第十六話 警戒する
翌日、職場から自宅に戻るために自分の車に乗り込んだ後、私は昨日と同じようにハンドルに頭を預けて俯いた。
ハニーの温もりを取り戻した分私の気分は軽いわけだが、自分の仕事を全うできないもどかしさはやはり苦痛だった。今日予定されていた執刀は見送られるか別の医師に回され、どちらにしても患者と同僚たちに迷惑をかけることになってしまっている。
実のところ、執刀が出来ない訳ではない。回復は進んでいて痛みは殆ど無い。神経にも問題は無い。ただ傷が塞がり切っておらず、包帯を巻き固定しておく必要があった。そうしておけば私の回復力なら明日には傷跡が残るだけで、手入れは必要無くなる程である。そして数日も経てばそれも消えるはずだ。おまけに出勤した今朝よりも勤務時間の終わった今は傷の塞がり具合は進んでいて、今ではほとんど包帯は必要ないほどだった。
しかし、ただの人間にはそれは不自然である。
包帯が必要な程の怪我であれば、包帯や絆創膏が要らなくなるまで最低でも一週間はかかるだろう。そして、その後も傷跡は残るはずだ。
肩や腕の傷は服を着れば問題は無い。見えない場所であれば、人にはありえない速さで治ってしまってもそれがばれる心配は無いのだ。しかし常に晒されている手となると話は違ってくる。しかもこの歳でこの怪我となれば、若い人間より更に時間はかかる筈な訳であって……
手が使えない外科医は役立たずで有る。私は、実際は必要の無い有給を三日間も取得する羽目になった。そのくらいが妥当だろうと言う自己判断だが、その後も必要の無い絆創膏を貼って、そこに傷が残っているフリをする必要があるだろう。しかし絆創膏を外しても、綺麗さっぱり傷跡が無いとなると不自然かもしれない。しかしあまり長い間怪我の後を晒すのも、患者に不安を与えかねない。
狩りが原因で手にここまでの怪我を負ったのは初めてであった。私は、どうやって今後誤魔化していくべきか考えながら、車を自宅に向けて走らせた。
職場では散歩中に見知らぬ犬に噛まれたと(自分の犬に噛まれた訳では無い事は強く主張しておいた)説明したが、流石医療現場で働く者たちなだけあって、自分で処置した事を伝えると殆ど全員に、
「見せてみろ。君の腕は信用出来無い。」
「左手だけじゃまともに処置出来ていない筈だわ。」
「丁度いい、最新の手術用具を試させてくれ。」
などと迫られた。勿論半分冗談だが。
「君たち、僕の職業を知らなかったかな?」
などと皮肉を言って笑いを誘ったが、本気で傷口を見られやしないかと内心ヒヤヒヤしていた。そんなことになれば、数日後に問題がなくなっていることが更に不自然になってしまうからだ。
デイブに関しては、
「先輩、わざわざ俺の練習台になってくれるなんて優しいじゃないですか!」
などと笑えない冗談を言って来たので、また無視をしておいた。
このときの私は、どの様にみんなを誤魔化そうかという心配が全くの杞憂に終わる事など、全く予測出来ていなかった。
もちろん、この職場に、医師として出勤することが二度と無く、あんな冗談を言い合う事がもう出来ない事も。
そして、数日後にハニーを失う事になる事も。
私は、この後ほんの数日で、自分が大切にして来た数少ないものの殆ど全てを一度に失ってしまうことなど、これっぽっちも分かってはいなかったのである。
◇◇◇
家に辿り着くとドライブウェイの外、道路の端に、見知らぬ車が停まっていた。
あまりそれを気に留めずにその横を通り過ぎ、自宅のドライブウェイに乗り上げて車を停める。すると、バックミラーにその車から二つの人影が出て来るところが写ったのが目に入った。
その人影に、私は見覚えがあった。
途端に私の中に嫌な予感が広がる。
スーツ姿のその二人は予測通り、道路を横切り真っ直ぐにこちらの方に向かって来た。思った通り、私に用があるのだ。
私はドアを開け、車の外に出る。二人の警官は、私の車の横で立ち止まった。
「ええと……」
「ダニーです。こいつはゲイブ。」
名前を思い出せずに言い淀んだ私を見越して、ダニーは
「久しぶりです。ダニー、ゲイブ。」
「ええ、お久しぶりです、ヴィットーさん。」
私達は、半年以上ぶりに挨拶と握手を交わす。
本当は、昨晩会っているのだが。
「私に、何かご用が?」
「ええ、少しお時間を頂いても?」
外は暗くなりかけている。私は、平静を装って彼らを家の中に招き入れた。
◇◇◇
