第十三話 ドクターの再戦

 フェンに電話で指定された地区に、私はたどり着いた。病院から車で30分ほど離れた、大きな入り江に面した高級住宅地だ。日はすっかり沈み、闇の中に人通りは無い。


 指定された場所の付近をゆっくり走っていると、何か白い物が浮かんでいるように見えた。よく見ればそれは、相変わらずの黒ずくめの格好のフェンで、暗闇の中、青白い顔だけがヘッドライトを反射して浮かび上がっていた。


 私は車を道の端に付けて、彼が車の助手席に乗り込むのを待つ。彼が扉を閉めて中折れ帽を外すと、僅かな灯りでも目に眩しい真っ赤な巻毛がふわりと広がった。


「この先です。このまま進んでください。」


 フェンに言われた通り車を走らせる。暫く行くと、薄い霧に覆われた視界の先で、数台のパトカーの赤と青の光が闇夜を騒がしく照らしているのが見えた。


「どういうことだ?」


 私は車のスピードを落とし、困惑しながらフェンの方を見た。



 目的の場所に、警察がいるとは思っていなかったのだ。



 フェンからの電話では、日も暮れない内に狼男が人を襲った、すぐに来い。とだけ伝えられていた。


 つまり、に呼ばれたのだと想定していたのだ。どうしてそこに警察がいる?彼らも狼男を追っているとでもいうのか?


「どうもこうも無いですよ。あそこが事件現場ですから。人間は私達のことなんか知りませんからね。何かに襲われれば当然警察を呼ぶでしょう?」

「現場?待て、どうしてお前『獲物』を追っていないんだ?」


 夜間のフェンであれば、見つけた獲物を尾行することなど容易いはずだ。何故現場に留まっている?


「失礼な。追ってますよ、ちゃんと。」

「なんだと?―――まさか……」


 私は、思った以上に面倒な夜になりそうな予感に、思わず眉を顰めた。


「ええ、そのまさかですよ。」


 その回答に、私はある種の絶望を感じた。


「いるんですよ。まだあの中に。人間たちは気づいていませんけどね。」


 ◇◇◇



 別の道に入り、警察に怪しまれない程度の距離を置いてから車を止め、私は現場となった巨大な屋敷の隣の屋敷の庭に忍び込んだ。周辺も警察が調べていたが、フェンが先に確認したので見つかる心配は無いはずである。


 被害にあったのは、実はペットとして飼われていたヤギだったらしい。もう少し郊外では馬やヤギをペットとして飼うのも珍しくないが、高級住宅地で飼っている人間が居たことに、私は多少の驚きを感じていた。家主は牧場の出身なのかも知れないな、などと推測を巡らす。


 住人は、ペットのヤギが襲われているのを見て恐慌状態になり、転んで骨を折ったとのことだった。フェンは標的が動いたのを知って慌てて私に電話をしてから、改めて霧になって敷地内に侵入し、状況を調査したらしい。ヤギには申し訳ないが、人間に直接的な被害が出ていなかったことに私は安堵した。


 足を折ったのは屋敷の夫人で、既に病院に搬送されている。残っている住人は家主が一人。屋敷のサイズからして、それなりの資産家なのだろう。警察は庭に残ったヤギの遺骸の周辺で現場検証をしており、庭でも犯人が残した証拠が無いかを探していた。


『獣にやられた、という認識にはなっているようです。夫人の証言ではただの獣ではないと言っていたそうですが、気が動転していたのだろうとまともに取り合ってはいないみたいですね。』


 フェンはそう説明した。


 できれば警察が居なくなるまで待ちたかったが、万一狼男が行動を起こして人的被害が出てはまずい。一刻も早くやつを捉える必要がある。どうにかして忍び込む必要があった。


『良いですか、私が屋敷の周辺の人間の注意を削ぎます。合図したら屋敷に忍び込んでください。』




 そんなわけで、私は隣の敷地内の、入り江の海岸沿いにある木立の陰で待機していた。見上げれば、わずかに欠けた月が明るく光っている。木々の隙間から目的の屋敷を覗くと、警察犬を連れた警官が庭を歩き回っていた。


 ―――あの犬が厄介なことにならなければいいが……


 ハニーとの生活のおかげで、私は犬が鋭敏な嗅覚と聴力を持っていることをしっかりと認識している。しかし今は幸運なことに、私は風下に居た。熱心に庭の芝生を嗅ぎ回っているあのシェパードも、風向きが変わらず私が物音を立てない限りは私に気がつくことは無いだろう。


 しかし警官たちの注意を逸らすと言ったフェンの策が、あの犬にも通じるのかという点に若干の懸念があった。また、あの犬が屋敷内に犯人がいることをすぐに嗅ぎ当ててしまわないかという点も、私を焦らせていた。彼らが見つけるより早く、屋敷に侵入して狼男を捉えなければ。


