第四章 四日目

第二十話 ドクターの待ち合わせ

 翌日、クリスティーナが指定していた時間は午後5時半だった。


 私の定休は平日だったので、彼女は今日も普通に仕事なのだろう。それが終わってから落ち合う約束のようだ。


『今度は私が夕食をごちそうしますね。楽しみにしていてください。』


 一昨日の別れ際に、そう言って微笑んだ彼女を思い出した。




 結局私は、約束を反故にする度胸をかき集めきれず、指定された場所であるスピアサイトマーケットに来ていた。


 ここは観光客も多く訪れる、昔から続く地元の市場だ。


 市場とは言っても農作物や海産品だけが並ぶわけではなく、港沿いに細長く広がる三階建ての建物の中には様々な種類の店舗が軒を並べている。地上階には新鮮な海の幸や地元で採れた野菜を売る店舗が多いが、二階から上にはレストランや土産みやげ屋、アンティークや工芸品などを扱う店も揃っている。絵や手作りの品を売るアーティストや小企業のブースが並ぶエリアもあり、まるで毎日が展示会か即売会のようであった。


 ダウンタウンのど真ん中でもあることから、この場所に人の足が途絶えることはない。今日もここは観光客と地元の人間でごった返していた。


 近場のパーキングに車を停めた後、私は指定された魚屋の前にある牛の銅像の横で、落ち着かない気分でクリスティーナを待っていた。




 落ち着かない理由はいくつかある。



 一つは、この場所を訪れたのが初めてだという事。誰もが知るこの町の観光名所ではあったが、引っ越してからの一年間、もちろん私がそれに興味を持った事は無かった。ハニーと過ごすようになってよく出かけるようになってからも、私の出かける先はハニーを連れて歩ける場所(散歩かハイキング)か、ハニーのための買い物をする場所(ペット用品店)に限定されていたのだ。私は、予想以上の人ごみと喧騒にやや驚いていた。


 もう一つは、外で人と待ち合わせるという慣れないことをしているが為。基本的に他人との交流を絶っていた私には、誰かと外で会うなんてことは一体いつぶりのことなのだろう。こんな人の多い場所で本当に目当ての人間を見つけられるのか、などと不安さえ感じてしまった。



 そしてもちろん、その待ち合わせの相手がクリスティーナであるという事実。



 ハニーを誘拐したかもしれない、私の家への侵入者。


 頻繁に行方不明になるという、謎の多い人物。


 年若いがかなりの美人で、私に、少なくとも何かしらの興味は持っている女性だがその意図は不明。



 そして、香しい芳香の持ち主―――つまり、血族の一員である可能性が非常に高い。




 ―――馬鹿か私は……


 考えながら、私はため息をついた。


 最善を考えれば、この場所には来ないほうが得策だったに違いない。


 彼女と会えば、またあの吸血欲求に苛まれるのは目に見えている。あの香りは、私にとっては今まで体感した事が無い程の衝撃だった。あれほど私の欲望を直接揺さぶられる感覚を、私は未だかつて経験した事が無い。またあの香りに包まれてしまえば、私は理性を保てるかすら怪しかった。


 彼女が何を企んでるのかもまだわからない。せめてフェンが彼女の背景を調べるまでは、待つべきだったのだろう。




 しかし、約束を破って彼女を傷つけることを想像するだけで、私は居てもたってもいられなかった。彼女が苦しみに表情を歪める様子を想像しただけで、胸が締め付けられるように痛んだ。




 少なくともその罪悪感が、私がここに来た理由として自分自身を納得させたものである。




 だが気持ちを落ち着かせて冷静になろうとすればするほど、根底では私が彼女との再会を待ちわびていることは、誤魔化し様の無い事実だった。


 私は必死で、彼女の血を求める私の中の「吸血鬼」の声を無視しているのである。


 早く早くと、あの平衡感覚さえ失いそうな濃密な快楽を連想させる香りと、その先にあるであろう甘い痺れの予感に急く私の潜在意識から、なんとか目を背けようとしていたのだ。