ハニーが行方不明になった時にもここを訪れた二人に、私はリビングのソファーを勧めた。シャワーに飛び込みたいのを我慢してキッチンに向かう。せめてリフレッシュはさせて欲しい。電子ケトルにシンクで水を注ぎながら、私は思いついてリビングの二人に声をかけた。
「コーヒーは飲まれますか?」
「あ、頂きます。」
童顔の方、ゲイブが即答したが、直後にパシンッ、と軽快な音がした。
「お気遣いなく、ヴィットーさん。」
ツリ目の方、ダニーがそう加えた。どうやら彼は後輩の頭を叩いたらしい。昨晩のやり取りといい、私はだんだんとこの二人の関係性を理解して来た。ケトルには三人分の水を汲むことにして、電子ケトルのベースに戻しスイッチを入れる。
カップとコーヒーのドリッパー、そして粉を用意する間に湯は沸いて、私は淹れたての芳ばしい匂いのするカップを片手に二つ、もう片手にひとつ持ってリビングに戻った。
「それで、本日はどういったご用件で?」
ローテーブルに二人のコーヒーを置きながら、自分は立ったままで聞いた。このリビングにソファーは一つしか置いていないのである。
「やぁハニーちゃん、久しぶりだねぇ。元気だったかい?」
ゲイブは私の質問には答えずに、私の後を付いて来たハニーに声を掛けた。どうやら本題にすぐに飛び込む気は無いらしい。私は自分のコーヒーを一口啜った。香ばしい苦さが舌を刺激し、鼻に抜ける。自分を落ち着かせる効果は抜群だった。
二人は彼女が戻ってきた後に一度様子を見に来ている。ハニーもその時に面識があるわけだが、普段はフェン以外に滅多に人を招き入れない私だ。客人の存在に、酷く戸惑った様子だった。コーヒーを淹れている間も、私の足元を離れなかった。舌を鳴らして手を伸ばすゲイブにも、近寄ろうとしない。
「あの後、特に気になることはありませんでしたか?」
ダニーが相変わらず厳しい表情で––––––ツリ目のせいでそう見えるのかも知れないが––––––聞いてきた。ハニーが行方不明になり、戻ってきた後のことを聞いているのだろう。
「ええ、特には。あの後は電話のひとつもありませんでしたよ。でも本当に良かった……」
本心でそう言いながら屈んで、私は寄り添うハニーの耳元をワシワシと撫でた。
ずずず、と音がして顔を上げると、はぁ、とゲイブがため息をついていた。
「やぁー、これはいいコーヒーですねぇ。」
パシンッ、とまたいい音がして、二口目を飲もうとしていたゲイブは後ろ頭を叩かれて口元を火傷したらしい。小さく悲鳴を上げて身悶える彼を無視して、ダニーが続けた。
「実は、今日は少しお伺いしたいことがありまして。」
この二人は案外、マイペースとせっかちでバランスが取れているのかも知れないな、などと私が思っていると、ダニーが懐から何かを取り出した。
「この方をご存知ですか。」
そう言って差し出されたのは一枚の写真だった。それを見て、私は目を剥く。
それは確かに、私の知っている顔だった。
正面から取られたそれは、免許証か何かの証明写真であろう。
真っ直ぐな金髪に、明るい茶色の瞳、すっと通った鼻梁、小さくふっくらとした唇。
今よりも更に数年前のものなのだろう。今よりも幾分あどけないが、その美しさは変わらなかった。
それは、昨日出会ったばかりの女性、クリスティーナ・ディーオルの写真だった。
「ええ、知っていますよ。確かに彼女だ。」
私の様子を伺っていた二人に、私は正直に言った。二人は顔を見合わせる。ゲイブはいつの間にか、手に小さな手帳とペンを構えていた。
「どう言ったお知り合いで?」
「丁度昨日、病院で会ったんですよ。たちの悪い患者に絡まれていて困っていたので、声をかけたんです。」
「病院で?」
「ええ、知り合いか家族の見舞いでしょう。私は見覚えがありませんでしたから、私の患者では無いかも知れませんが。」
二人はまた顔を見合わせて、何かを考えているようだった。
「その時に初めて会ったんですか?」
「いいえ。それが実は、ハニーがいなくなった時に近所で出会っているんですよ。私が探し回っている時に、ハニーを見ていないかと声をかけたことがあったんです。私は恥ずかしいことに覚えていなかったんですが、彼女が覚えていてくれて。いやぁ、凄い偶然でした。」
二人は考え込むように、暫く黙ってしまった。
てっきり昨日の事を聞かれると思っていた私は、拍子抜けしてしまった。と同時に混乱していた。
どうして彼女の事を私に聞いてくるんだ?しかも、この二人の反応だと彼女が病院にいた事はこの二人は知らなかったように思える。だとしたら、どこで私と彼女が繋がるんだ?
