第三章 三日目

第十五話 介抱する

 私は、コウモリの姿のフェンを懐に入れたまま車を走らせた。取り出す手間すら惜しかったのもあるが、相手が吸血鬼だとわかっていても、その冷たい体を助手席のシートに包む物もなく横たえるのは何となく気が引けてしまったのかもしれない。


 車は無事、自宅まで辿り着いた。日付が変わって既にしばらく経っている。車を降り、ハニーに出迎えてもらえないことは覚悟して玄関へと向かった。




 鍵を開ける間に、扉の後ろでごそごそと何か音がした。お腹を空かせたハニーが、ドアマットの上で丸くなっていたのだろう。私が来たのに気がついて立ち上がったのだ。


 ドアノブを掴んで捻る前に、私は一瞬だけ躊躇した。


 私の姿は今日の方が酷い。腕や手だけでなく、首筋まで血塗れである。狼男の臭いも、身体中に染み付いているに違いない。


 彼女は昨晩のようにパニックになってしまうだろうか。また怖がらせてしまうだろうか。再度拒絶されるのは、疲れ果てた身体に随分と応えるはずだ。


 しかしそろそろ私も限界だった。


 一度収まった禁断症状は、再度その翳りを示し始めている。手は震え、いずれ思考は働かなくなるだろう。一刻も早くシャワーを浴びて、こびり付いた血を洗い流す必要があった。


 それに、フェンの介抱も必要だろう。


 場合によっては、それはかなりの労力を伴う可能性があった。




 私は意を決してドアを開けた。案の定、ハニーはいつもより遠巻きに私を伺っていたが、なるべく彼女を見ないようにして室内に足を踏み入れる。


 まずは自分の身を清めなければ。


 私は懐に入れたままだったフェンをそっと取り出すと、ソファーの片隅に彼を横たえた。コウモリであれば何処かからぶら下がるのが居心地がいいだろうが、リビングには丁度いい止まり木は無い。


 懐に入れて運んでおいて何だが、ハニーでさえ最低限のけじめとして侵入を禁じている自室にフェンを連れて行くのは躊躇われた。クローゼットであればぶら下がるのにうってつけなハンガーがあるだろうが、なんとなく嫌である。か弱いコウモリの姿とはいえ、実質はフェンなのだ。プライベートな空間に彼を連れ込むのは出来れば御免被りたい。




 私はフェンをそのままにして、シャワー室に直行した。血まみれのシャツはそのままゴミ箱に放り込む。昨日の傷を覆っていた左腕の包帯は、新たな出血に浸り、真っ赤に染まりきっていた。シャワーを浴びながら、それも剥ぎ取るように乱雑に取り外す。


 利き手を怪我したのは不便だった。それなりに深い傷で、身体を洗ったりと普段のつもりで使えばかなりの苦痛を伴う。少なくとも傷がふさがるまでは––––––それでもかかって丸一日だろうが––––––包帯を巻いておく必要があるだろう。


 私はシャワーを出ると、書斎にしまってあった救急セットで怪我の処置を行った。半吸血鬼の治癒能力であれば、この程度の怪我で縫合の必要は無い。腕や手や、首筋の傷も、治るまで血が服を汚さないよう、傷口にガーゼや包帯を当てておくだけだ。


 処置を終えて、私はリビングに戻る。次はフェンの番だ。


 リビングに戻り、ソファーに横たえたフェンを見る。


 私はその様子を見て目を剥いた。




 ハニーが一緒に横たわっていた。



 まるで、子犬を抱くようにフェンの身体に寄り添って。




 立ち竦んでその様子を凝視する私をハニーは困ったように見つめ返し、フェンはと言えばチーチー鳴きながらジタバタともがいて、何かを盛りに訴えているようだった。コウモリは地上で立ち上がって歩くことは出来ない。その状態から飛び立つ事も出来ない。文字通り、這い蹲るしか無いのである。


