第十八話 準備する

 あまり考えたくは無かった。


 だが、クリスティーナの匂いを嗅いだ時に湧き起こった体感したこともないほどの吸血欲求––––––それは、ただの人間相手に起こるはずのないものだった。


 そして体感した事は無くとも、心当たりはある。


 吸血鬼の特性が目覚めてからは、私はそれに関わるものから出来るだけ離れて生きてきた。だが知識としては知っている。



 吸血鬼が、『血族』の者を前にした時の反応を。



 吸血鬼は、好む血を持つ者を匂いで認識できるのだと言う。


 半吸血鬼である私のあの反応が、吸血鬼が『血族』の血を認識した時のそれなのだとしたら……




 今までフェンと父の側仕え達は、幾度と無く私に血族達との面会を勧めてきた。


 気に入った味を見つけて、専属のとするためだ。


 血を飲まなければ人間と同じように老い、やがては死に至る吸血鬼である私も、定期的に血を飲む生活を送れば純粋な吸血鬼と同じ様に半永久的な鬼生を手に入れる。私と私の父に近い者達は––––––正直なところ、父本人はどう思っているかは定かではないが––––––、勿論私にそれを望んでいるのだ。


 だが私が強く吸血を拒んでいる事も、そうする理由も、彼らは知っている。


 だからこそ、遠回しに、しかししつこく勧めては来たものの無理やり血を飲ませたりなどの実力行使に至る事はなかった。そんな事をすれば、私が彼らとの縁を切りかねない事を知っているのだろう。


 そして、私が人の年齢で折り返し地点を過ぎている今、ほとんどの者は私の意思が固い事を悟って諦めている筈だった。だが––––––




 彼らの事を疑いたくは無かった。


 しかし、幾度と無く禁断症状に襲われている近頃の私を見ていればもしかしたら、と……そう思わずにはいられなかったのだ。


 フェンは私の様子を、逐一父の側近達に伝えているはずだった。フェンは私の仕事のパートナー兼お目付役なのである。


 そのことに関しては、私はなんら文句は無い。父の側にいた者達には、その多くに幼少時から随分と世話になっている。彼らが私の事を知りたいのならば幾らでもその権利があると思える程には、私も彼らに情を感じているのだ。


 そんな者達が、私の最近の苦しみ具合を知ってこっそりと私の周囲に『血族』の者を送り込むことがあっても、私はきっと驚きはしない。だからクリスティーナの事はもしかしたら、と……そう思ったのだ。


 その匂いに負けて、自ら吸血に至る事を期待していたのだとしたら。


 十ヶ月前の事も、例えば私に近づくためにハニーが邪魔だったと判断したのだとしたら。


 そんな風に考えていたのだ。




「坊ちゃん……」


 幼少時から変わらない呼び名で、フェンは私に静かに呼びかけた。


「私の普段の振る舞いが、私の貴方に対する忠誠に疑いを持たせるようなものであったのならここで謝罪致します。」


 靴音と衣擦れの音がして、彼が跪いたのが分かる。


「……私達は確かに、貴方の存命を望んでいる……しかし、貴方を欺いてまでそれを達成しようなどと……そのような愚かな行いをする者がいれば、私が真っ先にその首をいで貴方に差し出すと、今ここで新たに誓いましょう。」


 俯いたままで言われた幾分過激な言葉は、木の床に跳ね返り少しくぐもって私に届く。そこには、真摯さ以外の何の感情も読み取れはしない。


「すまない……」


 私は、彼の方を見ないままで囁いた。


「貴方の信頼を損なうような振る舞いを私がしたのだとしたら、それは私の落ち度です。」

「いいや違う。お前の所為じゃ無い。」


 私はひとつ、大きく深呼吸をした。


「感じた事の無い感覚で、動揺していたんだ……かの一族は、厳重に保護されているはずだ。そうそう街中で鉢合うわけがないだろう?だとしたら誰かが連れて来たんじゃないかと……そう考えただけだ。」


 フェンは動かない。俯いて、私の話を聞くだけだ。


「お前達が私の意に反する事をしようとしない事は分かっている……それが、例え『管理者』の指令だとしてもお前らは嫌がるだろう?」

「貴方のお父上は……かの方であってもそのような事は……」

「いいんだ、分かっている……顔を上げてくれ。お前がそんな態度だと調子が狂う。知っているだろう?」


 私はため息をつきながら言う。有難い事に、フェンはゆっくりと立ち上がってくれた。


「とにかく、彼女が『血族』である可能性は高いと思う。どういう事なのか調べてくれると助かる……」


 私は俯いたままだった。


 彼らの仕組んだ事では無い事ははっきりした訳だが、どうやっても、『血族』––––––つまりは母に関するトラウマに関わる話題––––––に言及する事は神経を擦り減らす。私は達成感だけを除いた、執刀後のような疲労感を感じていた。


