第十二話 ドクターの戸惑い

 忙しい時はまともに昼食を取ることすら出来ない私の仕事だが、今日は半ば無理矢理にランチの時間をもぎ取った。食べられたとしてもいつも持ち帰りのデリで済ませている私が、今日は外で食べると言ったのを同僚たちには驚かれたが、「友人が近くに来ているから」と言ってごまかした。あながち外れではない。非社交的だと有名な私でも、友人の一人ぐらいいたって良いはずだ。


 私のランチの時間は、向かいの建物のカフェが一番混む時間よりは一時間早く取ってあった。おかげで待つこと無く席を取ることが出来た。


「本当に大丈夫でしたか、ドクター。」

「問題ないよ。私にだって休憩ぐらい取る権利がある。」


 ガラス張りの入り口付近で落ち合ってから席についた時、真っ先に彼女は言った。若いのに浮ついたところのない、非常に真面目な子である印象を受けた。しかし彼女は確かに、見惚れる程に美しかった。


「さっきは本当にありがとうございました。」

「いや、良いんだよ。彼はその、以前もクレームがあってね。見過ごすわけには行かなかった。今日は私に奢らせてくれ。あの時にびっくりさせてしまったお詫びに。」


 私は平静を装って彼女にそう言った。彼女は少し戸惑ってから、微笑んで頷いた。


「もし引き止めてしまっていたとしたら、すまないと思ったんだが。今日は誰かのお見舞いで?」


 彼女自身はどこからどう見ても健康体で、本人が入院しているわけはないのは明らかだった。入院患者の病棟に居たのだから、親族か友人の付き添いか見舞いだろうと思って聞いたのだが、彼女は口ごもってしまった。


「いや、答えなくて良いんだ。患者のプライバシーを侵害するつもりはないんだ。気にしないで。」


 なぜだか彼女と同じくらい動揺してしまった私は、慌ててそう言う。アルミで出来たテーブルと椅子の席を先に確保してから私達はカウンターに向かい、コーヒーと、彼女には紅茶、そして二人分のチーズとハムのホットサンドを頼んだ。


 ◇◇◇



 私は、ハニーが行方不明になって返ってくるまでの顛末を彼女に説明する間中、あの甘い匂いから気を紛らわそうと必死だった。


 清潔な空気に保たれている病院内から、コーヒーや食べ物の強い匂いが満ちるカフェの店内に移動しても、それが私に及ぼす影響力は変わらなかった。エスプレッソマシーンから漂う芳醇な香りも、トーストの焼ける香ばしい匂いも、彼女が持つ甘い匂いには遠く及ばない。そればかりが私の空腹を煽り、口に入れたコーヒーとホットサンドは、まるで泥水と粘土のような味しかしなかった。




「そんなわけで、どうやって彼女が行方不明になったのかは分からずじまいなんだ。本当に誰かが彼女を盗もうとしたのか、それとも誰かが忍び込んでから逃げ出したのかも。」

「それじゃ、かかってきた電話は?」

「それも、誰からかはわからないままさ。所詮事件だからね。警察も、それほど真剣に犯人を探そうとはしなかったんだよ。結局一番心配していた彼女は戻ってきたし、もし似たような事件が続いたり犠牲者が出たら問題かも知れなかったが、それも無かったから。電話は、もしかしたらただのいたずら電話だったかも知れないしね。」

「そうですか……」


 彼女はどこかホッとしたような相槌を打って、紅茶を一口飲んだ。


 白磁に、口紅を塗っていない薄桃色の唇が重なる。日中の明るい光を反射する透き通ったカラメル色の液体がほんの少しだけ触れて離れると、その柔らかくしなやかな膨らみは横に伸びて、その隙間からほんの僅かに現れた赤い舌が、濡れたその先を撫でてから引っ込んだ。口元の力が抜かれて、唇は元の膨らみを取り戻す。話し終わってしまった私は、釘付けられたようにその様子から目を離すことが出来なかった。


「良かったですね。」


 そう言われて、我に返る。微笑んだ瞳と目が合った。


「ああ、本当に。あの時に彼女を失っていたら、私はどうなっていたかわからないよ。」


 慌てて、余計な一言を加えてしまった気がする。こんなにドラマチックにことを語る必要は無いはずだ。


「ドクターは、以前から犬が好きだったんですか?」

「いや、全く。彼女を引き取るまで興味を持ったことも無かったんだ。それが飼ってみるとわからないものだね。」


 ここは、私は心からの感嘆だった。少しの余裕を得て、私はぬるくなってしまったコーヒーを啜った。




 私は、何度も湧き上がって来る唾液を飲み込み、必死に彼女に掴みかかりたい欲求を抑えながら今の状況を理解しようとしていた。


 この匂いはなんなんだ?