 いい加減、素直に認めるべきだ―――そうだ、少なくとも、吸血欲求だけでなく彼女に異性としての魅力も感じているという事実だけでも……


 だがその考えに至るたびに、私の脳裏にあの光景が蘇り、嫌悪が吐き気となって込み上げる。


 私はこっそりと、自分をあざ笑った。


 私は自分で思っていたよりもよっぽど酷く、幼い頃のトラウマを拗らせているのだろう。血を吸うことへの強烈な嫌悪は十分自覚していたつもりだが、それが異性との関りに対する認識にも及んでいたとは。欲求に負けて血を吸ってしまうことを防ぐために異性との関りを避けてきたつもりだが、どうやら父と母に関するトラウマは、私の中で男女関係そのものに対する嫌悪も育んでしまっていたようである。


 彼女と知り合わなければ、私は自分の中にある本能とトラウマとの葛藤には気づかないままを終えていたかもしれない。




 私は、自身の理性と感情が引き起こしている混沌と折り合いをつけることはあきらめて、また一つため息をついた。


 一緒に食事をするだけだ。頼まれたのだから仕方なく。私の動機なんてどうでもいい。礼をしたいというのだからさせてあげて、それで終わりだ。たった数時間、なんとか耐えればそれで済む。それに狼男のこともある。他のことに気を取られてばかりはいられない。そうだ、数日すればまた病院の仕事にも戻る。そして一日の終わりには、またハニーとゆっくりして和むことができるのだ。


 そうだ、せっかくの休日に彼女を一人にしてしまった。さっさと終わらせて、早く帰らなければ。


 家で私のことを待つ愛しいのことを思い出して、私の精神は少しの平静を取り戻した。




 ところでもう一つ、私の平静を阻害している要因があった。


 それは一定の距離を保って、ちらほらと姿を見せる二つの影である。


 マーケットの入り口で、通りに突き出した形で店を出すカフェの外壁。その影から時折顔をひょこりと出してこちらを伺っているのは、間違いなく顔見知りの警官二人、ダニーとゲイブである。


 常人より感覚が鋭いであろう吸血鬼の私が相手では仕方がないのかもしれないが、その尾行の技術の心許無さに、私は思わず彼らの警官としての今後のキャリアが心配になってしまう始末だった。


 フェンは、狼男の件は『人にあらざる者』の管轄であり、我々『使者』が受け持つということを警察の上層部には伝えていると言っていた。だとすれば、彼らは未だに自己の判断で私のことを見張っていることになる。一体何が彼らをそこまで駆り立てるのだろうか。たまたま担当した事件の関係者である私が再度現れたことで、何か運命を感じてしまったのだろうか。




 今日の私は、フェンの言いつけ通り小型小銃のデリンジャーを身に着けて出歩いていた。いつまた狼男が動き始めるかわからないからだ。


 今はまだ太陽が出ているが、日が暮れれば狼男も活動を始める可能性がある。何かあればまたフェンから連絡が入るはずだ。それに備えるためには、デリンジャーの装備は必須であった。


 しかし、銃火器を持ち歩いていることを彼らに知られてしまったら、彼らはしめたとばかりに私を捕まえるだろう。そしてここぞとばかりに更なる尋問を行おうとするはずだ。


 万一ダニーとゲイブに見つかって連行されたとしてもすぐに釈放されるのは目に見えているが、ただただ面倒である。それが原因でまた狼男を取り逃がすなんてことは、是が非でも避けたい。デリンジャーを持っていることを、彼らに見つかるわけには行かないのである。




