第九話 馴れ初め
出勤後、いつも通りにいくつかの打ち合わせと書類の処理を終えて、私は術後と執刀予定の患者の巡回を、執刀補佐をしてくれる若い医師であるデイブと行っていた。
「ドクター・ヴィットー、なんか今日は元気ないですね。」
病棟の廊下を歩きながら、デイブが声をかけて来た。彼にも分かってしまうほど、私の気落ちした様子はあからさまだったらしい。
「そう見えるか。」
「見えますよ。何かあったんですか?」
「大したことじゃ無いさ。」
私は大嘘をついた。ハニーに拒絶されたことは、私にとっては一大事である。それはもう、ここ数年、もしかしたら10年単位で一番落ち込んでいるほどに。
「あんまりどんよりしてたんじゃ、執刀が心配ですよ?僕が代わりにやりましょうか?」
軽口を叩きながら、デイブはからからと笑って私の肩にポンと手を置いた。
「そうだな、それも良いかもな……」
「え、ええっ?ちょ、ちょっとしっかりして下さいよ……」
デイブは大人しく同意してしまった私に随分と慌てたようだ。
「ええっと、ワンちゃんに何かあったんですか?」
いつものようにからかってハニーのことを「恋人」という比喩表現で呼ばないあたり、かなり深刻な事態を察したらしい。私が、彼女以外家族のいない天涯孤独の身――使者としてこの街に来た時にそういう設定にしてあった――であることを知っていて、気を使ってくれているのだろう。
そう、あった。大変な出来事が。
しかし私は返答する気力を絞り出せずに、ただ大きなため息をついた。
いつもと違う、理解し得ないハニーの振る舞いにこんなに動揺してしまっている自分にも驚き、呆れてもいた。
私がいけなかったのだろうか。
怯えさせてしまったのだろうか。
彼女はまた私を受け入れてくれるのだろうか。
万一受け入れてもらえないとしたら……
彼女の信頼を失うことを想像して、それはもし彼女の元の飼い主が現れたらと考えるときよりも苦痛で恐ろしかった。せめて彼女が言葉を話せたら、何が問題なのかと聞き出せるのに、と、起こり得ないことにすらすがりたくなっていた。
私は、無言で乗り込んだ階下に向かうエレベーターの中で、彼女との信頼関係を徐々に育てていった日々に思いを馳せた。
◆◆◆
庇護欲に駆られ、傷ついたハニーを少しでも癒やしてやれればと、私はよく彼女に話しかける様になっていった。
気がつけば、自分はこんなにも口数が多くなるものか、こんな喋り方も出来たのかと驚くほどだった。
「ただいま、ハニー。今日の調子はどうだい?」
帰宅して、顔を見るとまず声をかける。彼女は程なくして、ベッドに伏せたまま尻尾を振って応えてくれるようになった。
医者として働く私は、プライベートの時間は限られている。そして「使者」であり、半吸血鬼である以上、病院以外での一般人との関わりは極力避けた方が無難だと、私は考えていた。ただでさえ、数年単位で指令を受けて移動する生活である。友人と呼べる人間などおらず、恋人など以ての外であった。
それでいいと思っていた。
医者としての仕事はやり甲斐があったし、職場でなら同僚や患者とそれなりの人付き合いがある。
それが、「人にあらざるもの」である自分が望める最高の、「人間らしい」生き方であると、そう思っていた。
「今日は執刀が無かったんだ。ずっと書類整理と打ち合わせだったけど、座っている時間が長いのも考えものだよ。肩が凝って仕方がない。」
私は夕食の準備をしながら、ハニーに他愛もない世間話を語りかけるようになった。ベッドに居ることが多かった彼女は、自分が話しかけられているのを理解しているのか、それとも夕食が待ち遠しいのか、リビングの端まで来て夕食を待つようになった。そしてキッチンの中、そして私の隣へと、毎日ほんの少しづつ、距離を縮めてきた。
「お前はお利口さんだね。行儀よく待てが出来るんだから。楽しみにしてもらえてシェフは腕が鳴るよ。」
彼女が散歩に行くのを楽しみにする様子も、日に日に明らかになっていった。
「今日は夕食の前に行ってしまおうか。」
私がリードに手をかけて声をかけると、最初の頃はのそのそとゆっくりと私の元に来ていたが、日を追うにつれて、次第に足取りは軽やかになっていった。そのステップに合わせて優雅に揺れる尻尾は、見ていて心地いいものだった。終いには、タイミングを察して玄関の前でおすわりをして、私より先に待つようになった。
「分かっているよ。君のおかげで僕は運動不足にならないね?」
私が要求を理解していることを伝えると、彼女は舌を出して満面の笑みを返すようになった。
そう、しばらくして、私は彼女に表情があるのだということに気がついたのだった。それまでは、私は動物に感情があるのだという認識すら無かった。
