第十四話 ドクターの失敗

 狼男は私の左腕を食い千切ろうと、食らいついたまま首を激しく振ってきた。牙が肉を裂く痛みに、私は顔を歪める。私の下腹部を踏みつけている後ろ足からも、布越しに鋭い爪が食い込んでいた。身を切られる痛みを感じるのは、随分と久し振りだった。しかし私の平静さを奪うまでではない。


 手錠を掴んだままの私の右手は自由なままだ。私は握った手錠の輪を、思い切り相手の顔面に叩きつけた。


 急所である目を狙って。


『ギャン!!』


 左目に直撃した攻撃に、狼男は堪らず口を離す。すかさず私は自由になった左手で相手の襟首(服は着ていないので首元の毛皮だが)を掴み、前足のガードの隙間からその横っ面にもう一撃をお見舞いした。


 低いうめき声を上げた相手を身体の上から何とか押しのけ、私は逆に相手に馬乗りになった。そして手錠をかけようと、その右腕を掴む。だが、


「!!」


 手錠が右の手首にかけられる一瞬前に、狼男は私の右手に手錠ごと噛み付いた。


(こいつ……!!)


 腕と違って骨を覆う筋肉の無い手に食い込む牙の痛みに、流石の私も顔を顰めた。そして私は、この相手に対峙してから初めて、明確な焦りを感じ始めていた。


 その理由の一つは、こいつのしぶとさに対してだった。この間も、フェンの発する妨害音は引っ切り無しに鳴っている。それでもこいつは私に立ち向かって来て見せるばかりか、蹴られることを避ける為に後ろ足を使ったり手錠を止めて見せたりする。我を忘れたような狂乱さの中に、ほんの僅かな理性を湛えているかのように見えた。



 まるで、恐怖ではなく何かの目的の為に戦っているような。



 もう一つの理由は、この怪我が私の仕事に影響を受ける可能性に対してだ。


 半吸血鬼である私の回復力は人のそれよりも随分早い。だが利き手に深い傷を負ってしまったら……当然、再度メスを握れるようになるまでには数日はかかるだろう。


「くそっ!!」


 普段よりも存外に困難になってしまった狩りの流れに、私は滅多に言わない悪態を吐いた。そして私の手に噛り付いているその鼻先に、左手で強く爪を立てる。


『……ッガァァァアアッ!!』


 鼻をもがれる痛みに耐えられなくなったのか、程無くして私の右手を挟んでいた顎の力は緩められた。私は右手を何とか引き抜いたが、力の入らなくなった手から、銀の手錠は滑り落ちてしまった。ガチャンと、硬質な金属がタイルの床にあたって硬質な音を立てる。


「!!」


 痛みのせいで、私の反射神経は鈍っていたのかもしれない。気がついた時には、私は壁に叩きつけられていた。


「がっ……」


 続いてやって来た衝撃は、私の身体が床に落ちたせいだ。恐らく狼男は、鼻を掴んでいた私の手を振り払い、腕と胸ぐらを掴んで、自分の上に馬乗りになっていた私を放り投げたのだ。


(馬鹿力め!!)


 頭の中で悪態を吐きながら、私は腕力があるのは自分だけでは無い事を覚えておかなくてはと、自分にも言い聞かせていた。




 状況を把握し直そうと視線を巡らせて、私は青くなった。



 やつの姿が無いのだ。



「フェン!!」


 思わず、上の階にいる相棒の名前を叫んだ。もし直接狙われたら、力を使い果たした彼では逃げるのも間に合わないかもしれない。すぐに階段に向かおうと身体を起こして、手錠を取り落としていたことに気がつく。薄暗い中、床の上で鈍く光るものを見つけて引っ掴むと、私は転がるように階段を駆け上がった。




 階段を上がるにつれて、フェンの発する妨害音は更に酷くなった。私の動きまで鈍くなってしまう程である。それは、彼がまだ無事である事を示していた。しかし、同時に危機に瀕しているという事も。


 歯を食いしばりながら、片手で耳を押さえながら、私は覚束ない足取りで、出来るだけ急いでリビングに向かった。


 通路からリビングの中を見れば、仁王立ちのフェンのすぐ前で、狼男が両耳を塞いで蹲って震えている。しかし、相手を見据えて微動だにしないフェンの顎から、ポツリと汗が落ちたのが見えた。彼も限界なのだ。