「勿論です。……徹底的に調べましょう。」


 はっきりとした声音のフェンの言葉は、これ以上無いほどに頼もしく感じられたのだった。




 会話がひと段落した事を察したのか、いつの間にか私の隣にお座りをして様子を伺っていたらしいハニーが首を伸ばし、俯いた私の顔に鼻先を押し付けて来た。私は顔を上げて、口元を舐める彼女のキスを受け入れる。思わず微笑んで、それならばとハニーの全身を引き寄せ、自分の膝の上に抱えて抱きしめた。ハニーは満足そうに私の顎の下に顔を押し付けて、パタパタと尾を振った。


 フェンが再三の咳払いをして言う。


「それでは私は失礼しますよ。恐らく、今夜は標的は動かないでしょう。単なる私のカンですが……」


 フェンは、何も無い天井の方に目を泳がせて言った。


「お前のカンは良く当たるよ。」

「そう願います。女性の件は、念のため一族の者にも聞いて回りましょう。何か分かれば、すぐに連絡します。そうそう、狩りの準備の方も、どうかお忘れ無く。」


 では、と言って、フェンの姿は掻き消えた。




 彼の気配が完全に消え去ったのを感じて、私はまた、大きなため息をついた。ズルズルと、ハニーを抱いてソファーに寄りかかったまま横に倒れる。


 今日も一日、とても疲れた。


 物理的には対して動いてはいない。だがここ数日の疲労に加えて、医師として仕事を全うできないもどかしさ、警官二人の対応、そしてフェンとの重い話題の会話に、流石の私も根を上げたい気分だった。


 私に引き摺られて腹の上に横になったハニーは、相変わらず尻尾を振りながら私の耳や首元の匂いを盛りに嗅いでいる。彼女が思う存分そうするのを待ってから、今度は私が彼女を再度引き寄せて、そのモフモフした肩口に顔を埋めた。


 思い切り息を吸って、彼女の匂いを堪能する。まだシャンプーしてから数日しか経っていない、少し甘い、獣の匂い。



 あぁ落ち着く。



 ささくれ立った精神の外皮が、ボロリボロリと剥がれ落ちていくような気分だ。


 一度を失ったかも知れないと思っていたのだから、その喜びはひとしおだった。




 一昨日の夜に怯えた様子を見せたハニーは、昨日の夜からは元に戻ったようだった。もしかしたらコウモリ姿のフェンを見て煽られた母性本能で、怯えを克服したのだろうか。


 そう思うと少し腹が立つ。


 が、どちらにしろ、彼女は再び私に身を任せてくれるようになった。私にとってはそれが最重要事項だ。


 私は、一度も彼女に触れる事の出来なかった一昨日の夜と憔悴し切ってゆっくりと彼女との時間を楽しめなかった昨晩の分まで取り戻すつもりで、ハニーの身体をきつく優しく抱きしめた。引っ切り無しに腿を打つ尾が、彼女がそれを歓迎している事を教えてくれる。




 そのまま微睡みに落ちようとしていた私の目は、しかしローテーブルに放ってあった封筒と便箋を見つけてしまった。途端にフェンの言葉を思い出す。



(狩りの準備の方も、どうかお忘れ無く。)



 名残惜しい気持ちに苛まれながらも、私はハニーを抱いたままゆっくりと起き上がった。


 彼女をそっとソファーに下ろして、書斎に向かう。結局のところ、彼女は私の後を付いて来てはしまうのだが。


 ◇◇◇



 私の背後で彼女の爪がリズミカルに床を打つのを聞きながら、私は今では滅多に使わなくなった書斎に入った。そして、ほとんど物置になっている部屋の奥にあるメタルラックから、取っ手の付いた一つのキャリーケースを手に取った。


 埃に覆われてしまった革製の外装をそのままに、それをデスクの上に置く。椅子に座り、二つの留め金を外してそれを開いた。脇から鼻を伸ばして匂いを嗅ごうとしていたハニーは空気中に舞ったホコリを吸い込んだのか、お決まりのくしゃみをして見せる。



 ケースを開いた途端に、鋭く光る銀色の光が目を刺した。



 黒いスポンジのクッション材の型に嵌められてケースの中から姿を現したのは、鏡の様に硬い光を反射するステンレススチールの細長い長方立方体と、艶のある木製の持ち手が一体となった物だった。