犬の顔は、猫に比べて筋肉がよく発達している。基本は単独で暮らすネコ科の動物と違って、群れで暮らすことの多いイヌ科は、仲間とのコミュニケーションの為によく動く筋肉が備わったと言われている。私に慣れていくにつれて、ハニーの表情は私が見ても分かるほどリラックスして、明らかにポジティブな感情を浮かべたものに変わっていった。目尻を下げ、口の端を吊り上げた様子は、明らかに喜びの感情を伝えていた。
そして笑顔というのは、伝染するらしい。
「ヴィットーさん、なにかいいことでもあったんですか?」
職場の看護師に声をかけられ、次第に私が犬を飼っていると知れ渡り始めたのはその頃だった。私はハニーのおかげで、気が付かない内に、自分でもよく笑うようになっていたらしい。
夕食の後は、以前は書斎にいることが多かった。ステレオセットで音楽を流して、医療系の雑誌を読んだり、ペーパーバックの小説を読んだりしていたのだ。ある日、かちかちと足音がして、ハニーがドアを開けっ放しにしていた書斎の入り口に現れた。
「やあハニー、どうしたんだい?」
私は声をかけたが、彼女はじっと私を見て座り込むと、やがてその場に伏せて動かなくなった。私の側に来たかったのだと思うと、いじらしくて仕方がなかった。
翌日、またハニーが同じ場所に現れた。
「ハニー、入っていいんだよ。」
特に禁じた記憶はなかったが、行儀のいい彼女は私のスペースを尊重し、遠慮していたのだろう。声を掛けられて彼女は困惑したようだった。
「おいで、ハニー。」
私は座ったままかがみ込んで舌を鳴らし、彼女を呼んだ。ハニーは申し訳無さそうに目を細めて頭を下げ、しかし尻尾を振りながら私に駆け寄ってきた。私は、膝の上に顎を乗せた彼女の頭を優しく撫でてやった。
その日から、ハニーは私が書斎にいる間は私の足元で寝転ぶようになった。彼女のかわいい寝顔の写真を、私がスマホに収めるようになったのはこの頃だ。
彼女はあまり写真を取られるのは好きではないようで、毎回迷惑そうな表情を浮かべてはいたが。
やがて季節がめぐり、庭の植木の木の葉が色づいてくる季節になった。彼女は書斎の私の足元で眠る時、私の足にピッタリと身体を付けて丸まるようになった。それも可愛いと最初はこっそり身悶えていたが、やがて木が葉をすべて落とす季節になると、床に余分なブランケットを敷いたところで防寒には足らなくなって来た。
ある日、私はリビングにあるガスストーブのスイッチを初めて入れた。古風なデザインで、ガラス窓の内側で偽物の薪にガスの火が灯って見えるタイプだった。きちんとスチールの煙突が天井の外にまで伸びているものだ。
「これで随分と暖かくなるはずだよ。」
火の調整をするのを不思議そうに見ていたハニーに、私はそう言った。
床に敷こうと、書斎の奥にしまってあったラグを持ち出して来てリビングに戻ると、ストーブのすぐ前でおすわりをして、首をのけぞらせているハニーを見つけた。私は思わず吹き出してしまった。彼女は首だけかしげて、うっとりとした表情で私を見返した。相当気に入ったらしい。
「やけどには気をつけてくれよ、お嬢さん?」
笑いながらそう言って、一度彼女にどいてもらってストーブの前にラグを広げると、彼女はさっそくその上に寝転がった。
ううう、とうめき声を上げながら。
私は、動画を取っていなかったことを後悔した。
「お気に召していただいて何よりだよ。」
諦めてそう言いながら、彼女の横に寝転がり彼女の脇腹を撫でる。私はその日読もうと思っていた論文のことなどすっかり忘れて、その年一番の火のぬくもりと、彼女のやわらかい毛並みの感触をゆっくりと味わった。
翌日から、私は書斎に行く代わりにリビングのソファーにパソコンと雑誌を持ち出して、一日の終りのリラックスタイムを楽しんだ。直ぐ側の、ストーブの前がハニーのお気に入りの場所となっていた。
毛皮があると温度調節が難しいのか、ハニーはストーブの前にいる時は定期的に寝返りをうったり、場所を移動していた。ある時、暑すぎたのか、私が横になっているソファーまでトコトコとやってくると、私の腹にとんと顎を乗せた。私が微笑ましい気持ちで撫でてやると、気持ちよさそうに目を閉じた。私は映画の続きを見ながら、彼女を撫で続けた。
突然、彼女がビクリと動いた。
私が訝しげに見ると、顎を上げて気まずげに視線をそらし、口の周りを舐める。
私は察した。
座ったまま寝落ちて足の力が抜けたのだ。
私は少し笑ってから、意を決した。身を起こして彼女の腹に両手を回し、ひょいと自分の膝の上に抱え上げたのだ。
それまで私が彼女を抱え上げたのは、最初に獣医に連れて行ったときだけだった。彼女は車にもバスタブにも自分から入るので、抱き上げる必要がある場面が無かったのだ。急に持ち上げられて、彼女は緊張したようだった。身体がこわばっているのが伝わってきた。