 私はどうしてこんなにこの匂いに煽られているんだ?


 彼女は一体何者なんだ?




 まさか……




 今まで出会った他の誰にも、自分のの部分がこんな反応を起こしたことは無かったのだ。私は今まで感じたことが無いほどの吸引力に驚異を感じ、忌避の必要性を感じながらも、同時にその理由を知らなければならない必要性も感じていた。


「本当に、そのワンちゃんのこと大切に思われてるんですね。」


 またクリスティーナが言った。


「ああ。」


 反射的に返答したが、本心だった。


「そうだね。私のたった一人の家族だから。……いや、一人では無いかな。一か。」


 照れくさくなって、苦笑しながら私は言い直した。


「きっとそのワンちゃんも、先生のことが大好きなんでしょうね。」

「どうかな。そうだと良いのだけど。」



 不意に、私は昨夜からのハニーの行動を思い出した。怯えているような、困惑したような……



「怖がらせてしまったみたいなんだ。」


 私はポツリと呟いた。


「もしかしたら、もう私のことを信頼してくれないかも知れない。」

「そんな!」


 普段誰にも言わないような気弱なセリフを吐いてしまった、と私が後悔するより前に、クリスティーナが突然、テーブルに置かれていた私の右手を掴んだ。そして、その滑らかな両手の中に消毒液で荒れた私の手のひらをしっかりと包み、身を乗り出して力強く言う。


「こんなに大切にされているのに、そんなこと絶対に有りえません!」

「あ、ああ……」


 突然のことに、私は虚を突かれた。至近距離からの彼女の強い視線が、私の目を見つめている。いきなり縮まった距離で彼女から香る芳香が更に強くなり、私は思わず仰け反った。頭がくらくらしそうだ。


「きっと、ハニーもドクターのことを誰より大切に思っています!そうに違い有りません!」

「そ、そうか……」


 戸惑ったように頷き、瞬きを繰り返す私の狼狽に気づいたようで、クリスティーナはパッと手を離して居住まいを正す。


「す、すみません、急に……」

「いや、良いんだ。ええと、ありがとう、励ましてくれて。」


 私は、申し訳無さそうに言う彼女を慰めるつもりでそう言いながらも、周りから向けられていた好奇の視線に確かな居心地の悪さを感じていた。




 正午に近づき増えてきたカフェ店内の客たちはきっと、二人きりの会話には似つかわしくない音量で発せられた彼女の言葉に驚いたのだろう。店内の視線が一気にこちらに向けられ、一度静寂が訪れた。その後も、何人かはちらちらとこちらの様子を伺い続けている。


 よく考えてみれば、私達が周りの興味を引くのは当たり前だった。


 かたや髭面の、50になろうかというむさい男。もうひとりは十代を過ぎたばかりであろう瑞々しい金髪美女。そんな彼女が、おっさんの手を取って必死に何かを訴えていた。年齢だけで見れば親子でもおかしくないが、そこまで気を許した関係には見えないだろう。だとしたら普通の人間は何を連想するか……。権威を利用していたいけな若者をたぶらかすクズと、なんにも知らずに手篭めにされてしまっている可愛そうな少女。そんなところか。


 ―――あんたらには関係ないだろう。


 勝手に想像をめぐらしているであろう達に、私は心のなかで訴えた。と、同時に、誤解されていることに対して沸き起こる自分の苛立ちに驚く。彼女と親密な関係だったとして、それに何の問題がある?と、そう反発した自分の本心に対して。勤務中の白衣を着ていれば、彼らの見る目は少しは変わったのだろうか、とも、私は考えていた。