 私がどう反応すれば良いのか分からずにいると、丸くなって抱え込まれていたフェンは、ハニーのふわふわの腹と後ろ足から逃れようとソファーのふちに向かってにじり進んだ。


 が、


 ハニーは慌てたように鼻先でフェンを小突き、再びフェンを懐に押し戻すと、今度は逃さないとばかりにしっかりと頭で抱き込んでしまう。フェンは未だに無駄な抵抗をつづけているが、大型犬のハニーには何処吹く風であった。


 恐らく、ハニーは力無く横たわる小さなフェンを見て母性本能をくすぐられ、その身体が冷たい事を知って危機感を感じ、自分の体温で温めようとしたのだろう。そのいじらしさに、パクリと食べてしまえるようなサイズの弱い生き物を必死で世話する様子に、私は内心身悶えていた。


 が、


 抱かれているのはフェンである。


 昨日から彼女の温もりに飢えているところに、「彼が」ハニーに愛情を注がれている様子を見て、私の頭の中の別の部分ではふつふつと静かな怒りが湧き始めていた。


 ––––––こっちは昨日から彼女に触れられていないって言うのに。どうして俺を差し置いてお前なんだ。シャンプーしたばかりのフカフカのお腹に包まれやがって––––––




「君はとても優しい子だね、ハニー。」


 私はハニーに向かって優しく声をかけながらソファーに近づき、彼女の側に傅いた。そして、彼女の頭をそっと撫でる。彼女は一晩ぶりに触れた私の手を拒まずに、気持ちよさそうに目を細めて、優しく尾を振った。毛並みの良い尻尾がソファーを打ち、ぽすんぽすんと音を立てる。


 彼女が目を閉じた隙に、私はフェンのビーズのような黒い目をギロリと睨みつけておいた。私の冷たい視線を受けて、さらに激しく暴れながら声高にキーキー騒いでいるが、弁明を聞くつもりはもちろん無い。聞いてたまるか。




 私はフェンに見せつけるようにハニーの額に大きなキスをひとつ落とすと、彼らをそのままにして玄関に向かった。扉を開けて、ドライブウェイに停めてある車に向かう。


 車の後ろに回り、トランクを開ける。まだ明るい月が照らす僅かな光を頼りに、バッテリー用のケーブルとジャッキを入れてあるポリエステル製の袋を見つけて手元に引き寄せた。


 袋を開けて手を差し込み、ケーブルとジャッキ以外のあるものを手で探る。手に硬質な感触を得て、私はそれを、まるで劇薬でも扱うかのように慎重に、ゆっくりと取り出した。


 それは手のひらに乗るサイズの、長方形の白いプラスチックケースだった。


 それを見ていた私は随分渋い顔をしていたに違いない。大きなため息をついた私は、トランクを乱雑に閉めてから、重い足取りで再び家の中に向かった。




 玄関に入ってから、私はまずキッチンに向かった。冷蔵庫に入れてあったボトルのミネラルウォーターを取り出し、蓋を開けて、半分ほどまで一気に飲んだ。喉が渇いていたのもあるが、これからする事を前に気持ちを落ち着かせる為である。


 それは、出来ればやりたくはない事だった。だが、まだ夜明けまで間のあるこの時間帯に、フェンがあれだけの辱めを受けても(ハニーは良かれと思ってやっているので彼女に責任は無いが)人型に戻っていないということは、彼の状態はかなり悪いという事である。このままでは数日たっても全快は望めないだろう。放っておくわけにはいかなかった。


 面倒なことはさっさと終わらせるに限る。私は残りのミネラルウォーターの入ったボトルをダイニングテーブルに置いて、プラスチックのケースを手にリビングに戻った。空いている方のソファーのスペースに腰を下ろし、ケースを開けてローテーブルに置いた。


 箱の中には医療用具のようなものが入っている。栓を引き切った状態の、針の無い小さなシリンジが5本、きれいに並んで収められていた。蓋のほうには透明な袋に密封された注射針が、同じ数だけ取り付けられている。シリンジの中は、透明な膜で二つに区切られていた。抽出口に近いほうには黒っぽい顆粒が入っており、反対側には粘度の高そうな透明な液体が入っている。


 私はシリンジを一本取り出した。針は今回は必要無いのでそのままだ。シリンジの先端の、抽出口を塞いでいたアルミの蓋を剥がす。そして先端を上にした状態で、慎重にシリンジの栓を押した。真ん中を仕切っていた膜がぷちりと割れて、顆粒が液体の中に溶けていく。