 私は何とか狼男の元に辿り着くと、その首根っこを掴んで横に倒した、そして腕を掴み、今度こそ手錠を––––––




 どくん。




 大きな鼓動に、手錠を持った私の手が震えた。




 私の右手と手錠は、自分の血で真っ赤である。


 相手の腕を掴んだ左腕は、赤黒いシミが大きく広がっていた。


 鼓動が早くなる。息が苦しい。




 ––––––いい加減にしろ––––––


 私はこれ以上ないほどの苛立ちを、自分自身にぶつけた。


 ––––––いい加減にしろ。お前のせいで一体どれだけの迷惑を被っていると思っている。毎度毎度、俺の邪魔ばかりしやがって。お前なんかに、構っている暇はないんだ。大人しくしていろ––––––


 私は荒い呼吸の中、歯を食いしばり、震え続ける手で手錠を握り直した。その時、


「ぼっちゃ……」


 すぐ側のファンが何か呟いた。途端に、耳をつんざくばかりの騒音が消え、辺りが静まり返る。ドサッ、と、すぐ隣にフェンが膝を付いた。とうとう彼の限界が来たのだ。


『グァァァアアアッ!!』


 私がまずい、と思うよりも前に、息を吹き返したかのように狼男が吠え、私を押しのけるようにして飛び起きた。そして、私の肩にガブリと食らいつく。


「がぁあっ!!」


 流石の私も、急所である首筋に噛み付かれて悲鳴を上げた。何とかその顎を外そうと、手探りでその鼻先を探る。だが、私がやつの急所を再び握り潰す前に、あろうことか狼男はまた、私の身体をぶん投げたのだった。


 ガシャァアアアァァアン!!


 もういい加減聞き飽きたような、盛大なガラスの割れる音が響き渡った。今度は私の身体がリビングのガラス戸を突き破ったのだ。私の身体は、無様に庭の芝生に叩きつけられる。


 血に反応し始めていた私の身体では、皮肉にも負った傷の痛みと命の危機に瀕した実感とで、飢えよりも闘争本能が勝ったらしい。私は身体の自由を取り戻していた。そして思い出す。フェンが危ない!!




 リビングに戻ろうとした私に、思いもよらぬ方向から現れた存在が突然襲いかかった。


 右手が、何かに囚われる。


 『ガルルルルルッ!!』


 見れば、警官たちと庭を捜索していたシェパードだ。私の右手に食らいつき、あらん限りの力を振り絞って唸り声を上げている。



 その程度は、狼男と比べてしまえば子犬の戯れだったが。




 私は、ただの犬であるこの勇者を振り払うことを躊躇した。万一怪我をさせてしまうことを恐れたのである。相手は訓練された警察犬だ。こちらを攻撃する事を躊躇しない上、こちらが宥めようとしても靡かないだろう。それを無理矢理引き剥がしたり、脅すつもりで小突いたりすれば、傷つけてしまうのではないか。そう考えたのである。


 そして、私が動くのを戸惑った事が、また相手を有利な立場に置いてしまった。


 ドスン、と、私のすぐ目の前に狼男が降り立った。リビングから一飛びでここに来たのだろう。


 突然現れた巨大な獣に、警察犬は身を竦ませた。私から牙を離し、狼男に向かって激しく吠えたてている。しかしその尾は、私に噛みついていた時はピンと上を向いていたものが、くるりと後ろ足の間にしまわれていた。


 狼男が大きく腕を振りかぶったのを見て、私は思わずシェパードに飛びついた。


 そして予測した通り、振り下ろされた狼男の腕は、シェパードに覆いかぶさった私ごと、狭くない庭の端まで私たちを吹っ飛ばしたのだった。




 ハニーによく似たサイズのふわふわの身体を抱きしめたまま、私の身体は地面に着地した後しばらくゴロゴロと転がった。植木の根元でようやく止まる。


 ––––––今日はよく飛ばされる日だ。


 そんなことを頭の中で呟きながら、私は受けた衝撃を振り払うかのように頭を振った。


 腕の中で彼(もしくは彼女)が身動ぐのを感じて、私は抵抗せずに腕の拘束を緩めた。私に抱きしめられていた立派な体躯の大型犬は素早く腕からすり抜けると、飛び退るように私と距離を取った。そして、私がゆっくりと立ち上がるのを遠巻きに眺めていた。