 私は、車に置いたままにしていた純銀製の手錠の感触を、ポケットの中で確かめた。




 犬を見て、自然とハニーのことを思い浮かべる。


 今日も帰りが遅くなってしまう。あの後、彼女はきちんと朝食を食べただろうか。それでももう、お腹をすかしているに違いない。


 そして、昨晩からのハニーの不可解な様子に関しては、何も解決していなかったことも思い出す。


 昨晩の捕物が原因だとすれば、また今夜も怖がらせてしまうかも知れない。ああ、また今夜も、あのふわふわのぬくもりを抱いて癒やされることは出来ないのだろうか……




 私がため息をつくと同時に、不意に、周りの霧が濃くなった。


 月明かりの下、白い靄が私の視界を覆う。複雑に入り組んだ入り江が多いこの地域、しかも海岸線沿いのこの場所では珍しいことではない。だが、


『坊っちゃん、』


 頭の中に直接、フェンの声が響く。合図だ。


『さあ、今のうちに。』


 あまりに濃い霧に私の足元すらも危ういほどだったが、幸運なことに距離は短い。私は木立を抜けて、身長の倍ほどの柵を飛び越えて庭に降り立った。芝生を踏む感触を頼りに直進し、屋敷の裏手にあるガラス張りの両開き扉に問題なく辿り着く。


 少し離れたところで、あのシェパードらしき犬が吠えているのが聞こえた。


 私は急いた気持ちで、躊躇せずに扉のドアノブを捻った。鍵は事前にフェンがなんとかしているだろう。思ったとおり、扉はすんなりと開いた。


 扉の内側は、本物の暖炉がある、いかにも高級そうな調度品が揃ったリビングだった。灯りは点いていなかったが、カウンター越しのキッチンからの照明で明るさは十分そうだ。


 と、思いながらガラス戸を閉めた瞬間、ぱっと視界が明るくなった。


「なん―――」


 背後で誰かの声。振り向けば、初老の男性が通路からリビングへの入り口に、驚愕の表情で立っていた。ここの家主に違いない。


「お、お前、どこから―――」


 私が反応する前、そして男性がその質問を言い終わる前に、私達の間に黒い障害物が現れた。そして、男性のうめき声。ドサリという重たい音。


 霧から人型に姿を戻したフェンが現れ、男性に何かしらの暗示をかけて意識を奪ったのだ。


 見れば、フェンはその肩にぐったりと品垂れかかる男性を支えていた。そして間を置かず、聞き慣れた耳鳴りのような音が鋭く響く。私は両耳を抑えて眉を顰めた。


「先にひとこと言え!!」

「……地下に居ます。あまり長くは持ちませんから急いで。」


 耳鳴りのような音はフェンが狼男の動きを止めるために発したものだ。騒音に対する私の抗議には取り合わず、フェンは静かに答える。屋敷の周辺の警官たちの動きを止めるためにも、彼は何かしらの力を使ったのだろう。そしてこの音を発するにも、相当な労力と集中力が必要なのだ。このままでは彼の負担が大きい。私はすぐに地下へ向かった。




 地下への入り口はすぐに見つかった。上の階につながる螺旋階段が、そのまま地下へも通じていたのだ。


 地下に降りて、私はこの金持ちの財力に少なくない感銘を受けた。地下の空間を埋めていたのはビリヤードのプールにホームバー、ドラムセットに壁一面のギター、レトロなジュークボックス風のステレオに、ホームシアターまで。極めつけは地下の一角に鎮座するフェラーリだろう。思わず口笛を吹きながら、どうやって地下まで下ろしたのかと疑問に思ったが、どうやら壁の一角にあるシャッターの扉の向こうに、専用の通路かエレベーターがあるようだ。あまり富や権力に魅力を感じない私でも、この趣味を追求した空間には感嘆せざるを得なかった。


 ―――これらが正当な労働の対価で得られたものであれば良いのだが。


 頭の片隅で、狼男の迷惑を被ることになった夫婦の潔白を願いながら、私は周囲の気配を伺った。しかしそれもすぐに意識から振り払う。の粛清は、私達の仕事ではないのだ。




 そして、程なくして私はその居場所を突き止めた。


 バーの隣に設置された、ガラスの壁に仕切られた小部屋。ウォークインのワインセラー。




 ―――居た。




 ガラスの向こうで棚を埋めるワインの隙間から、狼男の瞳、そして涎にまみれた牙が、階段の上から漏れる光を僅かに反射してきらめいた。


 私は、ポケットの中の銀の手錠に手をかけた。


 その時、



 ガシャアァァァァアアン!!!

『グルァアアアアッ!!』



 とてつもない破壊音と唸り声とともに、視界いっぱいにガラスとワインの瓶の破片が広がった。その背後に、大きな獣の影。


 狼男は、私たちの間を遮るワインセラーの壁を突き抜けて突進してきたのだ。


 ガラスの破片が目に入れば私でも不味い。私は、手錠を掴んだまま両腕で目をガードすることしか出来なかった。当然、攻撃の先手を相手に譲ることになる。薄く開けたまぶたの隙間から見える狭まった視界を、黒い闇が覆う。


 腕に、記憶に新しい痛みが走る。昨晩噛み付かれた場所に、再度狼男が噛み付いたのだ。だが昨晩と全く同じでは無かった。ワインセラーの壁を突き破ってきたにもかかわらず衰えなかった勢いで、私は後方に押し倒される形となってしまったのだ。しかも、私に蹴られるのを避けるためなのか、相手は後ろ足で私の下半身を床に踏みつけてきた。


 –––同じ過ちを繰り返さないような理性がまだある–––?




 私はここで初めて、昨晩の捕縛失敗が自分だけの責任ではない可能性を考えたのだった。

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