 顆粒が解けた場所から、液体は真っ赤に染まっていった。


 私はなるべくそれを直視しないようにしながら、通常の注射の時に空気を抜く要領で、シリンジを上を向けたまま指ではじいて叩き、内容物がきちんと混ざるように良く揺すった。


 本当なら目視で顆粒がきちんと混ざったことを確認するべきだが、私にはその余裕は無い。既に震え始めた手でハニーの懐からフェンをつかみ上げると、その口にシリンジの先を差し出して、ゆっくりと栓を押す。


 真っ赤な雫がシリンジの先からぷくりと膨らみ、それがしたたり落ちる前に、フェンは夢中でそれを舐め取った。彼は、それが何かを知っているのだ。


 私の手の震えが大きくなり、加減の利かなくなった抽出量の液体があわやフェンの口からあふれそうになった時―――


 目の前に黒い霧が急激に広がり、同じ唐突さでそれが晴れると、ぶるぶる震えている私の両手は空っぽになっていた。


「……知っていたんですね。」


 ソファーの横に、いつもの黒ずくめのフェンが立っている。その手には、私が持っていたシリンジがあった。


「当たり前だ。自分の車だぞ。気づくに決まっている。」




 この長期保存できる血液の携帯用救急セットは、私が自分で準備したものではなかった。いつの間にやら、フェンが私の車の中に忍び込ませたものだ。常温では長く持たない新鮮な血液には遠く及ばないが、その役目を果たすには十分なものだった。例えば、傷ついた吸血鬼の体力を回復させ、怪我の治癒を可能にする、等々。


 随分前にこれを見つけた時、これを彼に突き返そうか、それとも黙って捨てようか迷ったものだった。だがもしこれが無くなったと分かれば、彼はまた別の方法でこれを私の周囲に紛れ込ませようとするだろう。そうなっては面倒だと、私は知らないふりを通すことにした。家の中に隠さなかっただけ、彼は私に気を遣ったとも言えるかもしれない。


「少しでも摂れば、貴方のその怪我も治りますよ。」

「結構だ。」


 まだ半分以上中身の残っているシリンジを差し出して言うフェンに、私は即答してソファーを立った。いつの間にかソファーの上にお座りをしていたハニーの脇を通って、キッチンに戻る。ダイニングテーブルの上のペットボトルを掴んで、残りの水を一気に煽った。空になったペットボトルを握りつぶして、私はシンクを背に、床に崩れ落ちるように座り込んだ。


 まだ胸が痛い。呼吸が苦しい。唾液が溢れてきて、止まらなかった。こめかみから顎に汗が伝う。




「……帰ってくれ。」


 憐れむように私を見ているであろうフェンと目を合わせずに、私は俯いたままつぶやいた。ささやきほどの声だが、彼には聞こえているだろう。


「それも持って帰ってくれ。ケースごと全部。」


 仕事のパートナーに対してあんまりな言い方であるのはわかっている。だが今は一人になりたかった。《その存在》からも、遠ざかりたかった。まだ心の準備は出来ていない。せめて、もう少し。あと少しだけでも。


「……奴を追うのは、一旦辞めにしましょう。」


 少しの間の後に、フェンが言うのが聞こえた。さっきより近くに来たようだ。少し顔を上げればすぐ側にハニーが来ており、心配そうに私の顔を覗き込んでいた。その後ろ、キッチンの入り口にフェンが見える。私は力の入らない手でハニーの肩を撫でた。彼女は僅かに尾を揺らした。


「やつも、獲物がヤギでも何も食べないよりはマシだったでしょう。少しは大人しくしてくれるかもしれません。気配は見張りますが……今回は特に暴れすぎた。いろいろと後始末を先にしておきます。」


 その考えに私は賛成だった。人的被害が出ていないとはいえ、昨晩も今晩も盛大に器物の破損があった上、多くの警官が動員されている。フェンの裏工作は、標的の確保を待たずに行ったほうが良いに違いない。


