からでは木々が邪魔をして見えないが、少し中を進めば、まだ火を囲んで談笑する家族や大人たちが其処彼処にいるのだろう。


 こうしている間にもフェンは、いや、何も知らない一般人が危険な目に遭っている可能性がある。とにかく、この奥に進まなければいけない。私はダメ元で、ゲート横の見張役に声を掛けた。


「やあ、今晩は。」

「どうも。」


 椅子を二つ使って足を伸ばしていた小太りの男性は、いかにも面倒くさそうに、しかし何とか身を起こしながら答えた。薄いグリーンの制服を着ていて、胸にはこのキャンプ場のマークであろう刺繍のワッペンが縫い付けられている。


「知り合いが中に居るんだけど、入ることは出来るかな?」

「……知らされていないのであれば申し訳ないですが、もう入場時間は過ぎています。日が暮れてから場内を車で走られると安全上の懸念があるため、お入れする訳にはいきません。」


 男は権限を任されている者らしい毅然とした口調で、胸を張ってきっぱりと言った。キャンプ場らしく、ゲートの奥には人口の照明は一切見当たらない。場内には沢山の子供もいるだろう。彼の言っている事は最もだ。


「歩いて入るなら問題無いかい?」

「歩いて?」


 私の質問に、男は盛大に眉をしかめる。


「何番のサイトです?場所によっては、歩いたら何時間とかかりますよ?」


 私の言ったことは、よほど荒唐無稽なのだろう。男の声は半ば裏返っていた。


「そうか……いや、すまない。詳しくは聞いていなかったんだ。分かった。一度電話をかけて相手と相談してみるよ。無理なら明日出直すとしよう。有難う。」


 私は、適当な嘘をついてその場を離れた。


 車まで戻りその影に身を隠す。そして運転席のドアは開けずに、見張役からは死角になる角度で車を離れ、そのまま深い茂みの中に足を踏み入れた。




 茂みの中、道無き道を進みつつ、これもダメ元で一度フェンに電話をかけた。やはり通話は繋がらない。彼が電波の無いところにいる可能性が高いだろう。


 私は真っ直ぐ進んで少しの距離を稼ぐと、進路を変えて斜面を登り始めた。この暗がりでこの距離であれば、ゲートの見張もキャンパー達でも、私の動きに気付く者はいないだろう。


 私の身体能力は常人より遥かに優れている。そしてそれには視力も含まれる。履いている靴が専用で無いことが少し不便ではあったが、目の慣れた私には、暗がりの中で山道や崖を登る事はそれほど苦ではなかった。


 暫く真っ直ぐ登った後、そこからまた方向転換をして斜面を水平方向に進み、キャンプ場の方に向かった。暫く進めば、眼下にキャンパー達の焚く炎の光がちらほらと見え始める。


 キャンプ場は、両脇を山々に囲まれた渓谷に広がっていた。時折雲間から見える月が、その全貌を私に明らかにしてくれる。



 ––––––どこだ、フェン……



 私は一度動きを止め、キャンプ場を見下ろして耳をすませた。まだフェンの『合図』は聞こえない。それとも、まだ私が離れ過ぎているのか。


 ––––––もし彼が既に力尽きていたら……


 私の不安が言葉になって脳裏に浮かぶ。


 彼は長年私と共に、いや、単独でも『使者』としての使命を果たし続けているベテランだ。しかし何度も捕縛を失敗している今回の相手に、私は彼の身を心配せずにはいられなかった。


 ––––––頼むから私が着くまで無理はするなよ。


 そう祈りながら、彼を見つけ出すために渓谷の更に奥に進もうとした時……



 遠くから、微かな音が山々に反響して聞こえて来た。



 しかしそれは聞き慣れたあの不快な音では無い。


 ––––––車のサイレン?


 私が音の来る方向、今来た方角を向くと、その音が段々と近づいてきているのが分かる。


 間違い無い。あれはパトカーのサイレンだ。


 どうして。まさかもう被害が出ているのか。それとも別件か……




 私は考えを巡らせていたが、幸運な事に、研ぎ澄まされた私の聴覚はまた別の音を聞き分けた。



 サイレンの音に掻き消されてしまいそうで、それでも微かに届いたのは、頭の奥を引っかかれるような不快な高周波。



 ––––––いた!


 私は、渓谷の奥に向かって真っ直ぐに駆け出した。

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