赤ん坊のように私の腹に背を付けて抱かれた彼女は、どうすればいいか分からず前足をピンと伸ばしたままだった。尾はくるりと腹側に巻かれている。困ったように私を上目遣いで見上げてきた。
「これなら倒れないだろう?」
そして私の近くにもいられる。私は彼女を抱いたまま、再びソファーに寝転がった。
彼女は私を下敷きにしていることに、最初随分と気をもんだようだ。自分からは動くまいと、身体を硬直させていた。その様子が可愛らしくて、笑いながら何度も彼女を手荒に撫でた。
「心配いらないよハニー。君は羽みたいに軽いんだから。」
翌日、私は彼女が自分からはやってこないであろうことを見越して、勝手に彼女をひょいと抱き上げた。そして当たり前のように私の腹の上に抱いて映画を見た。彼女は困ったようにまぶたをひくひく動かして視線を泳がせていたが、やがて観念したように身体の力を抜いていた。
私はそれを何度も繰り返した。そして、ついには彼女にとってもそれが定位置となったようで、夕食後はいつでもソファーの側で尻尾を振って待っているようになった。
気がつけば、私は帰宅を心待ちにするようになっていた。
私を出迎えてくれるハニーの位置は、ピアノの下のベッドの上からリビングの中央、そしてドアの数歩前、最後にはドアにピッタリと張り付いた状態へと移動していった。私を見た時の彼女のはしゃぎようの度合いも、それとともに上昇していった。それを見る、私の彼女に対する愛しさも。
「ゴールデンらしい表情になってきましたね。」
健康診断と予防接種のために再度訪れた獣医のクリニックで、あの若い主治医が言った言葉だ。元来柔和で人好きであり、常に笑顔をたたえているようなこの犬種の本来の顔立ちに近づいてきているとのお墨付きだった。
「君のご主人様は、君の事をとても大切にしてくれてるみたいだね?君を見ればわかるよ。そうだろう?」
そう語りかける獣医に、ハニーは愛想よく微笑んで尻尾を振っていた。それを見て、褒めてもらったと言うのに何故だか私は面白くない気分になったのを覚えている。
◆◆◆
「『彼女』に吠えられたぁ?」
廊下を歩きながら、あまりに心配するデイブにぽつりぽつりと(当たり障りのない部分だけ)事情を話すと、返ってきたのは呆れきった口調だった。
「……はぁ、そんなことで……」
デイブは天を仰いで、両目を右手で覆ってしまった。
「そんなことで悪かったな。私にとっては一大事なんだよ。」
自分でもいじけたような態度になっていたのは分かる。大人気ないだろうとも。しかしそれが本音だった。自分の正直な気持ちを表現できるくらいには、私はこの若者とは打ち解けていた。
「あのねぇドクター、若い看護師たちが貴方のことなんて言ってるか知ってます?」
「残念な犬バカだとでも?」
「違いますよ!いいですか?」
デイブはわざわざ片手で覆いを作って耳打ちしてきた。
「……一晩でもいいからお願いしたい男性ナンバーワンですって……この罪作りめが!!」
最後の部分は小声にはなっておらず、私は背中を盛大に叩かれた。私より背の高いこの青年の遠慮のない愛情表現は中々に堪える。私は痛みを堪えながら言い返した。
「嘘をつけ。こんな髭面のおっさんがいいわけないだろう。」
「んなっ!?はぁ……貴方ねぇ、少しは自覚してくださいよ。そんで愛想振りまいて合コンでも主催してくださいよ。せっかくシングルなんですから。」
「こんな非社交的中年のどこがいいっていうんだ?」
「そこですよそこ!ミステリアスなところが……って第一病棟のローレンちゃんがっ。くぅ、羨ましい!」
「君はそういう情報をどこから仕入れてくるんだ?」
「コツコツ聞いて回るに決まっているでしょう?かわいい彼女をゲットするためには努力は惜しみませんよ。」
「君はいつだったか誰かと噂になっていなかったか?それも何回か別の女性と。」
「相性ってのは試さないとわからないもんなんですよ?」
さも当たり前とでも言いたげに物知り顔でそういう執刀補佐に、私は決して相容れない一線を感じたが、他人の恋愛観念に口を挟むつもりはなかったし、何より私がものを言える分野の話題ではなかったので、それ以上は詮索しないことにした。人それぞれである。
そう、私には語れないことだ。この先もずっと一人で有り続けるであろう私には。
そんなことより、そう、ハニーが……
「んん?……あーあー、まーたあの色ボケじーさんめ……」
デイブが言った言葉に、私は彼の視線の先を見やった。そこには、私が執刀予定の初老の男性が、鼻の下を伸ばした緩みきった表情で、明らかに引いている金髪の女性に迫っている姿があった。
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