「お待たせしてすみません!ドクター!」


 突然視界に現れたクリスティーナに、私は面食らってしまった。近づいてくる気配を全く感じなかったのである。


「あぁ、いや、問題ないよ。」


 反射的に答えて、私は愛想笑いを浮かべる。


「私も今来たところさ。元気だったかな、クリスティーナ?」


 年配の者らしい社交辞令を口にして、自分の戸惑いを何とか誤魔化そうとした。




「ええ。またお会いできて、とてもうれしいです。」


 少し弾んだ呼吸でそう言った、彼女が向けたとろけるような笑顔に、私の心臓は一瞬動くのを忘れてしまったようであった。




 不自然な間に彼女が戸惑いの表情を浮かべたのに気が付いて、私はわざとらしい咳ばらいをひとつして見せた。


「あ、あぁ、私もだよ。君との夕食を楽しみにしていたんだ。」


 ポロリと零れた本音に私自身が気づくよりも早く、彼女がまた嬉しそうに言った。


「本当ですか?私もです!今日は腕によりをかけてからね。……少し時間がかかってしまうから、それまでお腹がすきすぎてしまわなければいいのですけれど……」




 彼女が市場の奥へ歩みを進めようとしながら言った言葉を私が理解するまで、また一瞬の間があった。


「……作る?」

「?……はいっ。今日の夕食は私が作ります!」


 立ち止まったまま呆然とつぶやいた私に、クリスティーナが私を見上げて、また嬉しそうに言う。


 ―――作る?夕食を?外で食べるのではなく?


 戸惑う私に、クリスティーナの表情が突然悲壮なものに変わる。


「もしかして、お忙しかったですか?お時間のご都合、悪かったですか?」

「あ、いや……」

「ごめんなさい。私ったら、事前にちゃんと確認しないで……私、多分浮かれてしまっていて……」

「い、いや、いいんだ。問題ないよ。全く。全然。気にしなくて大丈夫だ。い、いやぁ、楽しみだなぁ。」


 落胆を露わにしたクリスティーナに慌てて、私はまくし立てるように続けた。気のせいか、つい最近同じような感覚を味わった気がする。いつだったかは思い出せないが。




 私の、ともすればわざとらしく聞こえてしまいそうな言葉でも安心させる事が出来たのか、クリスティーナは表情を和らげて言った。


「良かった……せっかくだから、市場で新鮮な食材を買って作って差し上げたかったんです。ドクターはお魚とお肉、どちらがお好きですか?」

「そ、そうだなぁ。どちらかと言えば魚かな……」

「分かりました!それじゃ、こっちに行きましょう。」


 先日のステーキの調理中に発作を起こした私が好き嫌いではなく消去法で答えると、クリスティーナは私の上着の袖をくいと引っ張って、すぐ目の前にある魚屋ではなく市場の奥に向かって私を誘導する。


 ぐい、と、更に袖を引かれて、私はされるがままに上体を傾けた。



 ふわりと、あの甘い香りが鼻孔を突いた。ぐらりと私の意識が揺れる。ああ、そうか……ここは外だから、近づかなければ匂いは……



 耳元に、片手で覆いを作ったクリスティーナの囁き声が聞こえる。私にだけしか聞こえない音量で。


「ここのお魚屋さん、入り口にあるから見た目は派手だけど、奥にもっと良いお店があるんです。大きい声では言えないけど、そっちの方がお得だし、お魚の質もいいんですよ!」


 元の距離に戻ってからくすりと笑って、クリスティーナは先に歩き出した。


 私の袖は握ったままで。




 彼女は、この市場によく来るのだろうか。随分この場所に詳しいようだが。


 しかしほぼ初対面の男を自宅に呼ぶなんて、警戒心が無さすぎでは無いのか。


 それとも今の子はこれが普通で、そんな事を心配してしまう自分がおかしいのだろうか。



 そんな疑問がぼんやりと頭に浮かんではいたが、私はあの匂いに囚われて、二人の追跡者の事も忘れ、ただふらふらと彼女の後をついて行くことしか出来なかったのだった。

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