「そろそろ時間だ。行かなければ。」


 私はそう言って立ち上がった。これ以上ここに居たら、理性を保てなくなるような気がしたのだ。実際、休憩時間の終わりは近い。


 クリスティーナも立ち上がった。


「あの、今日は本当にありがとうございました。」

「いや、いいんだ。あの時は、本当に申し訳なかった。」


 私は礼儀に則って、右手を差し出して握手を求めた。必死に匂いの誘惑に耐えながら、握手だけに留める。クリスティーナは、先程私の手を取ったときよりも控えめな力でそれに応えた。


「こちらこそ、今日は私のランチに付き合ってくれてありがとう。楽しかったよ。もしまた見舞いに訪れるなら、また顔を見ることもあるだろうね。」


 社交辞令を口にしながら、私の頭の中ではできればそうならないで欲しいと願う部分と、そうなって欲しいと願う部分とが戦っていた。


 彼女の存在は私にとっては驚異で、近づくべきではないと訴えている部分と、その匂いに抗えず、もっと近づきたいと願う部分とが。




「あの、」


 彼女のその言葉から伝わる、すんなりと別れの挨拶が終わらない気配に、私の心臓が跳ねた。汗ばみ始めた私の手を取ったまま、少しの間の後に彼女は続ける。


「今度は私にお礼をさせてくれませんか。」


 私は何も言えずに、ただ彼女が見上げてくる潤んだような視線を見つめ返していた。


「今日助けて頂いたお礼を。お願いします。」


 ゴクリと、私の喉が鳴った。

 どくどくと、心臓の音がうるさい。



 むせ返るような甘い香りの中、懇願にも似た彼女の訴えに、私は自分で気がつくより先に、イエスと答えていた。


 ◇◇◇



 私は、それなりの時間を医者として務めてきた者の意地で、午後の執刀とその他の職務をつつがなく終わらせた。デイブが救済を任せた彼女と(ランチを共にしたことはバレていないはずだが)どうなったのかとからかってきたが、一切無視をした。そして、帰途につくために車に乗ったところで、私は大きくため息を着き、ハンドルにくたりと身体を預けた。


 ―――何をやっているんだ私は。


 私は相当疲れているのだろうと思う。昨夜の失敗した捕物とりものもそうだが、ハニーに拒絶されたことは自分で思っているよりもダメージが大きかったのかも知れない。


 そうでなければ、今日出会ったばかりの(かなり前に一度顔を合わせていたわけだが)、しかも自分の年齢の半分にも満たないであろう女性をランチに誘い、おまけに次の休日に合う約束なんてしないはずだ。絶対に。


 いや、もう一つ要因がある。


 あの匂いだ。


 私の理性を狂わす、あの匂い。


 あの匂いを嗅いでから高ぶったままの精神を落ち着かせるのに、私はこの午後かなりの労力を費やしたほどだった。あの香りを漂わせて頼み事をされて、私はまるでご褒美をちらつかされながら一芸を命じられた犬のように、安々と従わされたのだ。


 彼女は下手をしたら、私を思い通りに操ることすら可能かもしれない。あの匂いはそれほど私の欲望を掻き立て、直接表に引きずり出すような力を持っていた。


 彼女は危険だ。特に、自己の血統に嫌悪を抱いている私にとっては。彼女は私を、数十年間抗い続けた吸血鬼のさがに引きずり落とし、私の今までの努力をふいにしかねないのだから。




 突然電子音が鳴り響いて、切迫したような振動がジャケットのポケットから伝わって来た。スマホを取り出して画面を確認すると、フェンからだった。とたんに、昨晩の緊張が返ってくる。クリスティーナとのことを考えるのは、また後にするしか無かった。


 私は応答ボタンを押してスマホを耳にかざした。


「もしもし。」

『坊っちゃん、何をしていたんですか!何度掛けたと思ってるんです!』


 ―――仕事に決まっているだろう。今上がったところなのだからそれまでプライベートのコールを確認出来るわけがないだろうか。あとその呼び方は辞めろと何度言えば……


 責めるようなフェンの言葉に私がそう言い返す前に、フェンは続けた。



『良いですか、よく聞いてください。少し厄介なことになりました。』


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