 私は、この勇敢な警察犬の様子を見て、大きな怪我が無さそうな事をとても嬉しく思った。


 こんな、何一つうまくいかなかった夜には、一つぐらい良い事が有っても良いはずである。



 そう、今回の狩りは、また失敗に終わったのだ。


 庭には、既に狼男の姿は無かった。




 私は、身体中に着いた芝をはたき落としながら辺りを見渡した。


 霧は既に晴れている。屋敷の外に、何人かの警官たちが横たわっているのが見えた。フェンが眠らせたに違いない。


 彼らが起きる前に、退散しなければ。2日連続の失態に、落ち込んでいる暇は無い。


 私は、相棒の事を思い出して屋敷の中に急いで駆け戻った。


 ––––––どうか無事でいてくれ。


 リビングの中で彼の姿を探す。黒ずくめの赤毛の男の姿はどこにも無かった。


 しかし代わりに、雨の日に道端に打ち捨てられた黒い布切れのようなものが、床に広がっているのを見つける。私は飛びつくように駆け寄った。


 コウモリの姿になったフェンだ。


 位置からして、狼男に一撃を食らって吹っ飛ばされたのかもしれない。いよいよ限界が来て、人型を保てなくなってしまったのだろう。


 私はその羽を破らないように、注意深く彼の身体を掬い上げた。その冷たさに一瞬肝が冷えたが、彼は吸血鬼なのだ。その体温は常に、半吸血鬼である私よりも更に低い。


 彼が僅かに顔を上げて、か細い声でチィと鳴いたのを見て、私は胸を撫で下ろした。


「……爪を立てるなよ。」


 返事がない事を知りながらそう言って、私は丁寧に彼の羽を畳み、片手で掴んでしまえるほどの彼の身体をシャツの内側にしまい込んだ。手で持っていては潰してしまうような気がしたのだ。冷たい毛皮が素肌に触れて身震いをしたが、ここで狼狽えているわけにはいかない。シャツの外から落ちないようにしっかりと彼の身体を支え、私はリビングを後にした。




 いつ眼を覚ますか分からない警官たちが横たわる場所を避けて、私は侵入してきた場所から敷地の外に出るつもりでいた。そしてもう少しで、あの柵にたどり着くという時––––––



 またしても、思いもよらない邪魔者が現れた。



「動くな!!」


 背後から飛んできた厳しい言葉に、私は従った。柵の手前で、歩みを止める。


「両手を上げて、地面に伏せろ!!」


 声は少し離れたところから聞こえる。庭の反対側からだろうか。口ぶりからして、銃口がぴったりとこちらに向けられていることは間違いあるまい。もう目を覚ました警官がいるのか?それとも、後から来た応援か?


「聞こえなかったのか!両手を上げろと言ったんだ!!」

「言うことを聞くんだ!!」


 先ほどよりも距離は近づいている。どうやら二人いるようだ。私は、そろそろと片手を上げて見せた。


「両手を上げろと言ったんだ!!早くしろ!!」

「ゆっくりこちらを向いて!!地面に伏せて!!」


 繰り返される要求には応えられなかった。私の片手は、懐のフェンを支えていたのである。顔を見られるのもまずい。


 もちろん、捕まるつもりもない。



 どうやって隙を突いて逃げようかと私は考えていたが、頭の片隅で別の疑問が湧く。




 この声、何処かで聞いたことがあったか?




 そして、再三の不意打ちが私を襲う。


 ただし、今回は私にとって有り難いものだった。


『ワンッ!!』


 突然響き渡った甲高い吠え声に、私は思わず振り向いてしまった。


 しかし幸運なことに、二人の警官の注意は別のものに向けられていた。銃を持っていた警官の一人に、あのシェパードの警察犬が飛びついていたのだ。


「わぁ!?こ、こら!!」

「ええっ!?」


 ––––––いい子だ。


 私は思わず口の端を吊り上げて、命の恩人の為に身を張った名犬に心の中で賞賛を送り、素早く柵を飛び越えた。


「バカ犬!こらっ!邪魔をするな!」

「よーしよしよし。この人は敵じゃないよー、味方だよー。」

「馬鹿野郎!奴を追え!……うおおおっ!?」

「せ、先輩!!」


 警官二人が騒いでいるのを尻目に、私は無事、その場を走り去った。




 辿り着いた自分の車に乗り込んで大急ぎで自宅に向かう道すがら、私はあまり思い出したくないことを二つ、思い出してしまった。


 一つ目は、この状態で帰って、またハニーを怯えさせてしまう恐れがあるのだということ。


 二つ目は、あの二人の警官と私とは、以前に面識があったということだった。

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