ダニーが、私の方に向き直って言った。
「彼女は、一年ほど前から行方不明が続いています。」
「……ええっ?」
私は思ってもいなかった言葉に、思わず上ずった声を上げてしまった。
「行方不明と言ってしまうと、少し語弊がありますが……一年ほど前、行方が分からないと知人から通報があったのですが、暫くして連絡があったようなんです。自宅にも定期的に帰ってはいるようで、私たちも一度顔を合わせてはいます。その時は住み込みで新しい仕事を始めたと言っていました。しかし、それが何処なのか、詳しいことは分かっていない。しかも、数週間か一ヶ月単位で連絡が途絶えているようなんです。」
「彼女は、最初行方をくらました直前にお母さんを亡くしていて、親族は施設にいるお婆さんしか居ないんですよ。何か良くないことに巻き込まれてはいないかと、お友達は心配している訳なんです。」
ダニーとゲイブは、交互に説明をしてくれた。
私は、誰の見舞いに来たのかと尋ねた時に、クリスティーナが言い淀んでいた事を思い出した。あの病棟に彼女の祖母に当たるような年配のご婦人がいたかを思い出してみたが、確信は持てない。
「そんな事が……しかし、その事と私にどんな関係が?彼女の事を知ったのは、昨日が初めてですし……」
私はこの時、彼女と一緒に食事をした事、これからまた会う予定である事は、どうしてか伝える気にはならなかった。彼女を庇うわけではなかったが、何となく、親子ほども年の離れた関係を詮索されるのを恐れていたのかも知れない。
「ヴィットーさん、失礼ですが、昨晩はどちらに?」
私の心臓が跳ねる。やはり来たか、とは思ったが、彼女の話がどう私に繋がるかはさっぱり分からない。
「昨晩は、仕事の後家に帰りましたが……」
「何処にも出かけられていないと?」
「ああ、戻る前にベルサイトのペット用品店には寄りましたよ。それが何か?」
私は、ここでコーヒーを淹れる間に考えついた嘘を使った。ベルサイトと言うのは、あの高級住宅街に程近いエリアの名称だ。幸運なことに、そしてハニーのおかげで、私は車で通える範囲にあるすべてのペット用品店の場所を把握しているのである。
「何を購入されたんですか?」
「いえ、見て回っただけなんですよ。ハニーは食べ物は私の手作りしか食べませんし、おもちゃもあまり興味を示さなくて。でもリードや食器なんか、最新のデザインのものがないかたまに見に行ってるんです。」
ペット用品店に行ったことは嘘だが、ペット用品店に行く理由は嘘ではない。これで店舗に監視カメラがあり、私らしき姿がなかったことが確実になれば私の嘘はすぐにばれるわけだが、私はこの場をしのぐだけでよかった。
フェンに頼めば、この二人の記憶を操作するか何かして、私に対する捜査をやめさせることは容易なのである。
しかしそもそもこの時点で彼らがまだ昨晩のことを覚えているのだとしたら、フェンに何かあったということなのだろうか。私は、めったに自分から呼び出すことのないフェンとこのあと会わなければいけないと決意した。
「その前の晩も、どこかに行かれましたか?」
「ええ、一昨日はウォータラーの店舗に行きましたね。」
狼男のアパートがあった付近のエリアの名前を出してすんなりと嘘で答えはしたが、私の心臓はまた大きく跳ねていた。まさか一昨日のことまで聞かれるとは思っていなかったのだ。
狼男の住んでいたアパートに行ったことにも、感づかれているのだろうか?確かにあれも、随分な騒ぎになってしまいはしたが。しかしこのことも、フェンは手を加えなかったのだろうか。
そしてそれがクリスティーナとどう繋がるのかは、やはり分からない。
私の混乱は、二人にも伝わっていたようだ。そしてそれは、もっともなものだったらしい。ダニーはその混乱を解消しようと話を進めてくれた。
「貴方の犬が行方不明になった時、犯人のDNAの検出を試みた事を覚えていらっしゃいますか。」
勿論だ、と私は二回頷いた。
「その時のDNAが、ディーオル嬢のものと一致しました。」
それを聞いて、私はただ、驚愕に目を剥いて立ちすくむことしか出来なかった。
ダニーは続けて言った。
「彼女と出会ったのは、本当に10ヶ月前が初めてでしたか?」
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