 掌に乗るほどのサイズのそれには、持ち手の上部に撃鉄が、下部には引き金が伸びており、それが紛れも無い拳銃である事を示している。




 私はそれを手に取って、本体には不釣り合いな程長く見えてしまうグリップを握る。波型にかたどられたそれは、私の右手にしっとりと馴染んだ。


 鏡面仕上げの銃身の全長は約4インチ(約10cm)。二つの銃口と照準を合わせる為の突起のある先端から、上側に開く中折れ式の結合部、そして撃鉄までを入れても、私の掌にすっぽりと収まってしまう。


 引き金を引く前に親指で撃鉄を起こさなくてはいけないシングルアクションと呼ばれるタイプだが、上下二段だけの連発式でリボルバーの様な弾倉だんそうも無いので、厚みもポケットに収められる程に薄い。


 これは、護身用に隠し持ったり予備の銃として持ち歩かれる、いわゆる「デリンジャー」という総称で呼ばれている小型小銃の一種だ。しかし大量生産されている型では無かった。



 これは、『管理者』が『使者』である私の為に作らせた特注品なのである。



 私は親指で特製デリンジャーの撃鉄を僅かに浮かせてから、逆の手でフレームの左側面にある小さな凸部を押し込んだ。こうする事で安全装置が撃鉄を抑え、謝って撃針を叩くことが無くなるのだ。


 撃鉄がしっかりと止められている事を確認して、フレームの反対側にあるしっかりとした造りの留め金を外す。本体は上部にあるやや大振りな結合部の軸を中心に上側に折れ、銃身側の薬室とフレーム側の撃針、それぞれ二つが顕になった。薬室には銃弾は収められていない。


 私は銃身をフレームに嵌め直し、留め金を留め直して、安全装置を外し、一連の動きがスムーズに行える事を確認した。




 一旦本体をケースに戻し、その隣に収められていた紙箱に手を伸ばす。取り出して上蓋を外せば、整然と並んだ、シルバーの弾頭にゴールドの薬莢の銃弾が鈍く光を照り返している。


 銃弾の全長は2.5インチ(約6.5cm)。銃身の半分よりも長かった。そもそも銃全体が小さ過ぎるほどのサイズな訳だが、この銃弾はそれを考慮に入れても大きい。そしてこれが、この銃が私専用である理由であった。


 この銃弾は.45-70(フォーティーファイブ・セブンティ)と呼ばれる型で、本来はライフル向けの物なのである。




 小型の銃でライフル用の大きな銃弾を使えば、大の大人でも腕や手はタダでは済まない。


 私専用のこのデリンジャーに似たモデルで.45-70を装填する物があるが(American Derringer M-4 Alaskan Survival)、装填できる二弾のうち片方だけが.45-70用であり、もう一弾は一回り小さい銃弾を装填するようになっている。恐らく、このサイズの銃でライフル用銃弾を連射するのは使用者の肉体がもたないのだろう。


 ライフルのように大きな銃であれば、発砲の際の衝撃は分散され手や肩などへの負担は受け止めやすくなる。しかしデリンジャーのサイズでその衝撃を受けたとあれば手や腕、肩を傷めかねず、下手をすれば流血沙汰にもなり得る。



 しかし使用者が純粋な人間でなければ話は別である。



 このデリンジャーの薬室は、どちらも.45-70を込めることができる造りになっていた。



 私であれば、小型小銃でライフル弾を連続して片手撃ちしても耐え得るからである。




 私が『使者』としての任務のために所持する銃には、いくつかクリアしなければいけない条件があった。


 先ずは、滅多に使わないが準備は必須の装備であるため、メンテナンスが簡単な単純な機構の銃である必要があった。長期間放置したりメンテナンスを怠れば不具合を起こす可能性が高くなる、オートマチックなどの複雑なタイプは不向きである。


 次に、街中で持ち歩く為にコンパクトである必要性。以前は六連弾のリボルバー式拳銃を支給されていたが、見える場所に持っていても問題無い警官でも無い限り、嵩張かさばって非常に不便であることに気が付いた。


 そして、上記の条件を満たしながら、強力な銃弾を使用可能であること。例えば今回のように大型の獣の人外が相手であれば口径の小さい銃など無意味であろうし、近距離でしか撃てなくても本末転倒である。



 これらの条件と私の身体能力を考慮した結果、『管理者』の側近が準備させたものが、ライフル用銃弾の炸裂に耐えられるだけの最低限の強度を保ちつつ最小のサイズに収まった、この特製デリンジャーだったのである。

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