「……貴方の手も、治るまで暫くかかりそうですしね。」


 その言葉は、彼が今これ以上私に血を飲む事を勧めない事を意味していた。私はその言葉に言いようの無い安堵を感じ、また深く俯いた。


「すまない……。」

「いいえ。今回は私の力が及ばず、申し訳ありませんでした。」


 微かな衣擦れの音がした。彼が深く頭を下げたのだろう。彼が言っているのは、あとほんの少しで狼男を捕まえられたかもしれなかった場面のことだ。確かに、あの時彼の妨害音があと数秒でも続けば、無事に獲物を捕まえられたかもしれない。


 だが、そもそも私の禁断症状が無ければ、とっくの昔にこの狩りは終わっているはずなのだ。彼を責める事は出来なかった。


「いいさ、お互い様だ……。」

「……お手間を取らせてしまった事も、申し訳ない。」


 今度の謝罪は、私がこの状態になるのを分かっていて、保存血液を彼に与えた事に対してだ。私は力無く笑って応えた。


「はは……医者だからな。」

「……そうでしたね。流石です。」


 彼の声も、少し笑って聞こえた。


 だが、私は彼の顔を見る事が出来なかった。




 私に向けられる憐憫の感情と、正面から向き合うことが出来なかった。




 彼の前で、血液に反応してここまで憔悴している状態を見せたのは初めてだろう。病院での執刀と違って、私は彼が血液を「飲む」のを直接目の当たりにした。ただでさえ手術室の整然とした雰囲気とは違う、プライベートな空間でそれを目にしてしまった事は、今の私の禁断症状をより一層酷いものにしたようだった。


 半分吸血鬼でありながら、それを受け入れられない自分はどれだけ惨めに見えるだろう。


 こんなになってまで血を拒む私は、どれだけ哀れだろう。何十年経っても、幼い頃のトラウマに囚われた私は。


 幼い頃から面倒を見てきた対象が、もがき苦しみながらも救いの手を拒む姿を見る彼の気持ちは、どんなだろう。


 それでも––––––




「感謝しますよ、ルイス殿。」


 いつも無意識に昔からの呼称を使うフェンが、珍しく指示通りに私を呼んだ。


「それと……お気遣いをどうも、お嬢さん。しかし出来れば次回は……いや、何でも有りません。それでは。」


 恐らく帽子を取って言われたであろう、ハニーへの感謝の言葉が聞こえた後、フェンの気配は掻き消えた。




 キューンと、ハニーが鼻を鳴らす音がして、頬に冷たい感触があった。彼女の鼻が触れたのだ。


 私は顔を上げて、彼女を見た。精一杯の笑顔を浮かべて。泣きそうな顔には、見えないといい。


 包帯を巻いた手を伸ばして、彼女の耳の下をくすぐるように撫でる。すると彼女はその手の匂いを盛りに嗅ぎ始めた。そして次は顔に移り、頭、首、肩や腕など、私の身体中の匂いを嗅いで行く。私は僅かに肌に触れる冷たい鼻先をくすぐったく思いながら、微笑ましい気持ちでそれを眺めていた。やっと戻ってきた彼女の私に対する興味に、私の気持ちはほんの少し上向きになっている。


 彼女は調査対象を私の顔に戻すと、私の口元をぺろりと舐めた。ぺろり、ともうひとつ。


「ハニー……」


 堪らなくなって、私は彼女を抱き寄せた。彼女は身体の力を抜いて、胡座をかいた私の腕の中に収まる。彼女の尻尾が、ぱたりぱたりと、私の足を打った。彼女の温もりが、ゆっくりと私に染み込んでくる。凝り固まった何かが解け、心地よい平穏が身体に戻ってくる。


 昨晩からの我慢もあって、ともすれば私はそのまま一晩中彼女を抱きしめ続けるところだった。



 が、程なくして彼女の腹がくう、と可愛らしい音を立てた。



 私は笑いながら彼女を解放した。


「待たせてすまなかったね、ハニー。ご飯にしよう。」


 ハニーは恥ずかしそうに目を細めながらも、床を磨かんばかりに尻尾を激しく振り始めたのだった。

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